第125話 億の価値を持つ少年――始まる共同事業計画
ポーションの成分分析が始まってから、俺は一つのことを強く意識するようになった。
それは、技術を持っていることと、その技術を社会で使えるようにすることは、まったく別だということだ。
異世界では、ポーションは当たり前のように売られている。
冒険者ギルドにも、商会にも、専門の調合職人にも。
けれど日本では違う。
人の身体に作用するものを販売するには、品質や安全性を確認し、必要な手続きを踏まなければならない。
俺がどれほど簡単に作れるとしても、その部分を省略するわけにはいかないのだ。
「……でも、何年も何もしないわけにもいかないよな」
日曜日の朝。
自室で資料を読みながら、俺は小さく呟いた。
できれば、早く自分の収入を増やしたい。
父さんや母さんに頼らず、自分の力で生活できるようになりたい。
それは、異世界へ行くようになってから、ずっと考えていることだった。
だからこそ、今回の事業には期待している。
ただ、急いで失敗するのは嫌だった。
そのとき、スマートフォンが震えた。
画面には、澪さんからのメッセージ。
『レイジさん。お父様から、事業計画について一度お話ししたいと連絡がありました。今日の午後、ご都合はいかがですか?』
続いて、麗華さんからも届いた。
『黒瀬さん。九条院家と西園寺家で、具体的な協力体制を検討することになりました。私も同席しますので、よろしければいらしてくださいませ』
「……もう、そこまで進んでるんだ」
思わず笑ってしまった。
二人のお父さんたちは、本当に行動が早い。
俺は予定を確認し、参加できることを伝えた。
◇
午後。
指定された会議室へ到着すると、すでに何人かの人が集まっていた。
九条院家と西園寺家の当主。
澪さんと麗華さん。
そして、前回紹介された榊原さんに加え、企業財務を専門とする担当者も同席していた。
「黒瀬君。よく来てくれたね」
九条院家の当主が笑顔で迎えてくれる。
「こんにちは。本日もよろしくお願いします」
「こちらこそ」
西園寺家の当主も頷いた。
「今日は、君にとって大切な話になると思うよ」
……大切な話。
少し緊張しながら席に着く。
すると、澪さんが隣から小さく微笑んだ。
「大丈夫ですよ、レイジさん」
「……ありがとうございます」
反対側では、麗華さんが資料を差し出してくれる。
「黒瀬さん。今日の議題はこちらですわ」
「ありがとうございます、麗華さん」
資料の表紙には、こう記されていた。
『新規回復技術研究開発事業――初期検討案』
……何だか、一気に本格的になった。
◇
「まず、結論から話そう」
九条院家の当主が口を開いた。
「私たちは、君の技術について、共同で研究開発を支援する方向で考えている」
「……共同で、ですか?」
「ああ。九条院家と西園寺家、それぞれの企業グループが持つ人材や設備を活用する」
西園寺家の当主が続ける。
「ただし、君の技術を私たちが買い取るという話ではないよ」
「……え?」
「むしろ、逆だ」
父親は静かに微笑んだ。
「技術の権利は、原則として君が持つべきだと考えている」
俺は思わず目を見開いた。
正直、そんな話になるとは思っていなかった。
大きな会社が協力してくれるなら、技術を渡す必要があるのかもしれない。
そう考えていたからだ。
「……でも、それだと皆さんに利益がないんじゃ……」
俺が尋ねると、九条院家の当主が笑った。
「黒瀬君。事業には、いろいろな協力の形があるんだよ」
「……協力の形?」
「資金を出す。研究設備を提供する。専門家を集める。製造や販売を支援する。その対価を、契約で定めればいい」
西園寺家の当主も頷く。
「君が技術を失う必要はない。むしろ、技術を守る仕組みを作った方が、長期的には全員にとって利益になる」
なるほど。
俺はノートへ書き込んだ。
技術の権利。
研究開発費。
利益配分。
契約。
今まで、ほとんど考えたことのない言葉ばかりだ。
「それに、君はまだ高校生だ」
九条院家の当主が続ける。
「大きな契約を結ぶなら、ご両親にもきちんと説明し、必要な同意を得なければならない」
「……父さんと母さんに、ですか」
「もちろんだよ」
その言葉に、俺は少しだけ考え込んだ。
異世界の秘密は、まだ家族にも話していない。
ポーションの製法についても、すべてを説明することはできない。
けれど、自分が事業を始めようとしていることまで隠し続けるのは、違う気がした。
「……分かりました」
俺は頷いた。
「両親には、俺から話してみます」
九条院家の当主が満足そうに微笑んだ。
「それがいい」
◇
「次に、事業としての価値についてです」
財務担当者が資料を開いた。
「現時点では、製品の安全性や有効性が正式に確認されたわけではありません。そのため、確定的な企業価値を算定することはできません」
「……はい」
「ただし、仮に短時間で外傷を回復させる効果が再現可能で、適切な承認を得られるとすれば、その市場価値は非常に大きくなります」
俺は息を呑んだ。
「……どのくらい、ですか?」
担当者は少し考えたあと、慎重に答えた。
「用途や製造コスト、承認までの期間によって大きく変わりますが、成功した場合、年間数十億円規模の事業になる可能性は十分に考えられます」
「…………」
数十億。
聞き間違いかと思った。
今まで俺が扱ってきた金額とは、桁が違いすぎる。
「……数十億、ですか?」
「ええ。ただし、これは成功した場合の仮定です。現時点でその価値があると確定したわけではありません」
担当者は丁寧に付け加えた。
俺は、ゆっくり頷いた。
それでも、衝撃は大きかった。
自分が作ったものが、そんな規模の事業になるかもしれない。
そんなこと、考えたこともなかった。
すると、麗華さんが静かに口を開いた。
「黒瀬さん」
「……はい」
「驚かれるのも無理はありませんわ。でも、私はそれほど不思議ではないと思っています」
「……どうしてですか?」
「だって、あの薬は美月さんの怪我を治したんですもの」
麗華さんは、まっすぐ俺を見つめた。
「もし同じ効果が多くの人に届けられるなら、それだけの価値があってもおかしくありませんわ」
澪さんも頷いた。
「そうですね。怪我で苦しんでいる方や、治療に長い時間がかかる方にとっては、とても大きな希望になると思います」
俺は二人を見つめた。
そうか。
金額だけを見ていたから、驚いたんだ。
でも、その向こうには、薬を必要とする人たちがいる。
そのことを忘れてはいけない。
「……ありがとうございます」
俺は小さく笑った。
「少し、落ち着きました」
◇
「さて、黒瀬君」
西園寺家の当主が、少し身を乗り出した。
「ここからは、君自身の希望を聞きたい」
「……俺の希望、ですか?」
「ああ。研究開発を進めるにあたって、どのような立場で関わりたい?」
俺は考えた。
大きな会社に任せて、利益だけを受け取る。
そんな方法もあるのかもしれない。
でも、それでは自分が何をしているのか分からなくなりそうだった。
俺は、自分の力で稼ぎたい。
そして、自分の技術がどう使われるのかを、きちんと見届けたい。
「……できれば」
俺はゆっくり口を開いた。
「自分の会社を作りたいです」
会議室が静かになった。
「……ほう」
九条院家の当主が、興味深そうに目を細める。
「自分の会社、か」
「はい」
俺は頷いた。
「まだ、経営のことはほとんど分かりません。でも、勉強して、自分で責任を持てるようになりたいです」
少し緊張した。
高校生が、こんなことを言って笑われないだろうか。
けれど。
「……素晴らしい」
西園寺家の当主が、静かに笑った。
「いい目標だね」
「……え?」
「もちろん、簡単なことではないよ。だが、君が自分で責任を負う覚悟を持っているなら、私たちはそのための支援を考えよう」
九条院家の当主も頷く。
「まずは研究開発のための法人を設立する方法もある。実際の形は、法務や税務の専門家と相談して決めればいい」
俺は思わず息を吐いた。
否定されなかった。
それどころか、真剣に受け止めてもらえた。
「……ありがとうございます」
胸の奥が、熱くなった。
◇
「それから、もう一つ」
九条院家の当主が資料を閉じた。
「君には、早い段階で正当な収入を得られる仕組みも考えたい」
「……収入、ですか?」
「ああ。医薬品としての販売には時間がかかる。だが、その間も君は技術を提供し、研究に協力することになる」
西園寺家の当主が続ける。
「研究開発の契約を結び、実際に提供する技術や業務に対して適切な報酬を支払う方法はある。ただし、契約内容や税務上の扱いは慎重に整理する必要がある」
俺は目を見開いた。
「……つまり、商品が発売される前でも、収入を得られる可能性があるんですか?」
「そういうことだよ」
九条院家の当主が微笑んだ。
「もちろん、根拠のない大金を渡すわけにはいかない。技術の価値や研究への貢献を評価し、公正な条件を決める必要がある」
「……なるほど」
俺は深く頷いた。
それなら、俺が目指していた経済的な自立にも近づける。
商品化を待つだけではなく、研究開発そのものを仕事にできる。
そんな考え方があるなんて、知らなかった。
「……勉強になります」
思わず言うと、二人の父親が笑った。
「まだまだ、これからだよ」
「ええ。君には学ぶことが山ほどある」
俺も笑った。
「……頑張ります」
◇
会議の終盤。
今後の方針が整理された。
まず、研究開発体制を正式に整える。
次に、試作品の追加分析と、適切な安全性評価を進める。
そのうえで、製造工程の再現性を確認し、必要な許認可について専門家と協議する。
そして、俺自身の技術と権利を守るための契約を準備する。
「……黒瀬君」
九条院家の当主が、最後に言った。
「これから先、君にはいろいろな話が持ち込まれるかもしれない」
「……はい」
「魅力的な条件もあれば、君に不利な条件もあるだろう」
西園寺家の当主も頷いた。
「だから、分からない契約には絶対に署名しないこと。必ず信頼できる専門家に確認してもらいなさい」
「……分かりました」
俺は真剣に頷いた。
すると、澪さんが柔らかく微笑んだ。
「レイジさん。私も、できる限りお手伝いします」
「私もですわ」
麗華さんが続ける。
「黒瀬さんが一人で抱え込まないように、きちんと支えます」
二人の言葉に、胸が温かくなった。
「……本当に、ありがとうございます」
俺がそう言うと、澪さんが少し頬を赤くした。
「……ふふ。どういたしまして」
麗華さんも微笑む。
「お礼は、まだ早いですわよ」
そのやり取りを見ていた二人の父親が、また妙な顔をした。
「……九条院さん」
「……何でしょう、西園寺さん」
「どうやら、娘たちは随分と熱心ですな」
「……ええ。実に頼もしいことです」
「……そうですな」
そして、二人は同時に笑った。
ただ、その笑顔には、どこか負けられないという気持ちが滲んでいた。
◇
会議を終えた帰り道。
俺は一人、駅へ向かって歩いていた。
手には、今日受け取った資料。
そこには、研究開発法人の設立案や、今後の契約に関する説明がまとめられている。
まだ、何も決まったわけではない。
会社もできていない。
商品も発売されていない。
けれど。
確かに、未来が動き始めている。
「……自分の会社、か」
小さく呟く。
以前の俺なら、そんなことを考えることすらなかった。
学校では、誰かの顔色を窺っていた。
自分に価値なんてないと思っていた。
将来のことを考える余裕もなかった。
でも今は。
自分の技術で、人を助けられるかもしれない。
自分の力で、お金を稼げるかもしれない。
そして、家族や大切な人たちを守れるかもしれない。
その可能性が、目の前に広がっている。
(……絶対に、形にしてみせる)
俺は、強く拳を握った。
もちろん、簡単な道ではないだろう。
でも、もう逃げるつもりはない。
分からないことは学べばいい。
できないことは、できるようになればいい。
俺には《万象習得》がある。
そして、信じてくれる人たちがいる。
それだけで、十分だった。
夕暮れの街を歩きながら、俺は少しだけ笑った。
黒瀬怜司。
かつて、何者でもなかった少年。
その少年が今、自分自身の手で未来を切り開こうとしていた。
そして。
その未来には、まだ誰も想像していないほど大きな可能性が眠っていた。




