第112話 九条院家の午後――父親の余裕と娘の笑顔
休日の午後。
黒瀬怜司は、九条院家の門の前で小さく深呼吸をしていた。
「……やっぱり、すごい家だよな」
手入れの行き届いた庭園。
堂々とした門構え。
その奥に見える大きな屋敷。
以前にも訪れたことがあるとはいえ、こうして改めて目の前に立つと、やはり圧倒されてしまう。
怜司は手にした紙袋を確認した。
中身は、母親と相談して選んだ焼き菓子の詰め合わせだ。
高級品というほどではない。
だが、地元で評判の店を何軒か調べ、澪や家族が楽しめそうなものを選んだ。
「……よし」
気持ちを整え、呼び鈴を押す。
ほどなくして、門が開かれた。
案内を受けて玄関へ向かうと、そこには見慣れた少女の姿があった。
「レイジさん!」
「あ、澪さん。こんにちは」
「こんにちは。お待ちしていました」
澪は嬉しそうに微笑んだ。
今日は学校の制服ではなく、淡い水色のワンピースを着ている。
上品でありながら、どこか柔らかな雰囲気だった。
「……その服、すごく似合ってるね」
「えっ?」
澪が目を丸くする。
そして、頬を赤くした。
「あ、ありがとうございます……」
怜司も少し照れくさくなった。
以前なら、女の子の服装を褒めることなど考えもしなかっただろう。
だが、今日は澪が自分を迎えるために、おしゃれをしてくれたように感じた。
それなら、素直に伝えたかった。
「こちら、よかったら皆さんで」
怜司が紙袋を差し出す。
「まあ。ありがとうございます」
「そんなに大したものじゃないんだけど……」
「そんなことありません。レイジさんが選んでくださったんですもの」
澪は大切そうに受け取った。
その様子を、少し離れた場所から眺めている人物がいた。
九条院家の当主である。
「……ふむ」
隣に立つ妻が、小さく笑った。
「あなた、そんなところで何をしていらっしゃるの?」
「いや、客人が来たのだから、迎えようと思ってな」
「でしたら、堂々と出ていらっしゃればいいでしょう?」
「……それもそうだな」
父親は咳払いをした。
そして、何事もなかったような顔で玄関へ姿を現した。
「やあ、黒瀬君。久しぶりだね」
「お久しぶりです。本日はお招きいただき、ありがとうございます」
怜司は丁寧に頭を下げた。
「いやいや。こちらこそ、よく来てくれた」
父親は穏やかに微笑んだ。
以前会ったときと変わらず、礼儀正しい少年だ。
その姿を見て、内心で少し安心する。
「どうぞ、ゆっくりしていってくれたまえ」
「ありがとうございます」
澪は嬉しそうに怜司を案内した。
◇
客間には、温かな紅茶と茶菓子が用意されていた。
澪の母親も同席し、四人で穏やかな時間を過ごす。
「黒瀬さん、お久しぶりですね」
「お久しぶりです。今日はありがとうございます」
「こちらこそ。澪が朝からとても楽しそうにしていたんですよ」
「お、お母様!」
澪が慌てて声を上げた。
母親は楽しそうに微笑む。
「あら、本当のことでしょう?」
「それは……そうですけれど……」
澪は頬を染めた。
怜司はその様子を見て、小さく笑った。
「俺も、今日を楽しみにしていました」
「……レイジさん」
澪の顔が、さらに赤くなる。
父親は、そのやり取りを黙って眺めていた。
――なるほど。
娘がこれほど嬉しそうにする理由が、少し分かった気がした。
黒瀬怜司は、無理に気の利いたことを言おうとしているわけではない。
思ったことを、自然に伝えている。
それが澪には嬉しいのだろう。
「黒瀬君」
「はい」
「学校生活はどうだね?」
「はい。以前より、ずっと充実しています」
「ほう」
「研究活動も一区切りつきましたし、最近は勉強以外にもいろいろ挑戦するようになりました」
「それは結構なことだ」
父親は頷いた。
「何か、新しく始めたことでもあるのかな?」
怜司は少し考えた。
異世界のことを話すわけにはいかない。
だが、日本で会計や経営について勉強していることなら問題ない。
「最近は、お金の管理や商売の仕組みに興味があって、少しずつ勉強しています」
「……商売?」
父親の目が、わずかに鋭くなった。
「はい。まだ基礎的なことばかりですけど」
「なぜ興味を持ったんだね?」
「自分の力で、何かを生み出せるようになりたいと思ったんです」
怜司は少し照れくさそうに笑った。
「将来、誰かに頼ってばかりじゃなく、自分で生活を支えられるようになりたくて」
父親は静かに頷いた。
九条院家の名前に近づこうとする若者なら、いくらでも見てきた。
しかし、この少年は違う。
目の前に大きな家があり、裕福な暮らしがある。
それでも、彼の口から出てきたのは、自分の力で何かを成し遂げたいという言葉だった。
「……いい考えだね」
「ありがとうございます」
「ただ、商売というものは、利益だけを追いかければよいわけではない」
「はい」
「信用を積み重ねることが、何より大切だ」
その言葉に、怜司は真剣な表情で頷いた。
「……それは、俺も大事にしたいと思っています」
父親は少しだけ目を細めた。
話していて、気持ちのよい少年だった。
知ったかぶりをしない。
分からないことは素直に聞く。
そして、自分の考えを持っている。
――やはり、悪くない。
そんな評価が、父親の中で少しずつ強まっていた。
◇
しばらくして、澪が控えめに口を開いた。
「あの、お父様」
「何だい?」
「レイジさんに、庭園をご案内してもよろしいでしょうか?」
「ああ、もちろんだ」
父親は即答した。
澪の顔が明るくなる。
「ありがとうございます!」
怜司も立ち上がった。
「それでは、少し失礼します」
「ああ。楽しんできなさい」
二人が客間を出ていく。
その後ろ姿を見送りながら、父親は静かに紅茶を飲んだ。
……飲んだのだが。
「……あなた」
「何だ?」
「気になるんでしょう?」
「何がだ?」
「二人のことです」
「……別に」
妻はくすりと笑った。
「では、どうして先ほどから時計ばかりご覧になっているの?」
「…………」
父親は黙り込んだ。
妻は楽しそうに微笑む。
「せっかく澪が楽しんでいるんですもの。少しくらい、二人きりにしてあげましょう」
「……分かっている」
父親は咳払いをした。
だが、その数分後。
彼は何気ない顔で窓の外へ視線を向けていた。
◇
庭園には、穏やかな風が吹いていた。
澪と怜司は並んで歩きながら、学校での出来事を話していた。
「……お父様、少し質問が多かったでしょうか?」
澪が心配そうに尋ねる。
「ううん。そんなことないよ」
怜司は笑った。
「むしろ、いろいろ教えてもらえて嬉しかった」
「本当ですか?」
「うん。信用が大切だって話、すごく勉強になった」
澪は安心したように微笑んだ。
「よかったです」
しばらく歩くと、庭園の奥に小さな東屋が見えてきた。
二人はそこで腰を下ろした。
「……今日は、来てくださってありがとうございます」
澪が静かに言った。
「こちらこそ、誘ってくれてありがとう」
怜司は微笑んだ。
「澪さんの家族って、温かいね」
「……そう言っていただけると、嬉しいです」
澪は少し俯いた。
そして、意を決したように顔を上げる。
「レイジさん」
「うん?」
「……また、こうして一緒に過ごせたら嬉しいです」
怜司は、その言葉を真剣に受け止めた。
澪が自分に向けてくれる気持ち。
それが、ただの友人としての好意だけではないことを、今の怜司は少しずつ理解し始めている。
だからこそ、軽く流したくなかった。
「……俺も、澪さんと一緒にいる時間が好きだよ」
「……っ」
澪の頬が赤くなる。
怜司も少し照れくさくなった。
けれど、嘘ではなかった。
美術館で過ごした時間も。
カフェで話したことも。
初めて手をつないだ帰り道も。
どれも、怜司にとって大切な思い出だった。
「……ありがとうございます」
澪は小さく微笑んだ。
その笑顔は、いつもより少しだけ幸せそうだった。
◇
一方。
屋敷の二階。
父親は窓際に立っていた。
「……ふむ」
庭園の東屋が、遠くに見える。
そこには、並んで座る二人の姿があった。
澪が笑っている。
黒瀬君も笑っている。
どうやら、楽しそうに話しているらしい。
「……悪くないな」
父親は小さく呟いた。
その背後から、妻の声がした。
「あなた」
「……っ!」
「何をしていらっしゃるの?」
「いや、庭園の様子を少し……」
「庭師のお仕事でも確認していたんですか?」
「……まあ、そんなところだ」
妻は窓の外を見た。
そして、すべてを理解したように微笑む。
「……澪たちを見ていたんですね」
「…………」
「もう。そんなに気になるなら、最初からご一緒すればよかったのに」
「それでは、二人の邪魔になるだろう」
「分かっていらっしゃるじゃありませんか」
父親は苦笑した。
「……あの子が、あんなに楽しそうにしているからな」
妻は優しく微笑んだ。
「ええ。本当に」
窓の向こうでは、澪が何かを話し、怜司が笑っていた。
父親は静かに息を吐いた。
「……黒瀬君は、いい少年だ」
「そうですね」
「以前会ったときもそう思ったが、今日話して、ますますそう感じた」
妻は頷いた。
「でしたら、安心ですね」
「……ああ」
父親は微笑んだ。
ただし、その直後。
ふと、西園寺家の当主の顔が頭をよぎった。
――そういえば、あちらも黒瀬君に会いたがっていたな。
父親は少しだけ口元を緩めた。
今日の訪問は、実に有意義だった。
もちろん、娘のためである。
決して、誰かに先んじたことを喜んでいるわけではない。
……ないはずだった。
◇
夕方。
帰り支度を整えた怜司を、九条院家の家族が玄関で見送った。
「今日は本当にありがとうございました」
怜司が頭を下げる。
「こちらこそ。楽しい時間だったよ」
父親は穏やかに答えた。
「黒瀬君」
「はい」
「澪と、これからも仲良くしてやってほしい」
その言葉に、怜司は少し驚いた。
そして、真剣な表情で頷いた。
「……はい。もちろんです」
父親は満足そうに微笑んだ。
澪は隣で、少しだけ頬を染めている。
「レイジさん、また学校で」
「うん。またね、澪さん」
二人は笑顔で別れた。
怜司の姿が見えなくなるまで、澪は玄関先に立っていた。
その様子を見て、父親は小さく笑った。
「……本当に、好きなんだな」
「お父様!?」
澪が真っ赤になる。
母親は楽しそうに笑った。
「あなた、からかってはいけませんよ」
「いや、すまん」
父親は苦笑した。
だが、その表情は穏やかだった。
◇
その夜。
九条院家の父親のスマートフォンに、一通のメッセージが届いた。
送り主は、西園寺家の当主だった。
『九条院さん。黒瀬君とのお時間はいかがでしたかな?』
父親は、思わず笑みを浮かべた。
そして、ゆっくりと返信を打つ。
『実に有意義な時間でした。やはり、礼儀正しく誠実な少年ですな』
送信。
数分後。
『……そうですか。それは何よりです』
短い返事だった。
父親は満足そうに頷いた。
「……ふむ」
その直後。
もう一通、メッセージが届く。
『実は、我が家でも黒瀬君をお招きすることになりそうでしてな』
「…………」
父親の笑みが止まった。
「……何?」
思わず声が漏れる。
妻が顔を上げた。
「あなた?」
「……いや、何でもない」
父親は咳払いをした。
そして、再び画面を見る。
西園寺家。
黒瀬怜司。
招待。
「……なるほど」
父親は静かに微笑んだ。
どうやら、向こうも動き始めたらしい。
娘たちの恋をめぐる父親同士の静かな対抗戦。
その第二幕が、いよいよ始まろうとしていた。




