第110話 娘の恋は譲れない! 九条院家と西園寺家の静かな親バカ戦争
その日の夕方。
都内の高級ホテルにある会員制レストランでは、二組の夫婦が和やかに食事を楽しんでいた。
九条院家と西園寺家。
どちらも長い歴史と社会的な信用を持つ名家であり、両家の付き合いは決して浅くない。
仕事上の関係はもちろん、家族ぐるみで交流する機会もあった。
そして何より。
九条院澪と西園寺麗華は、幼い頃から親しい友人同士だった。
「いやあ、こうしてゆっくり食事をするのも久しぶりですな」
西園寺家の当主が、グラスを置きながら笑った。
「まったくです。お互い、なかなか時間が取れませんからな」
九条院家の当主も穏やかに頷く。
仕事の話が一区切りつくと、自然と話題は家族のことへ移った。
「そういえば、澪さんはお元気ですか?」
「ええ。おかげさまで。最近は学校生活が随分と楽しいようでして」
「それは何よりですな」
「麗華さんはいかがです?」
「うちも同じですよ。以前よりも明るくなりましてね」
西園寺家の父親は嬉しそうに笑った。
「最近は休日にも出かけるようになりまして。親としては、少し驚いているところです」
「ほう。麗華さんが?」
「ええ。昔から落ち着いた子でしたからな」
九条院家の父親は頷いた。
麗華のことは、幼い頃から知っている。
礼儀正しく、聡明で、何事にも真剣に取り組む少女だ。
そんな彼女が以前より明るくなったというのなら、それは喜ばしいことだろう。
「実は、うちの澪も似たようなものです」
「ほう?」
「最近は、休日を楽しみにしているようでしてな」
その言葉に、西園寺家の母親が微笑んだ。
「あら。もしかして、澪さんにも好きな方が?」
「……っ!」
九条院家の父親が、わずかにむせた。
妻が慌てずにナプキンを差し出す。
「あなた、大丈夫ですか?」
「あ、ああ。問題ない」
西園寺家の父親が笑った。
「ははは。九条院さん、随分と分かりやすい反応ですな」
「いや、その……」
「なるほど。澪さんも、そういう年頃になりましたか」
九条院家の父親は苦笑した。
「……まあ、そういうことです」
「いやあ、めでたいことですな」
西園寺家の父親は嬉しそうに頷く。
そして、何気なく続けた。
「実は、うちの麗華にも、どうやら好きな少年ができたようでして」
「……ほう?」
今度は九条院家の父親が顔を上げた。
「麗華さんにも?」
「ええ。本人から詳しく聞いたわけではありませんが、どうやら間違いなさそうです」
両家の母親たちが顔を見合わせ、楽しそうに微笑む。
「あらまあ。二人とも同じ時期に恋をするなんて」
「本当に。小さい頃から仲がよかったですものね」
母親たちにとっては、微笑ましい話だった。
しかし、父親たちは少し違った。
九条院家の父親は、何となく気になって尋ねた。
「……ちなみに、麗華さんのお相手は?」
「聖蘭学園の同級生だそうです」
「ほう」
「研究活動で一緒だった少年だとか」
「…………」
九条院家の父親の手が止まった。
研究活動。
聖蘭学園。
同級生。
何やら、妙に聞き覚えのある話である。
「……その少年のお名前は?」
「黒瀬怜司君、というそうです」
「…………」
沈黙。
九条院家の父親は、ゆっくりとグラスを置いた。
「……今、何と?」
「黒瀬怜司君です。ご存じですか?」
「…………」
九条院家の父親は、しばらく何も言わなかった。
その様子を見た妻が、少し不思議そうに首を傾げる。
「あなた?」
「……いや」
父親は咳払いをした。
「実は、その黒瀬君という少年ですが……」
「ええ」
「うちの澪も、随分と親しくしているようでしてな」
「……ほう?」
西園寺家の父親が目を細めた。
「それは奇遇ですな」
「……ええ。まったくです」
両家の父親は、穏やかに微笑み合った。
しかし。
その胸中は、決して穏やかではなかった。
――まさか、麗華さんも黒瀬君を?
――まさか、澪さんも同じ少年を?
互いに、そんなことを考えていた。
◇
「……それで、九条院さん」
しばらくして、西園寺家の父親が口を開いた。
「黒瀬君という少年について、何かご存じですか?」
九条院家の父親は、静かに頷いた。
「ええ。実は以前、一度お会いしたことがありまして」
「…………何?」
西園寺家の父親の表情が変わった。
「……会った?」
「ええ」
「黒瀬君に?」
「そうです」
「……直接?」
「もちろんです」
西園寺家の父親は、しばらく黙り込んだ。
その様子を見て、九条院家の父親は少しだけ得意げになった。
もちろん、顔には出さない。
名家の当主として、その程度の分別はある。
……あるはずだった。
「なかなか礼儀正しい少年でしたよ」
「……ほう」
「こちらの立場を知っても、必要以上に態度を変えない。自分の考えをきちんと持っているようでした」
「なるほど」
「澪が親しくしている理由も、理解できる気がしますな」
「…………」
西園寺家の父親は、静かにグラスを持ち上げた。
そして、一口飲む。
――先を越された。
そんな言葉が、頭の中に浮かんだ。
もちろん、娘の恋愛は競争ではない。
それくらい分かっている。
分かっているのだが。
九条院家の父親が既に少年と面識を持っているという事実は、どうにも落ち着かなかった。
「……九条院さん」
「はい?」
「黒瀬君とは、どのようなお話を?」
「そうですな。学校のことや、普段の考え方などを少々」
「……そうですか」
「ええ。なかなか好感の持てる少年でした」
「…………」
西園寺家の父親は、再び黙り込んだ。
そして、静かに頷いた。
「……なるほど。参考になります」
その声は穏やかだった。
だが、隣に座る妻には分かった。
夫が、妙な対抗心を燃やし始めている。
◇
「あなた」
西園寺家の母親が、そっと夫の腕に触れた。
「何です?」
「そんなに難しいお顔をなさらなくても」
「……難しい顔などしていない」
「あら、そうですか?」
母親は微笑んだ。
「麗華が聞いたら、きっと恥ずかしがりますよ」
「……分かっている」
そのやり取りを見ていた九条院家の母親が、小さく笑った。
「ふふっ。どちらのお父様も、娘が可愛くて仕方ないんですね」
「当然でしょう」
九条院家の父親が答えた。
「澪は、私たちの大切な娘ですからな」
「それはこちらも同じです」
西園寺家の父親が、すかさず返した。
「麗華の幸せは、何より大切です」
「ええ。もちろんですとも」
「ですから、黒瀬君という少年がどんな人物なのか、私もきちんと知っておきたいと思っております」
「それは結構なことです」
九条院家の父親は頷いた。
そして、何気ない調子で続ける。
「まあ、私としては既に一度お会いしておりますから、ある程度は安心しておりますが」
「…………」
西園寺家の父親の眉が、ぴくりと動いた。
妻たちは、とうとう笑いをこらえきれなくなった。
「あなたたち」
九条院家の母親が、呆れたように微笑む。
「まさか、どちらが先に黒瀬さんとお会いしたかで張り合っていませんよね?」
「まさか」
「そんなことはありませんとも」
二人の父親が、ほぼ同時に答えた。
そして、互いに顔を見合わせる。
「…………」
「…………」
何とも言えない沈黙が流れた。
母親たちは顔を見合わせ、楽しそうに笑った。
◇
食事も終盤に差しかかった頃。
九条院家の父親が、ふと真剣な表情になった。
「……しかし、一つだけ確認しておきたいことがありますな」
「何でしょう?」
「麗華さんは、澪が黒瀬君と親しいことをご存じなのですか?」
西園寺家の父親は少し考えた。
「研究班が同じだったのですから、当然知っているでしょうな」
「……そうですな」
「それに、あの二人は昔から仲がいい。何かあれば、互いに話しているのではありませんか?」
九条院家の父親は静かに頷いた。
確かに、澪と麗華は親しい友人同士だ。
互いの気持ちを知らないとは考えにくい。
だが。
同じ少年を好きになったとしたら、二人の友情はどうなるのだろう。
そんな心配が、頭をよぎった。
「……娘たちには、つらい思いをしてほしくありませんな」
九条院家の父親が呟いた。
西園寺家の父親も、表情を引き締める。
「……同感です」
それまでの軽い対抗意識が、少しだけ静まった。
「麗華は、昔から澪さんのことを大切にしています」
「澪も同じです」
「ならば、私たちが余計なことをするべきではありませんな」
「ええ」
九条院家の父親は頷いた。
「娘たちの気持ちを尊重しましょう」
「もちろんです」
西園寺家の父親も、静かに頷く。
両家の母親たちは、そのやり取りを見て安心したように微笑んだ。
どうやら、父親たちも大切なことは理解しているらしい。
……少なくとも、この瞬間までは。
◇
「ところで、九条院さん」
「はい?」
「黒瀬君とは、またお会いになる予定が?」
「……いえ。今のところは」
「そうですか」
西園寺家の父親は、静かに微笑んだ。
「でしたら、私も一度、機会を設けてみようかと思いましてな」
「……ほう?」
「もちろん、麗華が望むなら、ですが」
「なるほど」
九条院家の父親は頷いた。
しかし、内心では少しだけ落ち着かなくなっていた。
――西園寺家も、黒瀬君を招くつもりか。
もちろん、それ自体は何も問題ない。
だが、なぜだろう。
妙に気になる。
「……まあ、黒瀬君も忙しいでしょうからな」
「ええ。もちろん、無理にとは考えておりません」
「そうですか」
「ただ、麗華があれほど楽しそうに話す相手です。父親として、一度はお会いしてみたいものです」
「……お気持ちは分かります」
九条院家の父親は穏やかに答えた。
だが、頭の中では別のことを考えていた。
――澪にも、今度また黒瀬君を招いてはどうかと聞いてみるか。
その瞬間。
隣に座る妻が、静かに夫の腕をつついた。
「あなた」
「……何だ?」
「今、何を考えていらっしゃいました?」
「……別に」
「本当に?」
「……ああ」
妻は微笑んだ。
「澪に、黒瀬さんをお招きするよう勧めようなんて、考えていませんよね?」
「…………」
九条院家の父親は黙り込んだ。
西園寺家の母親が、思わず吹き出した。
「まあ! そちらも同じことを?」
「……そちらも?」
九条院家の父親が顔を上げる。
西園寺家の父親は、何食わぬ顔でグラスを持ち上げた。
「……何のことでしょうな」
「…………」
二人の視線が交差する。
穏やかな笑顔。
丁寧な言葉遣い。
しかし、その奥には確かな対抗意識があった。
――澪の初恋は、父親として応援したい。
――麗華の初恋だって、負けずに応援してやりたい。
もちろん、怜司本人の気持ちを無視するつもりはない。
娘たちに無理をさせるつもりもない。
それでも。
自分の娘が幸せになる未来を、誰よりも願っている。
その気持ちだけは、譲れなかった。
◇
帰りの車内。
九条院家の父親は、窓の外を眺めながら呟いた。
「……まさか、麗華さんも黒瀬君とはな」
妻が微笑む。
「驚きましたね」
「ああ」
「でも、あの二人なら、きっとお互いの気持ちを大切にできると思いますよ」
「……そうだな」
父親は頷いた。
そして、少し考えてから口を開く。
「……今度、澪に聞いてみるか」
「何をです?」
「黒瀬君を、また家に招いてみないかと」
妻は思わず笑った。
「あなた、さっきは張り合わないとおっしゃっていませんでした?」
「張り合うつもりなどない」
「本当に?」
「……澪が望むなら、という話だ」
「ふふっ。そういうことにしておきましょう」
妻は楽しそうに微笑んだ。
◇
一方。
西園寺家の車内でも、似たような会話が交わされていた。
「……黒瀬怜司君、か」
父親は小さく呟いた。
「随分と気になっているようですね」
妻が笑う。
「当然だろう。麗華が初めて本気で好きになった相手だ」
「そうですね」
「それに……」
「それに?」
父親は少しだけ眉を寄せた。
「……九条院さんは、既に会っているらしいからな」
妻はとうとう声を立てて笑った。
「あなた! やっぱり気にしているんじゃありませんか!」
「いや、そういうわけでは……」
「ふふっ。もう、子供みたい」
父親は咳払いをした。
そして、少しだけ真剣な表情になる。
「……麗華が幸せなら、それでいいんだ」
「ええ」
「ただ、その相手がどんな少年なのか、父親として知っておきたい」
妻は優しく微笑んだ。
「でしたら、麗華に相談してみましょう」
「……そうだな」
父親は頷いた。
そして、心の中で密かに決意する。
――九条院さんに、いつまでも先を越されたままというのも面白くない。
もちろん、そんなことを口にすれば妻に笑われる。
だから、決して言わなかった。
◇
その夜。
九条院澪は、自室で怜司から届いたメッセージを読んでいた。
『また時間が合うときに、どこか出かけましょう』
その一文に、思わず頬が緩む。
「……はい。ぜひ」
小さく呟いてから、丁寧に返信を打つ。
一方、西園寺麗華も、自室でスマートフォンを手にしていた。
『黒瀬さん。以前お話ししていたお店なのですが、今度ご一緒できませんか?』
文章を読み返し、少しだけ迷う。
そして、意を決して送信した。
「……ふふっ」
麗華は嬉しそうに微笑んだ。
二人の少女は、まだ知らない。
自分たちの父親が、同じ夜に同じ少年のことを考え、互いに妙な対抗意識を燃やしていることを。
そして、その中心にいる黒瀬怜司もまた、何も知らなかった。
◇
「……へえ」
黒瀬家の自室。
怜司はスマートフォンに届いたメッセージを見つめていた。
澪からの返信。
麗華からのお誘い。
どちらも、嬉しいものだった。
けれど、同時に少しだけ考えてしまう。
澪さんも、麗華さんも、自分と過ごす時間を大切にしてくれている。
それは、もう十分に伝わっていた。
だからこそ、軽い気持ちで扱うことはできない。
「……ちゃんと考えないとな」
怜司は小さく呟いた。
誰かと一緒に過ごすこと。
誰かに好意を向けられること。
以前の自分なら、想像すらできなかった。
けれど、今は違う。
自分を大切にしてくれる人たちがいる。
その気持ちに、どう向き合っていくべきなのか。
まだ答えは出ていない。
それでも、逃げずに考えたいと思っていた。
怜司はスマートフォンを手に取り、それぞれに丁寧な返信を送った。
そして、机の上に置かれた異世界での商売の記録へ視線を移す。
明日は、ベルン商会との取引についても確認したいことがある。
宿屋への継続納品。
新しい商人からの問い合わせ。
冒険者ギルドからの依頼。
考えることは山ほどあった。
「……よし。こっちも頑張ろう」
怜司は気持ちを切り替え、帳面を開いた。
自分の知らないところで、九条院家と西園寺家の父親たちによる、静かな親バカ戦争が幕を開けたことなど、夢にも思わずに。
そして、その戦いが今後、娘たちまで巻き込んだ賑やかな騒動へ発展していくことも。
まだ、誰も知らなかったのである。




