第111話 九条院家への招待状――父の密かな作戦
九条院家の朝食の席に、妙な緊張感が漂っていた。
もっとも、それを感じているのは当主である父親だけだった。
「……澪」
「はい、お父様?」
いつものように優雅に紅茶を飲んでいた澪が顔を上げる。
父親は新聞を畳み、できるだけ自然な口調で尋ねた。
「最近、黒瀬君とはどうしている?」
「レイジさんですか?」
「ああ」
「学校でもお話ししていますし、先日も連絡をいただきました」
澪は嬉しそうに微笑んだ。
その表情を見た父親は、思わず頬を緩めそうになる。
しかし、すぐに咳払いをした。
「そうか。仲がよいのは結構なことだ」
「ありがとうございます」
「それでだな……」
父親は一度、紅茶を口に運んだ。
向かい側では妻が、何やら楽しそうにこちらを見ている。
「以前、黒瀬君には一度お会いしただろう?」
「はい」
「なかなか礼儀正しい少年だった。また機会があれば、ゆっくり話してみたいと思ってな」
「……お父様が、ですか?」
澪は少し驚いたように目を瞬かせた。
「そうだ。せっかくだから、今度の休日にでも家へ招いてみてはどうか?」
「えっ……!」
澪の頬が、みるみる赤くなる。
「レイジさんを、こちらへ?」
「ああ。もちろん、本人の都合がよければだが」
「…………」
澪はティーカップをそっと置いた。
怜司を自宅へ招く。
その言葉を聞いただけで、胸が高鳴った。
以前、父親と顔を合わせたことはある。
だが、今回は自分から招待することになる。
しかも、休日に。
「……よろしいのですか?」
「もちろんだ」
父親は即答した。
そのあまりの早さに、妻が小さく笑う。
「あなた、随分と積極的ですね」
「……いや、別にそういうわけでは」
「ふふっ。そうですか?」
父親は咳払いをした。
実のところ、昨夜から考えていたことだった。
西園寺家の当主との会食。
そこで判明した、思いがけない事実。
西園寺麗華もまた、黒瀬怜司という少年に好意を寄せている。
しかも、西園寺家の父親は、まだ怜司に会ったことがない。
九条院家の父親としては、既に一度会っているという小さな優位があった。
……あったのだが。
昨夜、西園寺家の当主は言っていた。
『私も一度、機会を設けてみようかと思いましてな』
あの言葉が、どうにも頭から離れない。
もちろん、娘の恋愛は競争ではない。
そんなことは理解している。
理解しているのだが。
――せっかく澪が心を寄せている少年なのだ。もう少し親しくなっておいても、何も問題はあるまい。
そう自分に言い聞かせていた。
「……お父様?」
澪の声で、父親は我に返った。
「ああ、何だ?」
「その……本当に、お招きしてもよろしいのですね?」
「もちろんだ。お前が望むなら、ぜひそうしなさい」
澪は嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます!」
その笑顔を見た瞬間、父親は少しだけ胸が痛んだ。
娘がこんなにも喜ぶのなら、もっと早く提案してやればよかった。
そう思う一方で、少々複雑な気分でもある。
妻はそんな夫を見て、楽しそうに紅茶を飲んでいた。
◇
その日の放課後。
聖蘭学園の廊下で、澪は怜司の姿を見つけた。
「レイジさん」
「あ、澪さん」
怜司が振り返る。
その穏やかな笑顔を見ただけで、澪の胸が温かくなった。
「少し、お時間よろしいでしょうか?」
「もちろん。どうしたの?」
「その……今度の休日なのですが」
澪は少しだけ言葉を探した。
いつもなら、もう少し落ち着いて話せるはずなのに。
今日は妙に緊張してしまう。
「もしご予定がなければ、私の家へいらっしゃいませんか?」
「……澪さんの家に?」
「はい」
怜司は少し驚いた。
九条院家。
以前、一度訪れたことがある。
立派な屋敷も、丁寧な対応も、今でも印象に残っていた。
そして何より、澪の父親。
落ち着いた雰囲気の人物だったが、やはり名家の当主というだけあって、独特の威厳があった。
「……俺が行っても大丈夫なの?」
「もちろんです」
澪は微笑んだ。
「実は、お父様からも、またレイジさんとお話ししたいと」
「……お父さんが?」
「はい」
怜司は少しだけ緊張した。
以前会ったとき、失礼なことはしていなかったはずだ。
だが、改めて招かれるとなると、どうしても身構えてしまう。
「……何か、俺に話があるのかな?」
「いえ。そういうことではないと思います」
澪は少し考え、恥ずかしそうに続けた。
「……私も、レイジさんとゆっくりお話ししたいですし」
「…………」
今度は怜司が言葉を失った。
澪は頬を染めながらも、まっすぐこちらを見ている。
その気持ちが嬉しかった。
「……ありがとう、澪さん」
怜司は微笑んだ。
「俺も、また澪さんとゆっくり話したいと思ってた」
「……本当ですか?」
「うん」
澪の顔が、ぱっと明るくなる。
「では、ぜひ!」
「うん。よろしくお願いします」
二人は顔を見合わせて笑った。
その様子を、少し離れたところから見ている人物がいた。
「……ふうん」
西園寺麗華だった。
もちろん、二人の会話を盗み聞きするつもりはなかった。
ただ、偶然近くを通りかかっただけだ。
しかし、澪の嬉しそうな表情を見れば、何となく事情は察せられる。
「……澪さん」
麗華は小さく微笑んだ。
親友が幸せそうなのは嬉しい。
それは間違いない。
けれど。
胸の奥に、小さな対抗心が芽生えたことも否定できなかった。
「……私も、負けていられませんわね」
誰にも聞こえない声で呟き、麗華は静かに歩き出した。
◇
その夜。
九条院家では、早くも小さな騒動が起きていた。
「……お父様?」
「何だ、澪」
「どうして、客間のお花を新しくするお話になっているのでしょう?」
澪は不思議そうに尋ねた。
父親は平然と答える。
「来客があるのだから、当然だろう」
「ですが、レイジさんは以前にもいらっしゃっていますし……」
「だからこそ、失礼のないようにしなければならん」
「……そういうものでしょうか?」
「そういうものだ」
父親はきっぱりと言い切った。
その横で、母親が笑いをこらえている。
実際には、父親は朝から何度も使用人へ確認していた。
客間の準備は整っているか。
茶菓子は何がよいか。
庭園はきちんと手入れされているか。
挙げ句の果てには、昼食の献立まで気にし始めた。
「あなた」
母親が優しく声をかける。
「そんなに張り切らなくても、黒瀬さんはきっと喜んでくださいますよ」
「……別に張り切ってなどいない」
「あら、そうですか?」
「客人を迎える以上、当然のことをしているだけだ」
母親は微笑んだ。
「では、どうして黒瀬さんのお好きな料理まで調べようとなさったの?」
「…………」
父親は黙り込んだ。
澪が驚いたように顔を上げる。
「お父様、そこまで……?」
「……いや、その」
父親は咳払いをした。
「せっかく来てもらうのだから、楽しんでもらいたいと思っただけだ」
澪は少しだけ目を丸くした。
そして、嬉しそうに微笑んだ。
「……ありがとうございます、お父様」
その笑顔を見た父親は、思わず表情を和らげた。
「……ああ」
妻はそんな二人を見つめながら、静かに笑っていた。
◇
同じ頃。
黒瀬家では、怜司が母親に相談していた。
「母さん。今度の休日、友達の家に招かれたんだけど」
「あら、そうなの?」
「うん。前にも一度お邪魔したことがある家なんだけど……」
「じゃあ、何か手土産を持っていった方がいいかもしれないわね」
「やっぱり、そうだよね」
怜司は頷いた。
九条院家ほどの家なら、何でも揃っているだろう。
高価なものを持っていけば喜ばれるというわけでもない。
むしろ、気持ちのこもったものを選びたい。
「相手の方は、どんなものが好きなの?」
「……澪さんは、甘いものも好きだったと思う」
「澪さん?」
母親が微笑んだ。
「女の子なのね」
「……うん」
「ふふっ。そう」
母親はそれ以上からかわなかった。
だが、その笑顔には何かを察したような優しさがあった。
「それなら、あまり気負わずに選びなさい。大切なのは、相手のことを考える気持ちだから」
「……うん。ありがとう」
怜司は小さく笑った。
◇
翌日。
九条院家の父親は、書斎で一通のメッセージを確認していた。
送り主は、西園寺家の当主だった。
『先日はありがとうございました。ところで、黒瀬君について、またお話を伺いたいものです』
父親は、思わず口元を緩めた。
「……ふむ」
そして、ゆっくりと返信を打つ。
『こちらこそ。実は近々、黒瀬君が我が家へいらっしゃることになりまして』
送信。
数分後。
返信が届いた。
『……ほう。それは結構なことですな』
短い文章だった。
しかし、九条院家の父親には分かった。
――どうやら、少し驚かれたようだな。
思わず笑みが浮かぶ。
もちろん、娘の恋を勝負にするつもりなどない。
……ないのだが。
「……まあ、これも何かの縁だ」
父親は満足そうに頷いた。
その直後、背後から妻の声がした。
「あなた」
「……っ!」
「今、随分と楽しそうなお顔をなさっていましたね」
「……そうか?」
「ええ。まるで、何かの勝負に勝ったみたいでしたよ」
「……気のせいだ」
妻はくすりと笑った。
「ほどほどになさってくださいね」
「……分かっている」
父親は咳払いをした。
だが、口元の笑みはなかなか消えなかった。
こうして、九条院家では怜司を迎える準備が進んでいく。
その一方で。
西園寺家の書斎では、一人の父親がスマートフォンを握りしめていた。
「……また、先を越されたのか」
静かな呟きが、誰もいない部屋に響く。
娘たちの初恋をめぐる父親同士の対抗戦は、本人たちの知らないところで、着実に熱を帯び始めていた。




