第123話 二人の当主との商談――少年が示した奇跡の価値
土曜日の午後。
俺は一枚の名刺を見つめながら、ホテルのエレベーターに乗っていた。
名刺に記されているのは、九条院家が所有する企業グループの名前。
その下には、会議室の階数が書かれている。
「……まさか、こんな場所で話をすることになるとは」
思わず呟いた。
数日前までは、ただの試作品だった。
異世界でポーションを見つけ、日本で再現できるか試してみた。
それが今、九条院家と西園寺家の当主を相手に、正式な商談をすることになっている。
人生って、本当に何が起こるか分からない。
エレベーターが静かに止まった。
扉が開くと、落ち着いた雰囲気の廊下が広がっている。
案内係に名前を告げると、すぐに会議室へ通された。
「レイジさん!」
扉の向こうから、澪さんの声がした。
「こんにちは、澪さん」
「お待ちしていました」
淡い色のワンピースを着た澪さんが、柔らかな笑顔で迎えてくれる。
その隣には、麗華さんもいた。
「黒瀬さん。お時間ぴったりですわね」
「こんにちは、麗華さん。遅れなくてよかったです」
「ふふ。そんなに緊張なさらなくても大丈夫ですわ」
「……顔に出てました?」
「少しだけ」
二人が楽しそうに笑った。
その笑顔を見て、少しだけ肩の力が抜ける。
会議室の奥には、九条院家と西園寺家の父親たちが座っていた。
先日の合同食事会では、娘たちの話題で何度も笑い合った二人だ。
けれど今日は、雰囲気が違う。
柔らかな表情の奥に、経営者としての鋭さがあった。
「黒瀬君。よく来てくれたね」
九条院家の当主が立ち上がる。
「お招きいただき、ありがとうございます」
「こちらこそ。今日は君の話を聞けるのを楽しみにしていたよ」
続いて、西園寺家の当主も手を差し出した。
「久しぶりだね、黒瀬君」
「ご無沙汰しています」
「麗華から聞いたよ。どうやら、また驚かせてくれるらしいじゃないか」
「……まだ、どこまでできるか分からないんですけど」
「それを確かめるための場だ。気負わなくていい」
俺は二人と握手を交わし、席に着いた。
澪さんが俺の右隣へ。
麗華さんが左隣へ。
……あれ?
何となく、先日の合同食事会を思い出す配置だ。
向かい側では、二人の父親が一瞬だけ視線を交わしていた。
どうやら、気のせいではなさそうだった。
◇
「まずは、君が何を作ったのか聞かせてもらえるかな」
九条院家の当主が切り出した。
俺は持参した資料を机へ並べた。
「身体の損傷を回復させることを目的とした、液体の試作品です」
「成分表は?」
「こちらです。原材料と、現時点で把握している配合成分をまとめています」
西園寺家の当主が資料を手に取る。
「……ふむ。特殊な原材料ばかりというわけではないんだね」
「はい。日本国内で調達できるものを使っています」
「製造も国内で?」
「試験的には、できています」
俺は小型の製造機についても説明した。
ただし、魔石や魔力のことは話していない。
中核部分は独自技術として保護したいこと。
外部へ公開できるのは、原材料や製造工程のうち、秘密に触れない範囲であること。
その二点は、最初に明確に伝えた。
「……なるほど」
九条院家の当主が頷く。
「秘密にしたい技術があるのは理解できる。ただ、医薬品として開発するなら、規制当局や必要な専門家へ説明すべき情報まで隠すことはできない。その点は分かるね?」
「はい」
俺は頷いた。
「だから、今のまま売ろうとは思っていません。どう進めればいいのか、教えていただきたくて」
二人の父親が顔を見合わせた。
そして、西園寺家の当主が小さく笑った。
「……いい答えだ」
「え?」
「自分の技術に自信を持つのは大切だ。しかし、知らない分野まで分かったつもりにならないことも同じくらい大切なんだよ」
九条院家の当主も頷く。
「君は、きちんと助けを求められる。それは経営者として重要な資質だ」
思いがけない言葉に、少し照れくさくなった。
「……ありがとうございます」
すると、澪さんが嬉しそうに微笑んだ。
「レイジさんは、いつもそうなんです」
「澪さん?」
「分からないことがあっても、投げ出さずに調べようとなさるんです」
麗華さんも頷いた。
「それに、周囲の意見をきちんと聞いてくださいますわ」
二人から褒められ、ますます顔が熱くなる。
「……そんなに褒められると、困ります」
向かい側で、二人の父親が妙に満足そうな顔をしていた。
◇
「さて」
西園寺家の当主が、机の上で指を組んだ。
「麗華から聞いた話では、負傷した生徒の怪我が、短時間で治ったそうだね」
「……はい」
「それは、君自身も確認したのかな?」
「はい。俺も、その場にいました」
俺は美月さんの怪我について説明した。
捻挫。
膝の裂傷。
ポーションを飲んだあと、痛みと腫れが消え、傷口が塞がったこと。
ただし、客観的な医療記録や第三者による検証は、まだ揃っていない。
「……なるほど」
二人の父親は、真剣に耳を傾けていた。
「もし再現性が確認できれば、大変なことになる」
九条院家の当主が静かに言った。
「しかし、一度の出来事だけで効果を断定するわけにはいかない。まして、未承認の試作品を人に使うことは、今後絶対に避けなければならない」
「……はい」
俺は素直に頷いた。
美月さんを助けられたことは、本当に嬉しかった。
けれど、あのときの判断が危険を伴うものだったことも理解している。
「今後は、きちんとした方法で確かめたいです」
「それがいい」
西園寺家の当主が頷く。
「必要な専門家を揃えよう。薬事、法務、知的財産、分析化学。それぞれの分野に詳しい人間が必要だ」
「ただし、最初から大勢を巻き込むべきではないね」
九条院家の当主が続けた。
「まずは少人数で、守秘義務を明確にしたうえで進めよう」
俺はノートを開き、二人の話を書き留めた。
知らない言葉も多い。
けれど、一つずつ理解していけばいい。
そう思えるようになっていた。
◇
「黒瀬君」
九条院家の当主が、少し表情を和らげた。
「一つ、聞いてもいいかな」
「はい」
「君は、この事業で何を実現したい?」
俺は、すぐには答えられなかった。
お金を稼ぎたい。
それは間違いない。
経済的に自立して、家族に負担をかけず、自分の人生を選べるようになりたい。
でも、それだけではない。
ギルドで見た、怪我をした冒険者。
保健室で涙をこらえていた美月さん。
あの光景が、頭に浮かんだ。
「……まずは、自分の力で稼げるようになりたいです」
俺は正直に答えた。
「将来、誰かに頼らなくても、自分で選択できるようになりたいので」
二人の父親は、何も言わずに聞いている。
「でも……もし、この技術が本当に人を助けられるなら」
俺は顔を上げた。
「怪我や病気で困っている人が、少しでも元の生活を取り戻せるようにしたいです」
澪さんが、静かに俺を見つめた。
麗華さんも、柔らかな表情になっている。
「……なるほど」
西園寺家の当主が、ゆっくり頷いた。
「利益を求めることを恥じる必要はないよ。利益がなければ、研究も製造も続けられないからね」
「そうですね」
九条院家の当主も続けた。
「ただし、人命に関わる事業なら、利益だけを優先してはいけない。君が今言った二つの目標は、両立させる価値がある」
俺は深く頷いた。
「……はい」
すると、九条院家の当主が微笑んだ。
「それなら、私たちにも手伝わせてくれないかな」
「……え?」
「もちろん、無条件に事業を預かるという意味ではない。君の技術は君のものだ。その権利を守りながら、必要な体制を整える手伝いをしたい」
西園寺家の当主も頷く。
「私も同じ考えだよ。資金や人脈を提供するにしても、君が納得できる契約でなければ意味がない」
俺は二人を見つめた。
こんな大きな家の当主たちが、俺の話を真剣に聞いてくれている。
しかも、ただ利用しようとするのではなく、俺自身の立場を考えてくれている。
「……ありがとうございます」
自然と、頭が下がった。
「ぜひ、お願いします」
その瞬間。
澪さんと麗華さんが、同時に嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「よかったですね、レイジさん」
「ええ。これで、ようやく本格的に進められますわね」
「二人のおかげです」
俺がそう言うと、澪さんが少し頬を赤くした。
「……そんな」
麗華さんも、口元を緩める。
「お礼なら、結果が出てからにしてくださいませ」
向かい側では、二人の父親が娘たちを見つめていた。
そして、九条院家の当主が小さく呟く。
「……澪が、あんなに嬉しそうに」
西園寺家の当主も、負けじと返した。
「麗華も、実にいい表情をしている」
「……そうですね」
「……ええ」
何だか、妙な空気になった。
けれど、すぐに二人は咳払いをして話を戻した。
◇
面談の最後。
俺は持参していた小さな保管ケースを机へ置いた。
「……実は、試作品を持ってきています」
二人の父親の視線が集まる。
「ただし、人に使用するためではありません。成分分析などに使っていただければと思って」
ケースの中には、密封された数本の小瓶が収められていた。
それぞれに製造日と試作品番号を記してある。
「……よく準備してきたね」
九条院家の当主が感心したように言った。
「ありがとうございます」
「分析機関への受け渡しは、適切な手順を整えてからにしよう」
西園寺家の当主が頷く。
「試料の保管条件や取り扱いについても確認が必要だ。今日は預からず、まず専門家に相談して進め方を決めよう」
「分かりました」
俺はケースを鞄へ戻した。
そして、会議室を出る前に、もう一度二人へ頭を下げた。
「今日は本当にありがとうございました」
「こちらこそ、黒瀬君」
九条院家の当主が笑う。
「次に会うときは、もっと具体的な話ができるはずだ」
「楽しみにしているよ」
西園寺家の当主も頷いた。
澪さんと麗華さんに見送られ、俺はホテルを後にした。
外へ出ると、午後の陽射しが街を照らしていた。
鞄の中には、まだ誰も知らない回復薬。
そしてノートには、今日教わった新しい知識がぎっしりと詰まっている。
(……本当に、始まるんだな)
少し前まで、俺はただ、異世界で強くなりたいと思っていた。
でも今は違う。
自分の力で、新しい価値を生み出したい。
誰かの役に立ちながら、経済的にも自立したい。
そのための道が、ようやく見え始めた。
俺は鞄の肩紐を握り直し、歩き出した。
この小さな一歩が、やがてどれほど大きなものになるのか。
そのときの俺には、まだ想像もできなかった。




