第127話 大切な人たちへの贈り物――二つの名家に託した希望
九条院家を訪れることになったのは、翌週の土曜日だった。
以前、一度招待されたことのある屋敷。
それでも、門の前に立つと少し緊張してしまう。
「……よし」
俺は鞄の中身を確かめた。
丁寧に梱包した小瓶が三本。
九条院家の当主と奥様、そして澪さんの分だ。
ただし、今回は単なる贈り物ではない。
上級回復ポーション。
異世界では、欠損した手足の再生さえ可能とされる貴重な薬。
俺が今後、正式に商品化したいと考えているものの一つだった。
門をくぐると、玄関で澪さんが迎えてくれた。
「レイジさん。お待ちしていました」
「こんにちは、澪さん」
淡い水色のワンピースを着た澪さんが、嬉しそうに微笑む。
「今日はありがとうございます。お父様もお母様も、楽しみにしていらっしゃいます」
「こちらこそ、お時間をいただいてすみません」
「そんなことありませんよ」
澪さんは首を横に振った。
そして、少しだけ声を落とす。
「……それに、私もレイジさんにお会いできて嬉しいです」
「……俺もです」
自然とそう答えると、澪さんの頬がほんのり赤くなった。
「……ふふ」
何だか、こちらまで照れくさくなる。
そんなやり取りをしながら、俺たちは応接室へ向かった。
◇
「黒瀬君。よく来てくれたね」
九条院家の当主が、穏やかな笑顔で迎えてくれた。
「本日はお招きいただき、ありがとうございます」
「こちらこそ。君の話を聞けるのは、いつでも歓迎だよ」
奥様も微笑んでいる。
「レイジさん、どうぞ楽になさってね」
「ありがとうございます」
俺は席に着くと、鞄から小さな箱を取り出した。
「……実は、今日は皆さんにお渡ししたいものがあるんです」
箱を開ける。
中には、三本の小瓶が並んでいた。
淡い青緑色の液体。
透明な瓶の中で、光を受けて静かに揺れている。
「……これは?」
当主が目を細めた。
「上級回復ポーションです」
澪さんが、小さく息を呑んだ。
「……レイジさん」
俺は頷いた。
「美月さんの怪我を治したものと同じ系列ですが、さらに強い回復効果を想定して作ったものです」
当主は真剣な表情になった。
「……上級、ということは」
「はい。重い外傷や、失われた身体の一部を再生できる可能性があります」
室内が静かになった。
奥様が、驚いたように口元へ手を当てる。
「……そんなものが、本当に?」
「まだ日本で正式な検証を終えたわけではありません」
俺は慎重に答えた。
「だから、今すぐ使ってほしいわけではないんです」
三人の視線が、俺へ集まる。
俺は小瓶を見つめながら続けた。
「もし、皆さんの誰かが……今の医療では助からないような大怪我をしたら」
言葉を選ぶ。
「そのとき、最後の保険として持っていてほしいんです」
澪さんの表情が変わった。
「……私たちのために?」
「はい」
俺は、まっすぐ頷いた。
「九条院家の皆さんには、いつも助けてもらっています。それに……」
少しだけ、言葉が詰まる。
「澪さんも、ご両親も、俺にとって大切な人たちですから」
澪さんが、目を大きく見開いた。
その頬が、みるみる赤くなっていく。
「……レイジさん」
奥様は、娘の様子を見て柔らかく微笑んだ。
当主はというと。
「…………」
なぜか、しばらく黙っていた。
「……九条院さん?」
俺が声をかけると、当主ははっとしたように顔を上げた。
「……いや、失礼」
そして、静かに笑う。
「黒瀬君。君は本当に……」
そこで言葉を切った。
何だろう。
俺、何か変なことを言っただろうか。
すると、当主は真剣な表情で小瓶を見つめた。
「……しかし、これは非常に貴重なものではないのかな?」
「そうですね。普通に考えれば、かなり価値のあるものだと思います」
「ならば、無償で受け取るわけには……」
「いえ」
俺は首を横に振った。
「これは、事業のためじゃありません」
当主が顔を上げる。
「俺個人から、皆さんへの贈り物です」
少し照れくさかったけれど、はっきり伝えた。
「使わずに済むのが、一番です。でも……持っていてくれたら、俺も安心できるので」
当主は、しばらく俺を見つめていた。
そして、ゆっくり頷いた。
「……分かった。君の気持ちを、ありがたく受け取ろう」
奥様も微笑んだ。
「本当にありがとう、レイジさん」
「……ありがとうございます」
澪さんが、小さな声で言った。
その目元が、少しだけ潤んでいる。
「私たち家族のことまで、考えてくださっていたんですね」
「……はい」
俺が頷くと、澪さんは嬉しそうに微笑んだ。
◇
ただし、渡して終わりというわけにはいかない。
俺は同封した説明書を取り出した。
「一つだけ、必ず守ってほしいことがあります」
当主が頷く。
「聞かせてくれ」
「事故や大怪我をしたときは、まず救急車を呼んでください。これがあるからといって、病院へ行かなくていいわけじゃありません」
「当然だね」
「それから、これは未承認の試作品です。日本での安全性も、まだ十分には確認できていません」
俺は三人を順番に見た。
「だから、軽い怪我で試したり、誰かに勧めたりしないでほしいんです」
当主は真剣な表情で頷いた。
「……理解した。保管については?」
「直射日光を避け、専用の箱に入れてください。封が破れていたり、液体の状態が変わっていたら使わないでください」
俺は説明を続けた。
一本ごとに製造番号を記してあること。
使用する場合は、可能な限り医療従事者へ事情を説明してほしいこと。
そして、これはあくまで緊急時に備えるためのもので、通常の医療に代わるものではないこと。
当主は説明書へ目を通し、静かに頷いた。
「……黒瀬君」
「はい」
「君が、これを私たちへ渡してくれた意味は理解したよ」
その声は、先ほどまでより少し低かった。
「そして、これほどのものを家族のために用意してくれたことを、心から感謝する」
「……ありがとうございます」
奥様も、そっと頭を下げた。
澪さんは、箱を大切そうに見つめていた。
俺はその光景を見て、少しだけ安心した。
どうか。
この薬を使う日が、来ませんように。
心から、そう願った。
◇
午後。
九条院家を後にした俺は、その足で西園寺家へ向かった。
こちらも、以前招待されたことのある屋敷だ。
門の前で名前を告げると、ほどなくして麗華さんが姿を見せた。
「黒瀬さん。お待ちしておりましたわ」
「こんにちは、麗華さん」
麗華さんは、いつもの上品な笑顔を浮かべていた。
ただ、今日は少しだけ雰囲気が違う。
その理由は、すぐに分かった。
「……お姉様!」
屋敷の奥から、元気な声が響いた。
次の瞬間。
一人の少女が、小走りでやってきた。
肩まで伸びた柔らかな髪。
大きな瞳。
どことなく麗華さんに似た、整った顔立ち。
「……琴音。走らないでくださいませ」
麗華さんが少し困ったように言う。
「だって、お姉様のお友達が来たんでしょ?」
少女は俺を見上げた。
「……あっ!」
そして、ぱっと笑顔になる。
「黒瀬怜司さんですよね!」
「え? あ、はい」
「やっぱり!」
少女は嬉しそうに笑った。
「私、西園寺琴音です! 麗華お姉様の妹です!」
「……妹さん?」
「はい! 十三歳です!」
なるほど。
麗華さんに妹がいたんだ。
俺は少し驚きながら頭を下げた。
「黒瀬怜司です。よろしくお願いします」
「こちらこそ!」
琴音さんは、じっと俺を見つめた。
そして、にこっと笑う。
「……お姉様が、いつもお話ししてる人だ!」
「こ、琴音!」
麗華さんの声が裏返った。
「余計なことを言わないでくださいませ!」
「えー? だって本当でしょ?」
「琴音!」
麗華さんの頬が、みるみる赤くなる。
俺は思わず苦笑した。
……何だか、陽菜に似ているな。
妹というのは、どこの家でも姉や兄をからかうものなのかもしれない。
◇
応接室には、西園寺家の当主と奥様が待っていた。
「黒瀬君。よく来てくれたね」
「本日はありがとうございます」
「こちらこそ。麗華から、何か渡したいものがあると聞いているよ」
俺は頷いた。
そして、持参した箱をテーブルへ置いた。
中には、四本の上級回復ポーション。
当主。
奥様。
麗華さん。
そして、琴音さん。
家族全員の分だ。
「……これは?」
当主が尋ねる。
「上級回復ポーションです」
麗華さんが、はっと息を呑んだ。
「……黒瀬さん」
「はい。美月さんの怪我を治したものより、さらに上位の試作品です」
俺は、九条院家で説明した内容を、もう一度丁寧に伝えた。
重い外傷。
身体の欠損。
通常の医療では回復が難しい損傷。
そうしたものに対応できる可能性があること。
ただし、正式な検証を終えた薬ではないこと。
そして、すぐに使ってほしいわけではないこと。
「……万が一のときの、保険として持っていてほしいんです」
俺がそう言うと、当主は静かに箱を見つめた。
「……黒瀬君」
「はい」
「これは、私たち家族全員に?」
「はい」
俺は頷いた。
「いつもお世話になっていますし……皆さんには、元気でいてほしいので」
奥様が、柔らかく微笑んだ。
「……まあ」
麗華さんは、少し俯いていた。
その頬が、赤く染まっている。
そして。
「……怜司さん!」
琴音さんが、突然声を上げた。
「はい?」
「すごいです!」
少女は目を輝かせていた。
「お姉様のお友達って、こんなすごいものまで作れるんですね!」
「……いや、まだ研究中だから」
「でも、私たちのことを守ろうとしてくれてるんですよね?」
その言葉に、俺は少し驚いた。
琴音さんは、まっすぐ俺を見つめている。
「……そうですね」
俺は頷いた。
「使わないで済むのが一番ですけど」
「……ありがとうございます!」
琴音さんは、深く頭を下げた。
その姿に、俺は思わず笑った。
「こちらこそ」
麗華さんが、そっと妹の肩へ手を置いた。
「琴音。黒瀬さんを困らせてはいけませんわ」
「えー? 困らせてないよ?」
「……もう」
姉妹のやり取りに、当主と奥様も笑った。
温かな家庭だ。
そんなことを、自然と思った。
◇
帰り際。
麗華さんが、玄関まで見送ってくれた。
「黒瀬さん」
「はい?」
「……今日は、本当にありがとうございました」
「いえ。そんなに気にしないでください」
「気にしますわ」
麗華さんは、少し真剣な表情になった。
「私だけではなく、家族全員のことを考えてくださったんですもの」
俺は、少し照れくさくなった。
「……大切な人たちですから」
麗華さんの目が、大きく開いた。
そして、ゆっくりと微笑む。
「……黒瀬さん」
「はい」
「そのお気持ち、大切にさせていただきます」
その声は、いつもより少しだけ柔らかかった。
俺は頷いた。
「……ありがとうございます」
すると、奥から元気な声が響いた。
「お姉様ー! 怜司さん、もう帰っちゃうのー!?」
琴音さんだった。
麗華さんが、思わず額へ手を当てる。
「……琴音」
「また来てくださいねー!」
俺は笑いながら手を振った。
「はい。また機会があれば」
「約束ですよー!」
その声に、麗華さんが小さく溜息をついた。
けれど、その表情は嬉しそうだった。
◇
その夜。
西園寺家では、琴音が上級回復ポーションの入った箱を見つめていた。
「……お父様」
「どうしたんだい?」
「これ、本当にすごい薬なの?」
当主は少し考えたあと、頷いた。
「……まだ分からないことも多い。だが、黒瀬君が真剣に作ったものだということは確かだよ」
「……そっか」
琴音は、箱をそっと撫でた。
「……でも、使わない方がいいんだよね?」
「ああ。何事もなく過ごせるのが、一番だ」
琴音は、にこっと笑った。
「じゃあ、ずっと使わないで済むといいね!」
その言葉に、父親も微笑んだ。
「……そうだね」
麗華も、妹の頭を優しく撫でた。
「ええ。そうですわね」
このとき。
誰も、想像していなかった。
数日後。
その小さな瓶が、西園寺家の運命を大きく変えることになるなんて。
そして。
黒瀬怜司という少年の存在が、家族にとってどれほど大きな意味を持つことになるのか。
まだ、誰も知らなかった。




