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虐げられた俺は異世界で神を超える 〜傷ついた黒猫を助けたら、現実世界での復讐が始まった〜  作者: 覇王が好き


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第128話 砕かれた日常――西園寺琴音、交通事故

 西園寺家に、いつもと変わらない朝が訪れていた。


「お姉様! 早くしないと遅れちゃうよ!」


 食堂へ駆け込んできた琴音が、元気よく声を上げる。


 その姿を見て、麗華は小さく溜息をついた。


「琴音。廊下を走ってはいけませんわ」


「だって、今日は学校で発表があるんだもん!」


「だからこそ、落ち着いて準備なさい」


「はーい!」


 返事だけは素直だった。


 麗華は苦笑しながら、妹の制服の襟を直してやる。


「……ほら、曲がっていますわ」


「えへへ。ありがとう、お姉様!」


 琴音は嬉しそうに笑った。


 その笑顔を見て、麗華の表情も自然と柔らかくなる。


 十三歳の妹。


 少しお転婆で、好奇心旺盛。


 時々、姉をからかってくることもある。


 けれど、麗華にとっては、何より大切な家族だった。


「……そういえば、お姉様」


「何ですの?」


「今度、怜司さんはいつ来るの?」


「……っ!」


 麗華の手が止まった。


「な、なぜ突然、黒瀬さんのお話になるんですの?」


「だって、またお話ししたいんだもん!」


 琴音は楽しそうに笑った。


「優しいし、面白そうだし!」


「……黒瀬さんは、お忙しいんですのよ」


「えー。でも、お姉様は会ってるんでしょ?」


「それは……学校が同じですから」


「ふーん?」


 琴音が、にやりと笑った。


「お姉様、怜司さんのこと好きなんだ?」


「こ、琴音!」


 麗華の顔が真っ赤になった。


 その様子を見ていた母親が、くすくすと笑う。


「まあまあ、朝から仲がいいこと」


「お母様まで……!」


 父親も、新聞の向こうで小さく笑っていた。


 いつもの朝。


 いつもの会話。


 何の変哲もない、幸せな時間。


 それが、突然壊れることになるなんて。


 このときの誰も、想像していなかった。


     ◇


 午後三時過ぎ。


 琴音は学校を終え、友人と一緒に帰宅する途中だった。


「じゃあね、琴音!」


「うん! また明日!」


 友人と別れ、琴音は横断歩道の前で立ち止まった。


 信号は赤。


 通りを走る車の音が、耳に届く。


 琴音は鞄の持ち手を握り直した。


(……今日の発表、うまくいったな)


 先生にも褒められた。


 帰ったら、お姉様に報告しよう。


 そう考えていると、信号が青へ変わった。


 琴音は左右を確認し、横断歩道へ足を踏み出した。


 そのときだった。


 甲高いブレーキ音が響いた。


「――っ!?」


 顔を上げる。


 視界の端から、一台の車が迫っていた。


 交差点へ進入してきた車。


 減速する気配がない。


 周囲から悲鳴が上がった。


「危ない!」


 琴音は反射的に身体を引こうとした。


 だが。


 間に合わなかった。


 鈍い衝撃。


 身体が宙へ浮く。


 そして、アスファルトへ叩きつけられた。


「きゃあああっ!」


 誰かの悲鳴が響く。


 琴音は、何が起きたのか理解できなかった。


 痛い。


 身体中が痛い。


 息が、うまくできない。


(……お姉、様……?)


 視界がぼやけていく。


 誰かが駆け寄ってくる気配がした。


「救急車! 早く!」


「意識が……!」


 遠くで声が聞こえる。


 けれど、琴音にはもう、何も答えられなかった。


 最後に浮かんだのは、今朝の姉の顔だった。


(……ごめん、なさい……)


 そして。


 少女の意識は、暗闇へ沈んだ。


     ◇


 西園寺家の当主が、その連絡を受けたのは、仕事中のことだった。


 秘書が、青ざめた顔で執務室へ入ってきた。


「……会長」


「どうした?」


「……琴音お嬢様が、交通事故に遭われたそうです」


 その瞬間。


 当主の手から、ペンが落ちた。


「…………何?」


「救急搬送されています。現在、病院で処置を受けているとのことです」


 言葉の意味が、すぐには理解できなかった。


 琴音が。


 事故に。


「……容体は?」


 声が震えた。


 秘書は、言いにくそうに唇を噛んだ。


「……かなり、重いと」


 当主は、勢いよく立ち上がった。


「車を回してくれ!」


「はい!」


 執務室を飛び出す。


 頭の中が真っ白だった。


 今朝まで、あんなに元気だった娘。


 食卓で笑い、麗華をからかっていた琴音。


 その娘が、今。


 病院で、命の危機に瀕している。


(……頼む)


 当主は、心の中で何度も繰り返した。


(……どうか、無事でいてくれ……!)


     ◇


 聖蘭学園。


 麗華が連絡を受けたのは、放課後のことだった。


 スマートフォンが震える。


 画面に表示されたのは、母親の名前。


「……お母様?」


 通話をつなぐ。


『……麗華』


 母親の声が、震えていた。


「……どうなさいましたの?」


『……琴音が……』


 その一言で、胸がざわついた。


「……琴音が、どうしたんですの?」


『……事故に遭ったの』


 麗華の呼吸が止まった。


「…………え?」


『今、病院にいるの。お父様も向かっているわ』


「……事故?」


 頭が理解を拒んだ。


「……琴音が?」


『……お願い、麗華。落ち着いて聞いて』


 母親の声が、涙で途切れた。


『……かなり、危ない状態だって……』


 その瞬間。


 麗華の手から、スマートフォンが滑り落ちそうになった。


「…………」


 視界が揺れる。


 足元から、力が抜けていく。


 近くにいた澪が、異変に気づいた。


「……麗華さん?」


 麗華は答えられなかった。


「……どうなさいました?」


 澪が近づく。


 そのとき。


「……琴音が……」


 麗華の唇が震えた。


「……妹が、事故に……」


 澪の表情が変わった。


「……え?」


「……重傷で……病院に……」


 麗華は、それ以上言葉を続けられなかった。


 澪はすぐに彼女の肩を支えた。


「……麗華さん。私も一緒に行きます」


「……澪さん……」


「大丈夫です。まずは、病院へ向かいましょう」


 澪は落ち着いた声で言った。


 けれど、その手もわずかに震えていた。


 麗華は、何度も頷いた。


 そして、涙をこらえながら呟いた。


「……琴音……お願い……」


 いつもなら、どんな場面でも気丈に振る舞う少女。


 その麗華が、今はただ一人の姉として、妹の無事を願っていた。


     ◇


 病院の救急処置室。


 琴音は、懸命な救命処置を受けていた。


 医師や看護師たちが、慌ただしく動いている。


 重い外傷。


 複数箇所の骨折。


 大きな出血。


 意識は戻らない。


 医療チームは、できる限りの処置を続けていた。


 だが、状態は極めて厳しかった。


「……血圧が下がっています!」


「輸血を継続! 出血源の確認を急いで!」


 医師の声が響く。


 誰も諦めてはいない。


 けれど、時間が足りなかった。


 身体が受けた損傷は、あまりにも大きい。


 その頃。


 病院へ到着した西園寺家の当主は、廊下で妻と合流していた。


「……あなた……!」


 妻が駆け寄ってくる。


「……琴音は?」


 当主が尋ねる。


 妻は、首を横に振った。


「……まだ、処置中で……」


 その声が、涙に変わった。


「……どうしよう……あの子が……」


 当主は、妻を強く抱きしめた。


「……大丈夫だ」


 そう言いたかった。


 けれど。


 自分自身が、その言葉を信じられなかった。


 しばらくして、処置室の扉が開いた。


 医師が姿を見せる。


「……西園寺琴音さんのご家族ですね」


「はい!」


 当主が、すぐに答えた。


「娘は……娘は、どうなっていますか?」


 医師は、真剣な表情で口を開いた。


「……現在、懸命に治療を続けています」


 その言葉に、わずかな希望が灯る。


 だが。


「……非常に厳しい状態です」


 当主の胸が、冷たくなった。


「……厳しい、とは?」


「複数の重い外傷があり、出血も多く、循環状態が不安定です。できる限りの処置を行っていますが……」


 医師は、一度言葉を切った。


「……命を救えるかどうか、予断を許しません」


 妻が、その場に崩れ落ちそうになった。


 当主は、必死に支えた。


「……そんな……」


 声が、震えた。


 娘が。


 琴音が。


 死ぬかもしれない。


 その現実が、容赦なく突きつけられた。


     ◇


 やがて、麗華と澪が病院へ到着した。


「お父様!」


 麗華が駆け寄る。


「……琴音は!?」


 当主は、娘の顔を見た。


 今にも泣き出しそうな表情。


 いつもの気品も、冷静さも失われている。


 ただ、妹を心配する姉の顔だった。


「……今、先生方が治療してくださっている」


「……助かりますの?」


 麗華の声が震えた。


「……琴音は、助かりますの……?」


 当主は、すぐに答えられなかった。


 その沈黙が、何より残酷だった。


「……嫌……」


 麗華の目から、涙が溢れた。


「……そんなの、嫌ですわ……」


 澪が、そっと彼女を抱きしめた。


「……麗華さん」


「……今朝まで、元気だったんですのよ……」


 麗華は、震える声で続けた。


「……私をからかって、笑って……」


 涙が止まらない。


「……まだ、十三歳なんですのよ……!」


 当主は、拳を強く握った。


 爪が掌へ食い込む。


 それでも、痛みは感じなかった。


 そのときだった。


 ふと。


 数日前の出来事が、脳裏をよぎった。


 黒瀬怜司。


 あの少年が、家族全員へ渡してくれた小瓶。


『……もし、今の医療では助からないような大怪我をしたとき、最後の保険として持っていてほしいんです』


 あの言葉。


 あの、真剣な眼差し。


 当主は、ゆっくり顔を上げた。


「…………」


 胸の奥に、小さな光が灯った。


 まだ、ある。


 最後の可能性が。


「……麗華」


「……お父様?」


 当主は、震える声で尋ねた。


「……黒瀬君から預かった、あの薬は……」


 麗華が、はっと息を呑んだ。


「…………!」


 澪も、目を見開いた。


 上級回復ポーション。


 失われた身体さえ再生できるという、奇跡の薬。


 当主は、ゆっくり立ち上がった。


 そして、秘書へ向き直る。


「……屋敷に連絡してくれ」


「……はい?」


「あの薬を……今すぐ、病院へ届けさせるんだ!」


 声が、廊下に響いた。


 妻が顔を上げる。


 麗華も、涙に濡れた目で父親を見つめた。


 当主は、震える拳を握りしめた。


(……黒瀬君)


 心の中で、少年の名前を呼ぶ。


(……君の言葉を、信じさせてくれ……!)


 娘の命が、今。


 その小さな瓶へ、託されようとしていた。

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