第114話 西園寺家の晩餐――父親が認めた少年
西園寺家の当主は、その日、いつもより一時間も早く仕事を切り上げていた。
理由は簡単だ。
娘の麗華が、自宅へ一人の少年を招いているからである。
「……まだ到着していないのか?」
帰宅するなり、父親は使用人へ尋ねた。
「黒瀬様でしたら、夕方にお越しになる予定でございます」
「そうか」
時計を見る。
まだ一時間以上ある。
「……ふむ」
父親は腕を組んだ。
落ち着かない。
いや、別に緊張しているわけではない。
ただ、娘が初めて本気で好きになった少年と会うのだ。
父親として、多少気になるのは当然だろう。
「あなた」
背後から妻の声がした。
「そんなに時計ばかり見ていらしたら、時間が進むのが遅く感じますよ」
「……別に待ち遠しいわけではない」
「あら、そうですか?」
「客人を迎える準備を確認しているだけだ」
妻は楽しそうに微笑んだ。
「では、どうして今朝から三度も同じことを確認なさったの?」
「…………」
父親は黙り込んだ。
どうやら、妻にはすべてお見通しらしい。
◇
その頃。
麗華は自室の鏡の前に立っていた。
淡いクリーム色のワンピース。
丁寧に整えた髪。
控えめなアクセサリー。
普段から身だしなみに気を遣っている麗華だが、今日は少しだけ特別だった。
「……これで、よろしいかしら」
鏡の中の自分を見つめる。
何度も確認したはずなのに、どうしても気になってしまう。
怜司が来る。
それだけで、胸が高鳴っていた。
以前、二人で出かけた休日。
書店で本を眺め、食事を楽しみ、並んで歩いた時間。
あの日のことを思い出すと、今でも自然と笑顔になる。
「……黒瀬さん」
小さく名前を呟く。
すると、扉が叩かれた。
「麗華、入ってもいいかしら?」
「お母様? ええ」
母親が部屋へ入ってくる。
そして、娘の姿を見て微笑んだ。
「あら、とても素敵ね」
「……ありがとうございます」
「黒瀬さんも、きっと喜んでくださるわ」
「お、お母様!」
麗華の頬が赤くなる。
母親は楽しそうに笑った。
「ふふっ。そんなに恥ずかしがらなくても」
「……もう」
麗華は少しだけ俯いた。
母親は優しく肩へ手を置いた。
「大丈夫よ。いつもどおりの麗華でいればいいの」
「……はい」
その言葉に、麗華は小さく頷いた。
◇
約束の時間。
黒瀬怜司は、西園寺家の門の前に立っていた。
「……すごいな」
思わず声が漏れる。
九条院家も立派だったが、西園寺家も負けず劣らずの大邸宅だった。
手入れの行き届いた庭園。
重厚な門構え。
そして、奥に見える美しい屋敷。
怜司は小さく深呼吸をした。
今日は、麗華の父親と初めて会う。
失礼のないようにしなければ。
「……よし」
呼び鈴を押す。
ほどなくして、門が開かれた。
案内を受けて玄関へ向かうと、そこには麗華の姿があった。
「黒瀬さん!」
「あ、麗華さん。こんにちは」
「こんにちは。お待ちしていましたわ」
麗華は嬉しそうに微笑んだ。
怜司は、その姿を見て少しだけ目を見開いた。
「……その服、すごく似合ってるね」
「えっ?」
麗華の頬が、みるみる赤くなる。
「あ、ありがとうございます……」
怜司も少し照れくさくなった。
だが、素直な感想だった。
「こちら、よかったら皆さんで」
怜司が紙袋を差し出す。
「まあ。ありがとうございます」
「そんなに大したものじゃないんだけど……」
「そんなことありませんわ。黒瀬さんが選んでくださったんですもの」
麗華は大切そうに受け取った。
その様子を、少し離れた場所から眺めている人物がいた。
西園寺家の当主である。
「……ふむ」
隣に立つ妻が、小さく笑った。
「あなた、そんなところで何をしていらっしゃるの?」
「いや、客人が来たのだから、迎えようと思ってな」
「でしたら、堂々と出ていらっしゃればいいでしょう?」
「……それもそうだな」
父親は咳払いをした。
そして、何事もなかったような顔で玄関へ姿を現した。
「やあ、黒瀬君。初めまして」
「初めまして。黒瀬怜司と申します。本日はお招きいただき、ありがとうございます」
怜司は丁寧に頭を下げた。
父親は、その姿を見て少しだけ目を細めた。
――なるほど。
第一印象は悪くない。
むしろ、かなりよい。
「西園寺麗華の父です。こちらこそ、よく来てくれたね」
「ありがとうございます」
怜司は少し緊張しながらも、まっすぐに答えた。
父親は穏やかに微笑んだ。
「どうぞ、ゆっくりしていってくれたまえ」
◇
客間では、温かな紅茶と茶菓子が用意されていた。
麗華の母親も同席し、四人で穏やかな時間を過ごす。
「黒瀬さん、麗華がいつもお世話になっています」
「いえ、こちらこそ。麗華さんには、学校でもいろいろ助けてもらっています」
怜司は丁寧に答えた。
母親は微笑む。
「あら。麗華からは、黒瀬さんに助けていただいてばかりだと聞いていますよ」
「お、お母様!」
麗華が慌てて声を上げた。
母親は楽しそうに笑った。
「本当のことでしょう?」
「それは……そうですけれど……」
麗華は頬を染めた。
怜司はその様子を見て、小さく笑った。
父親は、そんな二人を静かに観察していた。
――なるほど。
娘がこれほど表情を崩す相手なのか。
普段の麗華は、誰に対しても礼儀正しく、落ち着いている。
だが、今は違う。
怜司の言葉に頬を染め、嬉しそうに笑い、時には少し慌てる。
まるで、年相応の少女そのものだった。
「黒瀬君」
「はい」
「学校生活はどうだね?」
「はい。以前より、ずっと充実しています」
「ほう」
「研究活動も一区切りつきましたし、最近はいろいろなことに挑戦しています」
「それは結構なことだ」
父親は頷いた。
「将来、何かやりたいことはあるのかな?」
怜司は少し考えた。
「……まだ、はっきりと決まっているわけではありません」
「そうか」
「でも、自分の力で生活を支えられるようになりたいと思っています」
父親は静かに頷いた。
「自立したい、ということかな?」
「はい」
怜司は真剣な表情で答えた。
「今まで、家族や周りの人に助けてもらうことが多かったので。いつかは、自分も誰かを支えられる人間になりたいんです」
その言葉に、父親は少しだけ目を細めた。
――なるほど。
九条院家の当主が評価していた理由が、少し分かった気がした。
この少年は、見栄を張らない。
自分を大きく見せようともしない。
だが、考え方には確かな芯がある。
「……いい考えだね」
「ありがとうございます」
「ただ、自立というものは、何も一人ですべてを抱え込むことではない」
「……はい」
「周りの人を頼ることも、時には大切だ」
怜司は真剣に頷いた。
「……それは、最近少しずつ分かってきました」
「ほう?」
「友達や仲間に助けてもらうことも多いので。自分だけで何でもできると思わないようにしています」
父親は微笑んだ。
「それは大切なことだ」
話していて、気持ちのよい少年だった。
素直で、誠実。
そして、必要以上に自分を飾らない。
――なるほどな。
父親は内心で頷いた。
九条院家の当主が、あれほど高く評価していた理由。
それが、ようやく理解できた気がした。
◇
やがて、夕食の時間になった。
広々とした食堂には、美しく盛り付けられた料理が並べられていた。
怜司は少し緊張した。
普段の食卓とは、まるで違う。
だが、麗華が隣で優しく微笑んでくれた。
「黒瀬さん、どうぞ気楽になさってくださいませ」
「……ありがとう、麗華さん」
その言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。
食事が始まる。
最初は少し緊張していた怜司だったが、会話が進むにつれて自然と笑顔が増えていった。
学校のこと。
研究活動のこと。
休日の過ごし方。
そして、麗華との思い出。
「そういえば、麗華とは以前、書店へ行ったそうだね」
父親が何気なく尋ねた。
「はい」
怜司は頷いた。
「麗華さんは本に詳しくて、いろいろ教えてもらいました」
「あら、そうなの?」
母親が微笑む。
「麗華、楽しそうだったものね」
「お、お母様……」
麗華の頬が赤くなる。
怜司は笑った。
「俺も、すごく楽しかったです」
「……黒瀬さん」
麗華が小さく微笑む。
その表情を見た父親は、静かに息を吐いた。
――本当に、好きなんだな。
娘の恋心が、はっきりと伝わってきた。
そして、その相手が悪い少年ではないことも。
◇
食事を終えた後。
麗華は怜司を庭園へ案内した。
夕暮れの庭には、柔らかな照明が灯り始めていた。
「……今日は、来てくださってありがとうございます」
麗華が静かに言った。
「こちらこそ、誘ってくれてありがとう」
怜司は微笑んだ。
「麗華さんの家族って、温かいね」
「……そう言っていただけると、嬉しいですわ」
麗華は少し俯いた。
「お父様、少し質問が多かったでしょうか?」
「ううん。そんなことないよ」
怜司は笑った。
「むしろ、いろいろ話せてよかった」
「……本当ですの?」
「うん」
麗華は安心したように微笑んだ。
しばらく、二人は並んで歩いた。
穏やかな風が、庭の木々を揺らしている。
「……黒瀬さん」
「うん?」
「また、こうして一緒に過ごせたら嬉しいですわ」
怜司は、その言葉を真剣に受け止めた。
麗華が自分に向けてくれる気持ち。
それが、ただの友人としての好意だけではないことを、今の怜司は少しずつ理解し始めている。
だからこそ、軽く流したくなかった。
「……俺も、麗華さんと一緒にいる時間が好きだよ」
「……っ」
麗華の頬が赤くなる。
怜司も少し照れくさくなった。
けれど、嘘ではなかった。
書店で過ごした時間も。
食事を楽しんだことも。
並んで歩いた帰り道も。
どれも、怜司にとって大切な思い出だった。
「……ありがとうございます」
麗華は小さく微笑んだ。
その笑顔は、いつもより少しだけ幸せそうだった。
◇
一方。
屋敷の中では、父親が妻と話していた。
「……黒瀬君は、いい少年だな」
「そうですね」
「九条院さんが評価していた理由も、よく分かった」
妻は微笑んだ。
「でしたら、安心ですね」
「……ああ」
父親は静かに頷いた。
だが、ふと考える。
――九条院さんは、既に二度も会っているんだったな。
今日、自分もようやく会えた。
話もできた。
人柄も理解できた。
それでも、なぜだろう。
妙に、負けた気がする。
「……ふむ」
父親は腕を組んだ。
妻が首を傾げる。
「あなた?」
「……いや、何でもない」
「また九条院さんのことを考えていらっしゃるんでしょう?」
「……そんなことはない」
妻はくすりと笑った。
「本当に?」
「……ああ」
父親は咳払いをした。
だが、その直後。
ふと思いついたように口を開いた。
「……そうだ」
「何です?」
「今度、九条院家と一緒に食事会でも開いてはどうだろう」
「……食事会?」
「ああ。両家の付き合いも長い。久しぶりに家族ぐるみで集まるのも悪くないだろう」
妻は少し考えた。
そして、楽しそうに微笑む。
「……黒瀬さんも、お招きするんですか?」
「…………」
父親は一瞬だけ黙った。
「……まあ、せっかくだからな」
妻はとうとう笑い出した。
「ふふっ! あなた、本当に分かりやすいんだから!」
「……何がだ」
「もう。そんなに張り合わなくても」
父親は咳払いをした。
「……別に、張り合ってなどいない」
だが、その表情には、少しだけ楽しそうな色が浮かんでいた。
◇
帰り際。
怜司は玄関で丁寧に頭を下げた。
「今日は本当にありがとうございました」
「こちらこそ。楽しい時間だったよ」
父親は穏やかに微笑んだ。
「黒瀬君」
「はい」
「麗華と、これからも仲良くしてやってほしい」
怜司は少し驚いた。
そして、真剣な表情で頷いた。
「……はい。もちろんです」
父親は満足そうに微笑んだ。
麗華は隣で、少しだけ頬を染めている。
「黒瀬さん、また学校で」
「うん。またね、麗華さん」
二人は笑顔で別れた。
怜司の姿が見えなくなるまで、麗華は玄関先に立っていた。
その様子を見て、父親は小さく笑った。
「……本当に、好きなんだな」
「お父様!?」
麗華が真っ赤になる。
母親は楽しそうに笑った。
「あなた、からかってはいけませんよ」
「いや、すまん」
父親は苦笑した。
だが、その表情は穏やかだった。
◇
その夜。
西園寺家の父親は、九条院家の当主へメッセージを送った。
『九条院さん。先ほど黒瀬君にお会いしました。実にいい少年ですな』
ほどなくして返信が届く。
『ええ。私もそう思います』
父親は微笑んだ。
そして、続けて入力する。
『ところで、近いうちに両家で食事会などいかがでしょう?』
送信。
少し間が空いた。
そして。
『それは結構ですな。ぜひ』
父親は満足そうに頷いた。
さらに、もう一通。
『せっかくですから、黒瀬君もお招きしてはどうかと思いまして』
送信。
今度は、少し長い沈黙があった。
やがて。
『……ほう。それは面白い提案ですな』
父親は、思わず笑みを浮かべた。
「……ふむ」
どうやら、向こうも乗り気らしい。
こうして、九条院家と西園寺家の合同食事会が、静かに動き始めた。
その中心にいる少年が、まだ何も知らないまま。
そして、娘たちの初恋をめぐる父親同士の対抗戦は、いよいよ新たな段階へ進もうとしていた。




