第116話 傷を癒やす奇跡――冒険者ギルドのポーション
異世界ルミエール。
その日、俺はベルン商会への納品を終え、冒険者ギルドへ立ち寄っていた。
トーマスさんとの取引も少しずつ軌道に乗り始めている。
日本から持ち込んだ菓子は、当初の試験販売を経て、今では《銀の小鹿亭》でも継続的に扱ってもらえるようになった。
もちろん、まだ大きな商売じゃない。
それでも、自分で仕入れ、相手と交渉し、売れた分の利益を受け取る。
その経験は、以前の俺には想像もできなかったものだった。
「レイジ様、こんにちは」
受付に近づくと、ミリアさんがいつもの柔らかな笑顔を向けてくれた。
「こんにちは、ミリアさん。東の森の件で、何か進展はありましたか?」
「調査隊からの正式な報告は、まだ届いていません。ただ、北側の一部区域については、引き続き注意するよう通達が出ています」
「分かりました。無理に近づかないようにします」
以前、《蒼風の牙》の皆と森を巡回した際、川の北側で大型の魔物らしい足跡を発見した。
あれからギルドも警戒を続けているらしい。
俺が掲示板へ目を向けた、そのときだった。
「道を開けろ!」
入口の扉が勢いよく開いた。
飛び込んできたのは、三人の冒険者。
そのうち一人が、仲間の肩を借りていた。
負傷した男の左腕から、赤い血が滴っている。
「ミリア! 回復薬はあるか!」
「こちらへ! すぐに処置します!」
ミリアさんの声が、いつもの穏やかなものから一変した。
近くにいた職員たちが素早く動く。
男は長椅子へ座らされ、傷口を押さえて苦しそうに顔を歪めた。
「くそっ……あの魔物、最後に爪を振りやがって……」
腕には深い裂傷が走っていた。
服の袖は裂け、傷口は見るからに痛々しい。
俺は思わず息を呑んだ。
日本なら、すぐに救急車を呼ぶような怪我だ。
「中級回復ポーションを!」
職員が小瓶を差し出す。
薄い青緑色の液体が、瓶の中で揺れていた。
負傷した冒険者は栓を抜き、ためらうことなく飲み干した。
次の瞬間。
「……え?」
俺は自分の目を疑った。
傷口から流れていた血が止まる。
裂けた皮膚が、まるで時間を巻き戻すように閉じていく。
数十秒も経たないうちに、深かった傷はほとんど見えなくなっていた。
「ふう……助かった」
男は腕を回し、何度か拳を握ってみせた。
「骨まではやられてなかったみたいだな」
「お前、もう少し慎重に戦えよ!」
「分かってるって!」
仲間たちは安堵したように笑い合っている。
だが、俺だけはその場で固まっていた。
……今、何が起きた?
傷が、治った。
薬を飲んだだけで。
それも、信じられない速さで。
「レイジ様?」
ミリアさんが俺の様子に気づいた。
「どうかなさいましたか?」
「あ、いえ……今の薬って、ポーションですよね?」
「はい。中級回復ポーションです」
「傷があんなに早く治るんですね」
俺が言うと、ミリアさんは少し不思議そうな顔をした。
「そうですね。中級でしたら、あの程度の裂傷は十分に治療できます」
その口ぶりは、まるで当たり前のことを説明しているようだった。
そうか。
この世界では、これが常識なんだ。
けれど、日本では違う。
深い傷を一瞬で塞ぐ薬なんて、少なくとも俺は聞いたことがない。
「ミリアさん。ポーションって、ほかにも種類があるんですか?」
「もちろんです。回復ポーションだけでも、いくつかの階級がありますよ」
ミリアさんは受付の奥から、一冊の薄い資料を取り出した。
「簡単にご説明しましょうか?」
「ぜひお願いします」
俺は思わず身を乗り出していた。
ミリアさんは微笑み、資料を開く。
「まず下級回復ポーション。こちらは擦り傷や浅い切り傷、軽度の打撲などに使用されます。冒険者だけでなく、一般の方も購入することがあります」
「なるほど」
「次に中級回復ポーション。骨折や深い裂傷、重度の火傷などにも効果があります。ただし、傷の程度によっては複数本必要になる場合もあります」
さっきの冒険者が飲んだものだ。
「そして、上級回復ポーションです」
ミリアさんはそこで少し声を落とした。
「こちらは非常に高価ですが、失われた腕や脚などの欠損部位を再生させることすら可能です」
「…………え?」
思わず間の抜けた声が出た。
「欠損って……腕がなくなっても、元に戻るんですか?」
「はい。適切な状態で使用できれば、再生が可能です」
「本当に……?」
「ええ。ただし、生命活動が完全に停止した方を蘇生することはできません。また、欠損の程度や経過時間によって、必要な量も変わります」
俺は言葉を失った。
腕がなくなっても。
脚を失っても。
薬を飲むことで、再び取り戻せる。
日本でそんなものが実現したら、一体どれほどの人が救われるだろう。
「さらに、最上級回復ポーションというものもあります。重篤な臓器損傷や、命に関わる外傷を治療するためのものです」
「……すごいですね」
「ですが、最上級ともなると流通量はごくわずかです。王都の大きな商会や、特別な治療施設でなければ扱えないことも多いですね」
そこで俺は、資料の最後に記された文字に気づいた。
「……エリクサー?」
ミリアさんの表情が、少しだけ真剣なものになった。
「それは、通常のポーションとは別格の霊薬です」
「どんな効果があるんですか?」
「伝承や記録では、あらゆる病を根本から治すとされています。治療法のない難病も、長年苦しんだ病も、例外ではないと」
「万病を……?」
「はい。ただし、老衰そのものを止めたり、亡くなった方を蘇生したりするものではありません」
それでも、十分すぎる。
いや、十分なんてものじゃない。
日本の医療常識が、根底から変わってしまう。
「実物を見たことはありますか?」
「残念ながら、私はありません。存在自体が伝説に近いものですから」
ミリアさんは苦笑した。
「王族でさえ、望めば手に入るというものではないそうです」
俺は資料を見つめた。
下級。
中級。
上級。
最上級。
そして、エリクサー。
これほどの薬が、この世界には存在する。
……だったら。
俺の頭に、一つの考えが浮かんだ。
もし、これを日本へ持ち帰れたら?
いや、持ち帰るだけじゃない。
自分で作ることができたら?
現代社会で販売できれば、きっと大きな価値がある。
経済的な意味でも。
そして、誰かの命を救うという意味でも。
ただ、問題が一つあった。
俺はポーションの作り方を知らない。
「ミリアさん」
「はい?」
「ポーションって、どこで作り方を教わることができますか?」
彼女は目を丸くした。
「レイジ様が、ですか?」
「はい。少し興味が湧いてきまして」
「調合は専門技術ですから、簡単ではありませんよ?」
「それでも、学んでみたいんです」
俺が答えると、ミリアさんは少し考え込んだ。
そして、何かを思いついたように顔を上げる。
「それでしたら、ギルドと取引のある調合職人をご紹介できます」
「本当ですか?」
「ええ。少し気難しい方ですが、腕は確かです。下級から上級まで、幅広い調合に精通しています」
「ぜひお願いします!」
思った以上に大きな声が出てしまった。
ミリアさんがくすりと笑う。
「ふふ。レイジ様がそこまで興味を示されるなんて、珍しいですね」
「……自分でも、ちょっと驚いています」
けれど、胸の奥では確かな予感が膨らんでいた。
今まで俺は、異世界で得た経験を使って少しずつ成長してきた。
戦う力。
学ぶ力。
商売をする力。
でも、今回見つけたものは、それらとは少し違う。
誰かの失ったものを取り戻せるかもしれない。
誰かの未来を変えられるかもしれない。
そして、その技術が本当に日本でも使えるなら――。
俺はもう一度、さっきの冒険者が座っていた長椅子へ目を向けた。
そこには、血のついた布が一枚残されていた。
ほんの少し前まで、あの男は深い傷を負っていた。
なのに今は、仲間と笑いながらギルドを出ていった。
あの光景が、頭から離れない。
(……まずは、作り方を覚えよう)
できるかどうかは、それから考えればいい。
俺には《万象習得》がある。
学ぶことに関してなら、きっと道は開ける。
こうして俺は、まだ誰も知らない新しい挑戦へ、一歩を踏み出したのだった。




