第122話 二つの名家、始動――奇跡の薬が動かす未来
その夜。
九条院家の食卓には、いつも通り穏やかな時間が流れていた。
だが、澪の表情は普段とは少し違っていた。
食事を終え、紅茶が運ばれてきたところで、彼女は静かに口を開いた。
「……お父様、お母様。少し、お話ししたいことがあります」
父親が顔を上げる。
「どうしたんだい、澪?」
「先日お話しした、レイジさんの新しい商品についてです」
その言葉に、父親の目がわずかに鋭くなった。
「……黒瀬君の開発品か」
「はい」
母親も興味深そうに微笑む。
「まあ。あのレイジさんのお話なのね」
澪は頷いた。
そして、今日の出来事をゆっくりと語り始めた。
美月が練習中に転倒したこと。
足首を捻挫し、膝に深い裂傷を負ったこと。
明後日の試合への出場が難しいと思われたこと。
そして。
怜司が、自分の開発した回復薬を差し出したこと。
「……待ちなさい、澪」
父親が、途中で話を止めた。
「その薬を、実際に飲んだのかい?」
「はい。美月さんが、ご自分の意思で」
父親の表情が険しくなる。
「……それは、非常に慎重に考えなければならないことだね」
「……はい」
「未承認の試作品を人が服用することには、危険が伴う。黒瀬君にも、その点はきちんと理解してもらう必要がある」
澪は静かに頷いた。
「レイジさんも、そのことは分かっていらっしゃいました。だからこそ、今後は正式な検証を進めたいと考えているんです」
「……なるほど」
父親は一度、深く息を吐いた。
「それで……結果は?」
澪は、父親の目をまっすぐ見つめた。
「……治りました」
「…………何?」
「美月さんの怪我が、治ったんです」
食卓に沈黙が落ちた。
「……澪」
父親が、ゆっくりと口を開く。
「それは、痛みが和らいだという意味かな?」
「いいえ」
澪は首を横に振った。
「腫れていた足首が元に戻り、膝の裂傷も完全に塞がりました」
「…………」
「それも、ほんの数十秒ほどで」
父親の手が止まった。
母親も、驚いたように目を見開いている。
「……数十秒?」
「はい。私も麗華さんも、その場で見ていました」
澪は、自分の手を胸元で重ねた。
今でも、はっきり覚えている。
美月の傷が消えていく光景。
痛みがなくなったと叫んだ声。
そして、怜司へ抱きついて泣きながら感謝していた姿。
「……夢でも見ていたのではないかと、思いました」
澪は小さく笑った。
「でも、確かに起きたことなんです」
父親は、しばらく何も言わなかった。
やがて、ゆっくりと椅子へ背を預ける。
「……信じ難い話だ」
「……はい」
「だが、澪が嘘をつくとは思えない」
父親は真剣な目で娘を見つめた。
「そして、君がそこまで確信を持って話すのなら、少なくとも調査する価値はある」
母親が、静かに口を開いた。
「あなた……もし本当なら、たくさんの人を救えるのではなくて?」
「……ああ」
父親は頷いた。
「だが、同時に非常に大きな責任を伴う」
医療に関わる技術。
しかも、これまでの常識では説明できないほどの回復効果。
もし本当に存在するなら、世界中が注目するだろう。
しかし、その価値が大きいからこそ、慎重に扱わなければならない。
「……澪」
「はい、お父様」
「黒瀬君は、私たちに協力を求めているのかい?」
「正式には、まだです。ただ、専門家への相談については、協力していただけると嬉しいと」
「……分かった」
父親は静かに頷いた。
「ならば、まずは彼の意向を確認しよう」
そして、少しだけ笑みを浮かべる。
「……それにしても、黒瀬君には驚かされてばかりだね」
母親が、くすりと笑った。
「ふふ。澪が夢中になるのも、分かる気がするわ」
「お、お母様……!」
澪の頬が真っ赤になった。
父親は一瞬、複雑そうな顔をした。
だが、すぐに咳払いをする。
「……それとこれとは別の話だよ」
「本当に?」
「……もちろんだとも」
母親の笑顔は、ますます楽しそうになった。
◇
同じ頃。
西園寺家でも、よく似た会話が交わされていた。
「……麗華」
父親は、娘の話を聞き終えたあと、しばらく黙っていた。
「もう一度、確認してもいいかね?」
「もちろんですわ」
「橘さんの怪我が、薬を飲んだだけで治ったと?」
「はい」
「足首の捻挫も?」
「はい」
「膝の裂傷も?」
「跡形もなく」
「…………」
父親は額へ手を当てた。
「……これは、想像以上だな」
隣に座っていた母親も、驚きを隠せない様子だった。
「麗華。それは、本当に黒瀬さんが開発されたものなの?」
「そうですわ」
麗華は、まっすぐに答えた。
「黒瀬さんご自身が、そうおっしゃっていました」
父親は深く息を吐いた。
以前から、怜司が優秀な少年であることは感じていた。
礼儀正しく、落ち着いていて、自分の考えを持っている。
娘が惹かれる理由も、理解できる。
だが。
今回の話は、まったく別の次元だった。
「……もし事実なら、医療の世界に大きな影響を与える可能性がある」
「私も、そう思いますわ」
「しかし、だからこそ軽々しく扱うわけにはいかない」
父親は真剣な表情で続けた。
「安全性、再現性、有効性。そして、法的な手続き。どれ一つ欠けても、社会へ出すべきではない」
「……はい」
「それに、黒瀬君の権利を守る必要もある」
麗華が顔を上げた。
「……権利、ですか?」
「ああ。もし本当に彼が独自に開発した技術なら、その価値は計り知れない。大人たちの都合で奪われるようなことがあってはならない」
その言葉に、麗華の表情が柔らかくなった。
「……お父様」
「何だい?」
「ありがとうございます」
父親は少し驚いた。
「……まだ何もしていないよ」
「いいえ。黒瀬さんのことを、きちんと考えてくださっているから」
麗華は嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔を見て、父親の胸が温かくなる。
そして同時に、少しだけ寂しくもなった。
(……本当に、あの少年が大切なのだな)
娘が誰かを想い、その人のために真剣になる。
親としては喜ばしいことだ。
だが、父親としては複雑な気持ちもある。
母親が、その表情を見逃すはずもなかった。
「あなた。そんな顔をなさらないで」
「……どんな顔だい?」
「娘を取られそうで寂しいお顔よ」
「……そんなことはない」
麗華が、真っ赤になって声を上げる。
「お、お母様! 何をおっしゃっていますの!」
母親は楽しそうに笑った。
「ふふ。何でもないわ」
父親は咳払いをした。
「……ともかく、黒瀬君の話は真剣に考える必要がある」
そして、机の上に置いたスマートフォンへ手を伸ばした。
「九条院さんにも、確認してみよう」
◇
数分後。
九条院家の当主のスマートフォンが震えた。
画面には、西園寺家の当主からの着信が表示されていた。
「……もしもし」
『九条院さん。夜分に失礼します』
「いえ、構いませんよ」
『……澪さんから、何かお聞きになりましたかな?』
九条院家の当主は、静かに笑った。
「ええ。ちょうど先ほど」
『……やはり』
電話の向こうで、短い溜息が聞こえた。
『正直、驚いております』
「私もですよ」
二人の声には、普段のような軽い対抗心だけではないものがあった。
経営者としての緊張感。
そして、未知の技術に対する強い関心。
「……西園寺さん」
『はい』
「もし本当に、あの回復効果が再現できるのであれば……これは相当な話になります」
『ええ。単なる新商品という規模ではありませんな』
「ですが、焦るべきではない」
『同感です。まずは黒瀬君本人の意思を確認し、適切な専門家を揃えるべきでしょう』
二人の意見は、驚くほど一致していた。
法務。
知的財産。
薬事。
成分分析。
安全性試験。
そして、研究開発体制。
必要なものは多い。
だが、両家には、それらを整えるための経験と人脈があった。
「……共同で動きますか?」
九条院家の当主が尋ねた。
電話の向こうで、西園寺家の当主が小さく笑う。
『それが最善でしょうな』
「では、まずは黒瀬君と面談を」
『ええ。本人の希望を最優先に』
そこで、少しだけ沈黙が流れた。
そして。
『……ところで、九条院さん』
「何でしょう?」
『黒瀬君との面談場所ですが、我が家で用意しても構いませんぞ』
「いえいえ。こちらにも適した会議室がありますから」
『遠慮なさらず』
「こちらこそ、お気遣いなく」
……始まった。
真剣な話をしていたはずなのに、いつの間にかいつもの調子になっている。
だが、今回は二人ともすぐに我に返った。
「……失礼。場所は黒瀬君の都合に合わせましょう」
『……そうですな』
電話の向こうで、二人は苦笑した。
娘たちのことになると、どうしても少し張り合ってしまう。
しかし、今回ばかりは違う。
これは、少年の将来に関わる大切な話だ。
そして、もし技術が本物なら、多くの人々の命にも関わる。
だからこそ。
親としても、経営者としても、真剣に向き合う必要があった。
◇
翌朝。
聖蘭学園の教室。
俺が席に着くと、澪さんと麗華さんが近づいてきた。
「レイジさん。少し、お話ししてもよろしいですか?」
「もちろんです」
澪さんは、少し緊張したように微笑んだ。
「昨日、父にお話ししました」
「……ああ、例の件ですね」
「はい。麗華さんのお父様とも相談されたそうです」
麗華さんが頷く。
「黒瀬さん。お二人とも、正式にお話を伺いたいとおっしゃっていますわ」
「……俺に、ですか?」
「はい」
澪さんが優しく微笑む。
「レイジさんが開発されたものについて、専門家の協力も含めて、一緒に考えたいそうです」
俺は思わず息を呑んだ。
九条院家と西園寺家。
二つの名家の当主が、俺のために動こうとしてくれている。
昨日までは、ただの試作品だった。
それが今、現実の事業へ向けて動き始めている。
「……本当に、いいんでしょうか」
思わず呟くと、麗華さんが少し呆れたように笑った。
「黒瀬さん。そこは、もう少し自信を持ってくださいませ」
「……え?」
「お父様たちが興味を持たれたのは、あなたが価値のあるものを生み出したからですわ」
澪さんも頷いた。
「そうですよ、レイジさん」
そして、少しだけ頬を赤くしながら続けた。
「……私たちも、できる限りお力になりたいと思っています」
俺は二人を見つめた。
澪さん。
麗華さん。
二人とも、まっすぐな目をしている。
俺のことを信じてくれている。
それが、何より嬉しかった。
「……ありがとうございます」
俺は、ゆっくりと頭を下げた。
「ぜひ、お願いします」
二人の表情が明るくなる。
「はい!」
「もちろんですわ!」
こうして。
俺のポーション事業は、ついに本格的な第一歩を踏み出すことになった。
ただし、このときの俺はまだ知らなかった。
自分が生み出した薬が、どれほど大きな価値を持つのか。
そして、その技術を巡って、これからどれほど多くの人々が動き始めるのか。
けれど、一つだけ確かなことがある。
俺はもう、以前のように一人で悩む必要はない。
信じてくれる人がいる。
支えてくれる人がいる。
そして、自分自身にも、未来を変える力がある。
そのことを、俺は少しずつ実感し始めていた。
かつて、誰にも必要とされていないと思っていた俺が。
今では、誰かの未来を変えられるかもしれない。
そんな場所に立っている。
窓の外には、澄み切った青空が広がっていた。
新しい一日が、始まろうとしていた。




