第126話 家族に贈る小さな奇跡――怜司が守りたいもの
日曜日の夕方。
俺は自室の机に、小さな木箱を置いていた。
中に収められているのは、三本の青緑色の小瓶。
上級回復ポーション。
異世界ルミエールでは、失われた腕や脚さえ再生できるとされる、極めて高価な回復薬だ。
それを、日本で調達した材料と自分の魔力で作り上げた。
もちろん、魔石式製造機を使えば同じ品質のものを繰り返し製造できる。
だが、今夜用意した三本には、特別な意味があった。
「……父さんと母さん、それから陽菜の分」
俺は一本ずつ確かめながら呟いた。
自分の分は別に用意してある。
家族に渡す三本は、売るためでも、研究のためでもない。
ただ、守りたかった。
俺が異世界へ行けるようになってから、色々なことが変わった。
身体も、考え方も。
以前なら想像もしなかった人たちと出会い、今では会社を作る話まで進んでいる。
けれど、どれほど世界が広がっても、変わらないものがある。
父さん。
母さん。
そして、妹の陽菜。
俺にとって、一番身近で、大切な家族だ。
(……何かあってからじゃ、遅いもんな)
そう思った瞬間、少しだけ胸が締めつけられた。
事故も病気も、いつ起きるか分からない。
どれだけ気をつけていても、避けられないことがある。
もし、そんなときに俺の作った薬が役立つなら。
使わずに済むのが一番だけど、持っていてほしかった。
俺は木箱の蓋を閉じ、リビングへ向かった。
◇
「父さん、母さん。ちょっと話があるんだけど」
夕食を終えたあと。
俺が声をかけると、父さんが新聞から顔を上げた。
「ん? どうした、怜司」
黒瀬正臣。
四十四歳。
普段は仕事で忙しいけれど、家では穏やかで、俺たちの話をきちんと聞いてくれる父親だ。
母さんも、食器を片づける手を止めた。
「改まってどうしたの?」
「……実は、二つ話したいことがあって」
ソファでくつろいでいた陽菜が、すぐに反応した。
「えっ、お兄ちゃんの重大発表!?」
「そんな大げさなものじゃないよ」
「もしかして彼女できた!?」
「違うって!」
俺が即答すると、陽菜は楽しそうに笑った。
「えー、つまんなーい」
「陽菜。お兄ちゃんの話を聞いてあげなさい」
母さんに言われ、陽菜は素直に座り直した。
「はーい」
俺は一度、深呼吸した。
「……まず、会社を作ることを考えてるんだ」
「…………」
三人が、同時に黙った。
最初に反応したのは父さんだった。
「……会社?」
「うん」
「怜司が?」
「そう」
父さんは新聞をゆっくり畳んだ。
「……詳しく聞かせてくれるか?」
俺は頷いた。
自分で新しい製品を開発していること。
その製品について、九条院家と西園寺家の協力を受けながら研究を進めていること。
そして、将来的には自分の会社を設立し、製品を販売したいと考えていること。
もちろん、異世界の存在は話していない。
魔力や魔石についても、まだ秘密のままだ。
それでも、会社を作りたいという気持ちは本当だった。
「……なるほどな」
話を聞き終えた父さんは、しばらく考え込んでいた。
「九条院さんと西園寺さん、か」
「うん。二人とも、すごく親身になってくれてる」
「それはありがたい話だな」
父さんは頷いた。
けれど、すぐに真剣な表情になる。
「ただし、怜司」
「うん」
「相手がどれほど立派な人でも、契約の内容は自分で理解しなさい。分からないことがあれば、必ず確認することだ」
「……分かってる」
「それと、お前はまだ高校生だ。学校もあるし、無理をするなよ」
母さんも頷いた。
「そうよ。頑張るのはいいけど、身体を壊したら意味がないんだから」
「うん。ありがとう」
俺は自然と笑った。
反対されるかもしれないと思っていた。
けれど、二人は頭ごなしに否定しなかった。
それが嬉しかった。
「お兄ちゃん、社長になるの!?」
陽菜が目を輝かせた。
「まだ決まったわけじゃないけどね」
「すごーい! じゃあ私、社長の妹!?」
「……今と何も変わらないだろ」
「変わるよ! 響きがかっこいいもん!」
陽菜が得意げに胸を張る。
その様子に、父さんと母さんも笑った。
リビングに、いつもの温かな空気が戻ってくる。
俺は、その光景を見つめながら思った。
やっぱり、この時間が好きだ。
◇
「……それで、もう一つ話があるんだ」
俺は持ってきた木箱を、テーブルの上へ置いた。
陽菜が身を乗り出す。
「何それ? プレゼント?」
「まあ、そんなところかな」
蓋を開ける。
中には、三本の小瓶が並んでいた。
父さんが眉を上げる。
「……薬か?」
「うん。俺が開発した回復薬の試作品」
母さんが驚いたように俺を見た。
「怜司が作ったの?」
「そう」
俺は一本を手に取った。
「これは、上級回復ポーションっていう名前をつけてる」
「上級?」
陽菜が首を傾げる。
「ゲームのアイテムみたい!」
「……まあ、名前はちょっとそうかも」
俺は苦笑した。
実際、異世界で使われている名前なのだから仕方がない。
「でも、ふざけてるわけじゃないんだ」
俺は真剣な表情で続けた。
「これは、普通の治療では助からないような大怪我をしたときのために、持っていてほしいものなんだ」
三人の表情が変わった。
「……大怪我?」
父さんが尋ねる。
「うん。例えば、事故で腕や脚を失うような怪我をしたときでも、回復できる可能性がある」
「…………」
リビングが静まり返った。
母さんが、ゆっくり口を開いた。
「……怜司。それ、本当なの?」
「うん。少なくとも、俺はそういう効果を持つものとして作ってる」
俺は慎重に言葉を選んだ。
日本で正式な検証が終わったわけではない。
だから、絶対に治ると軽々しく約束することはできない。
「まだ研究中だから、普通の薬みたいに使ってほしいわけじゃない。病院へ行く必要があるときは、必ず病院へ行ってほしい」
俺は三人を順番に見た。
「ただ……どうしても助からないような状況になったとき、最後の保険として持っていてほしいんだ」
父さんは、小瓶を見つめていた。
やがて、静かに尋ねる。
「……どうして、これを俺たちに?」
俺は少しだけ笑った。
「決まってるよ」
父さんの目を見る。
「家族だから」
それだけだった。
特別な理由なんて、必要ない。
「父さんにも、母さんにも、陽菜にも……元気でいてほしいんだ」
母さんが、口元へ手を当てた。
陽菜も、いつものように茶化したりしなかった。
「……お兄ちゃん」
小さな声だった。
「そんなこと、考えてくれてたんだ」
「……まあね」
少し照れくさくなって、視線を逸らす。
すると、陽菜が立ち上がった。
「お兄ちゃん!」
「うわっ!?」
勢いよく抱きつかれる。
「ありがと!」
「……陽菜、苦しいって」
「えへへ!」
俺は苦笑しながら、妹の頭を軽く撫でた。
母さんも、目元を少し赤くしていた。
「……怜司。本当に優しい子に育ってくれたのね」
「母さん……大げさだよ」
「大げさじゃないわ」
母さんは、そっと俺の手を握った。
「ありがとう」
父さんは、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくり頷いた。
「……分かった。大切に預かるよ」
「うん」
「ただし、これが必要になるようなことは、起きない方がいいな」
「……本当に、そう思う」
俺も頷いた。
父さんは三本の瓶を見つめ、静かに言った。
「怜司。お前がどれほど大きな仕事をするようになっても、忘れないでほしいことがある」
「……何?」
「俺たちは、お前が成功することだけを望んでいるわけじゃない」
父さんは、穏やかに微笑んだ。
「お前が幸せに生きてくれれば、それで十分なんだ」
その言葉に、胸の奥が熱くなった。
俺は、ゆっくり頷いた。
「……ありがとう、父さん」
◇
その夜。
自室へ戻った俺は、机の上に残った木箱を見つめていた。
家族へ渡した三本。
それぞれが、万が一のときに役立ってくれればいい。
でも、できることなら。
一度も使われないまま、ずっと保管されていてほしい。
「……次は、澪さんと麗華さんの家族だな」
俺はノートを開いた。
九条院家。
西園寺家。
どちらも、俺の事業を真剣に支えてくれている。
そして、澪さんと麗華さんは、俺にとって大切な存在だ。
だからこそ。
彼女たちの家族にも、同じものを渡したいと思っていた。
もちろん、見返りが欲しいわけじゃない。
ただ、もしものときに守れる命があるなら。
その可能性を、手元に残しておいてほしかった。
俺はスマートフォンを手に取った。
澪さんと麗華さんへ、それぞれメッセージを送る。
『今度、ご家族の皆さんに渡したいものがあります。少し時間をいただけませんか?』
送信して、しばらくすると。
ほとんど同時に返信が届いた。
『もちろんです、レイジさん。お父様とお母様にも伝えておきますね』
『承知しました、黒瀬さん。お父様もきっと喜ばれますわ』
俺は画面を見つめ、自然と笑顔になった。
……本当に、ありがたいな。
自分の周りに、こんなにも信頼できる人たちがいる。
以前の俺なら、考えられなかったことだ。
俺は窓の外へ目を向けた。
静かな夜空に、星が瞬いている。
守りたいものが増えた。
大切な人が増えた。
だからこそ、もっと強くなりたい。
もっと多くのことを学びたい。
そして、いつか。
自分の力で、大切な人たちの未来を守れるようになりたい。
そんなことを考えながら、俺は次の準備を始めたのだった。




