第113話 西園寺家の逆襲――父親の負けられない招待
「……また先を越されたか」
西園寺家の書斎に、低い声が響いた。
当主はスマートフォンの画面を見つめていた。
そこには、九条院家の当主から届いた返信が表示されている。
『実に有意義な時間でした。やはり、礼儀正しく誠実な少年ですな』
黒瀬怜司。
娘の麗華が初めて本気で心を寄せた少年。
その少年が、つい先日、九条院家を訪問したという。
しかも、父親とゆっくり話したらしい。
「……ふむ」
当主は腕を組んだ。
もちろん、九条院家とは長年の付き合いがある。
澪のことも、幼い頃から知っている。
聡明で優しく、麗華にとって大切な友人だ。
だからこそ、娘たちの友情を壊すようなことはしたくない。
……それはそれとして。
「……黒瀬君に、二度も会っているのか」
どうにも落ち着かなかった。
こちらは、まだ一度も顔を合わせていない。
娘の好きな少年がどんな人物なのか、話を聞くだけで想像するしかない。
一方、九条院家の当主は既に二度も会っている。
この差は、思っていた以上に大きい。
「……いや、別に勝負ではない」
誰もいない書斎で、当主は自分に言い聞かせた。
娘の恋愛は、本人たちの問題だ。
親が競争するものではない。
そんなことは、十分に理解している。
理解しているのだが。
「……一度くらい、うちにも招いてよかろう」
そう呟いたところで、背後から声がした。
「あなた」
「……っ!」
振り返ると、妻が立っていた。
「何をそんなに難しいお顔で考えていらっしゃるの?」
「いや、仕事のことだ」
「お仕事?」
「ああ」
妻は机の上を見た。
そこには、仕事の書類ではなく、スマートフォンが置かれている。
「……九条院さんからのお返事ですか?」
「…………」
当主は黙り込んだ。
妻は楽しそうに笑った。
「やっぱり」
「……何がだ」
「黒瀬さんのことが気になって仕方ないんでしょう?」
「父親として当然だろう」
「ええ。そうですね」
妻は頷いた。
「でも、九条院さんと張り合う必要はありませんよ?」
「張り合ってなどいない」
「本当に?」
「……ああ」
妻はくすりと笑った。
「でしたら、麗華に相談してみましょう。黒瀬さんをお招きしたいのなら、本人の気持ちを聞くのが一番です」
「……そうだな」
当主は静かに頷いた。
その表情は、少しだけ明るくなっていた。
◇
翌朝。
西園寺家の食卓で、父親はできるだけ自然な口調で切り出した。
「麗華」
「はい、お父様?」
「最近、黒瀬君とはどうしている?」
「……黒瀬さんですか?」
麗華が顔を上げる。
その頬が、ほんの少しだけ赤くなった。
「学校では、時々お話ししていますわ」
「そうか」
「それに、またご一緒したい場所もありますし……」
麗華はそこで言葉を止めた。
父親は、その様子を見て静かに頷く。
――なるほど。
どうやら、娘の気持ちは変わっていないらしい。
「実はな」
「はい?」
「一度、黒瀬君を家へ招いてみてはどうかと思っているんだ」
「…………えっ?」
麗華の動きが止まった。
「……黒瀬さんを?」
「ああ」
「こちらへ?」
「そうだ」
麗華は目を丸くした。
そして、みるみる頬を赤くする。
「お、お父様!? どうして突然そのようなことを!?」
「いや、別に突然というわけでは……」
「十分突然ですわ!」
珍しく声を上げた娘に、父親は少し驚いた。
母親は隣で笑いをこらえている。
「麗華。お父様は、黒瀬さんに一度お会いしてみたいんですって」
「……お父様が?」
「ああ」
父親は頷いた。
「お前があれほど楽しそうに話す相手だ。どんな少年なのか、私も知りたいと思ってな」
「…………」
麗華は少し俯いた。
胸が高鳴っている。
怜司を自宅へ招く。
それは、以前から少しだけ考えていたことだった。
だが、自分から誘う勇気はなかなか出なかった。
もし迷惑だったら。
もし、家族に会うことを負担に感じさせてしまったら。
そんなことを考えていたのだ。
「……本当に、よろしいのですか?」
麗華が小さく尋ねた。
「もちろんだ」
父親は微笑んだ。
「ただし、黒瀬君の都合もある。無理に誘う必要はないぞ」
「……はい」
麗華はゆっくり頷いた。
そして、嬉しそうに微笑む。
「ありがとうございます、お父様」
その笑顔を見た父親は、思わず胸が温かくなった。
――やはり、誘ってよかった。
そう思った。
……思ったのだが。
「そういえば、九条院さんのところでも、黒瀬君をお招きしたそうだな」
何気なく口にした瞬間。
麗華の表情が変わった。
「……澪さんのお宅へ?」
「ああ。先日、訪問されたそうだ」
「…………」
麗華は静かに紅茶を置いた。
そして、少しだけ考える。
澪が怜司と親しくしていることは、もちろん知っている。
互いの恋心についても、既に理解している。
だからこそ、驚きはあっても、不快には思わなかった。
ただ。
――澪さん、もうご自宅へお招きしたんですのね。
胸の奥に、小さな対抗心が生まれた。
それは、決して澪への敵意ではない。
むしろ、親友が自分の気持ちに素直になっていることが嬉しかった。
だからこそ。
自分も、もう少し勇気を出したい。
「……お父様」
「何だ?」
「黒瀬さんを、ぜひお招きしたいですわ」
麗華はまっすぐに答えた。
父親の顔が、ぱっと明るくなる。
「そうか!」
「……ただし」
「うん?」
麗華は少しだけ目を細めた。
「お父様。何か、妙なことをお考えではありませんわよね?」
「…………」
父親は固まった。
母親が、とうとう吹き出した。
「ふふっ! 麗華、どうしてそう思うの?」
「だって、お父様が黒瀬さんのお話をなさるとき、少しだけ様子がおかしいんですもの」
「……そうか?」
「ええ」
麗華は真剣な表情で続けた。
「黒瀬さんは、私の大切なお友達です。どうか、必要以上に緊張させるようなことはなさらないでくださいませ」
父親は静かに頷いた。
「……分かった」
その返事を聞いて、麗華は安心したように微笑んだ。
母親は、夫の顔を見ていた。
――本当に分かっているのかしら。
少しばかり不安だった。
◇
その日の放課後。
麗華は校舎の廊下で、怜司を見つけた。
「黒瀬さん」
「あ、麗華さん」
怜司が振り返る。
麗華は少しだけ緊張しながら、彼の前へ歩み寄った。
「少し、お時間をいただいてもよろしいでしょうか?」
「もちろん。どうしたの?」
「その……今度の休日なのですが」
麗華は一度、言葉を止めた。
心臓が、少し速く鼓動している。
けれど、ここで引き下がるつもりはなかった。
「もしご予定がなければ、私の家へいらっしゃいませんか?」
「……麗華さんの家に?」
「はい」
怜司は少し驚いた。
九条院家に招かれたばかりだったからだ。
もちろん、麗華の家へ行くことが嫌なわけではない。
むしろ、誘ってもらえたことは嬉しかった。
「……俺が行っても大丈夫なの?」
「もちろんですわ」
麗華は微笑んだ。
「実は、お父様も黒瀬さんにお会いしたいとおっしゃっていまして」
「……お父さんが?」
「ええ」
怜司は少しだけ緊張した。
九条院家の父親とは、既に面識がある。
だが、西園寺家の父親とは初対面になる。
しかも、麗華の父親だ。
失礼なことはできない。
「……何か、俺に話があるのかな?」
「いえ。そういうことではありませんわ」
麗華は少しだけ頬を染めた。
「……私も、黒瀬さんとゆっくりお話ししたいですし」
「…………」
怜司は、その言葉に少し照れくさくなった。
麗華は、いつも凛としている。
そんな彼女が、こうして自分の気持ちを素直に伝えてくれる。
それが嬉しかった。
「……ありがとう、麗華さん」
怜司は微笑んだ。
「俺も、また麗華さんとゆっくり話したいと思ってた」
「……本当ですの?」
「うん」
麗華の顔が明るくなる。
「では、ぜひ!」
「うん。よろしくお願いします」
二人は顔を見合わせて笑った。
◇
その日の夜。
西園寺家では、早くも準備が始まっていた。
「……お父様?」
「何だ、麗華」
「どうして、客間の家具の配置を変えるお話になっているのでしょう?」
麗華は不思議そうに尋ねた。
父親は平然と答える。
「客人を迎えるのだから、当然だろう」
「ですが、黒瀬さんは初めていらっしゃるだけですし……」
「だからこそ、失礼のないようにしなければならん」
「……そういうものでしょうか?」
「そういうものだ」
父親はきっぱりと言い切った。
その横で、母親が笑いをこらえている。
実際には、父親は朝から何度も使用人へ確認していた。
客間の準備。
茶菓子。
庭園。
昼食の献立。
さらには、怜司がどんな話題に興味を持っているのかまで気にし始めた。
「あなた」
母親が優しく声をかける。
「そんなに張り切らなくても、黒瀬さんはきっと喜んでくださいますよ」
「……別に張り切ってなどいない」
「あら、そうですか?」
「客人を迎える以上、当然のことをしているだけだ」
母親は微笑んだ。
「では、どうして九条院さんに、黒瀬さんのお好きなものを尋ねようとなさったの?」
「…………」
父親は黙り込んだ。
麗華が驚いたように顔を上げる。
「お父様、そこまで……?」
「……いや、その」
父親は咳払いをした。
「せっかく来てもらうのだから、楽しんでもらいたいと思っただけだ」
麗華は少しだけ目を丸くした。
そして、嬉しそうに微笑んだ。
「……ありがとうございます、お父様」
その笑顔を見た父親は、思わず表情を和らげた。
「……ああ」
母親はそんな二人を見つめながら、静かに笑っていた。
◇
翌日。
西園寺家の父親は、書斎で一通のメッセージを打っていた。
送り主は、もちろん九条院家の当主だ。
『実は、近々黒瀬君を我が家へお招きすることになりましてな』
送信。
数分後。
返信が届いた。
『……ほう。それは結構なことですな』
父親は、思わず口元を緩めた。
「……ふむ」
そして、ゆっくりと返信を打つ。
『初めてお会いするので、今から楽しみにしております』
送信。
その直後、背後から妻の声がした。
「あなた」
「……っ!」
「今、随分と楽しそうなお顔をなさっていましたね」
「……そうか?」
「ええ。まるで、何かの勝負に勝ったみたいでしたよ」
「……気のせいだ」
妻はくすりと笑った。
「ほどほどになさってくださいね」
「……分かっている」
父親は咳払いをした。
だが、口元の笑みはなかなか消えなかった。
こうして、西園寺家でも怜司を迎える準備が進んでいく。
その一方で。
九条院家の書斎では、一人の父親がスマートフォンを見つめていた。
「……ついに、向こうも招くのか」
静かな呟きが、部屋に響く。
娘たちの初恋をめぐる父親同士の対抗戦は、ますます熱を帯び始めていた。




