第109話 橘家の白猫と、隠しきれない恋心
「……美月?」
「な、何!?」
橘家のリビングに、少し大きな声が響いた。
母親は思わず目を瞬かせる。
「そんなに驚かなくてもいいじゃない」
「べ、別に驚いてないし!」
「そう?」
「そう!」
美月は勢いよく答えた。
だが、その腕には一匹の白い猫が抱かれている。
もちろん、本物ではない。
ふわふわとした白い毛並みに、丸い瞳。
先日、怜司とショッピングモールへ出かけた際に、ゲームセンターでもらったぬいぐるみだった。
美月は帰宅してからというもの、その白猫を妙に大切にしていた。
普段なら、買ってきたものを部屋へ置いたままにすることもある娘だ。
それなのに、このぬいぐるみだけは違う。
自室へ持っていく。
リビングへ連れてくる。
ソファに座るときも、なぜか隣に置く。
そして、時々嬉しそうに眺めている。
母親としては、気にならないはずがなかった。
「その猫、随分お気に入りなのね」
「……まあね」
「可愛いものね」
「うん」
美月は白猫の頭を撫でた。
その表情は、普段の勝ち気な娘とは少し違っていた。
どこか柔らかく、幸せそうだ。
「どこで買ったの?」
「……買ったんじゃないよ」
「あら、そうなの?」
「ゲームセンターで……」
「取ったの?」
「……取ってもらった」
母親の目が輝いた。
「誰に?」
「…………」
美月は黙った。
母親は微笑む。
「美月?」
「……怜司」
「怜司君?」
「うん」
その名前を口にした瞬間、美月の頬が赤くなった。
母親は思わず笑いそうになった。
しかし、ここで笑えば娘が意地になってしまうことくらい、よく分かっている。
「そう。優しい子なのね」
「……うん」
美月は小さく頷いた。
その声が、いつもよりずっと素直だった。
◇
橘美月は、幼い頃から活発な子供だった。
外で遊ぶのが大好きで、多少転んでも泣かずに立ち上がる。
運動が得意で、負けることが嫌い。
何かに挑戦すると決めたら、簡単には諦めない。
そんな娘を、両親は頼もしく思っていた。
ただし、少しばかり不器用なところもある。
特に、自分の気持ちを素直に伝えることが苦手だった。
嬉しいときほど照れ隠しをする。
褒められると、なぜか反発する。
そして、本当に大切なものほど、誰にも触らせたがらない。
だから母親は、白猫のぬいぐるみを抱きしめる娘を見た瞬間、何となく察していた。
――これは、ただの友達からもらったものではないのだろう。
◇
その日の夕食。
父親が帰宅すると、美月は珍しく食卓の準備を手伝っていた。
「おっ、美月。今日はどうした?」
「何が?」
「いや、随分機嫌がよさそうだからな」
「普通だし」
「そうか?」
父親は笑った。
美月は少しだけ顔を背ける。
母親はその様子を見ながら、楽しそうに料理を運んだ。
夕食が始まり、しばらく他愛のない会話が続いた。
学校のこと。
友人のこと。
最近の運動のこと。
そして、母親が何気なく切り出した。
「そういえば美月。この前のショッピングモール、楽しかった?」
「っ……!」
美月の箸が止まった。
父親が顔を上げる。
「ショッピングモール?」
「ええ。お友達と出かけたんですって」
「へえ。誰と?」
「……怜司」
美月は小さく答えた。
「怜司君か。そういえば、前にも一緒に運動していたんだったな」
「うん」
「仲がいいんだな」
「……まあね」
父親は特に深く考えず、食事を続けようとした。
だが、母親が続けた。
「しかもね、その怜司君から可愛いぬいぐるみをもらったんですって」
「お母さん!?」
美月が勢いよく顔を上げた。
母親は涼しい顔をしている。
「あら、秘密だった?」
「そ、そういうわけじゃないけど!」
「へえ。ぬいぐるみか」
父親は面白そうに笑った。
「美月がぬいぐるみを大事にするなんて、珍しいな」
「……別に、普通でしょ」
「いやいや。小さい頃は人形よりボールの方が好きだったじゃないか」
「それは昔の話!」
美月は顔を赤くして反論した。
父親は笑いながら頷く。
「そうだな。美月も大きくなったんだな」
「……もう!」
美月は少しむくれた。
しかし、その表情を見た母親は、ますます確信を深めていた。
娘は、恋をしている。
しかも、かなり本気で。
◇
夕食後。
美月が自室へ戻ると、母親は父親へ声をかけた。
「ねえ、あなた」
「ん?」
「美月、好きな男の子ができたみたいよ」
「……は?」
父親の動きが止まった。
「好きな男の子?」
「ええ」
「……誰だ?」
「さっき名前が出たでしょう?」
「……怜司君?」
「たぶんね」
父親はしばらく黙り込んだ。
そして、思わず笑った。
「ははっ! あの美月が恋愛か!」
「ちょっと、声が大きいわよ」
「いや、すまんすまん」
父親は口元を押さえた。
だが、どうにも笑いが収まらない。
「小さい頃なんて、男の子に負けるのが嫌だって、毎日走り回っていたのになあ」
「今でも負けず嫌いなのは変わらないでしょう?」
「それもそうだ」
二人は顔を見合わせて笑った。
しかし、父親はすぐに少し真剣な表情になった。
「……で、その怜司君って、どんな子なんだ?」
「詳しくは知らないけれど、美月の話を聞く限り、優しい子みたいよ」
「そうか」
「それに、美月があんなに大切そうにぬいぐるみを抱えているんですもの」
母親は微笑んだ。
「きっと、特別な人なのね」
父親は静かに頷いた。
「……一度、会ってみたいな」
「ふふっ。あなたも?」
「そりゃそうだろう。うちの娘が好きになった男の子なんだから」
そう言ってから、父親は少し考えた。
「……でも、美月にはまだ言うなよ」
「あら、どうして?」
「絶対に怒るだろう?」
「それは間違いないわね」
二人はまた笑った。
◇
その頃。
美月は自室のベッドに座り、白猫のぬいぐるみを抱きしめていた。
「……もう、お母さんったら」
夕食でのやり取りを思い出し、頬を膨らませる。
別に、怜司と出かけたことを隠したいわけではない。
むしろ、楽しかったことを誰かに話したい気持ちだってある。
でも。
あの日のことを思い出すと、どうしても恥ずかしくなる。
ゲームセンターで一緒に遊んだこと。
食事をしながら笑い合ったこと。
そして、自分から言った言葉。
『今日のこと、私はデートだと思って来たから』
「……うわあああ……!」
美月は白猫に顔を埋めた。
思い出すだけで、耳まで熱くなる。
あのときは、勢いで言ってしまった。
けれど、後悔はしていない。
むしろ、ちゃんと伝えられてよかったと思っている。
怜司は嫌がらなかった。
それどころか、次も一緒に出かけることを了承してくれた。
「……次も、デートか」
美月は小さく呟いた。
そして、白猫を見つめる。
「……ねえ。あんた、どう思う?」
当然、ぬいぐるみは答えない。
「……何やってんだろ、私」
自分で言って、思わず笑ってしまった。
そのとき、スマートフォンが震えた。
画面を見る。
怜司からだった。
『この前はありがとう。すごく楽しかったよ』
「……っ!」
美月は勢いよく背筋を伸ばした。
そして、すぐに返信を打ち始める。
『こっちこそ! また行こうね!』
送信。
少し考えて、もう一通。
『今度は私が行きたいところ決めてもいい?』
返事はすぐに届いた。
『もちろん。美月さんのおすすめ、楽しみにしてる』
「……よしっ!」
美月は小さく拳を握った。
そして、ベッドへ倒れ込む。
「……楽しみにしてる、だって」
嬉しくて、思わず笑ってしまう。
次はどこへ行こう。
何を着ていこう。
どんな話をしよう。
考え始めると、止まらなかった。
◇
翌朝。
美月は珍しく、いつもより早く起きた。
洗面所で髪を整えながら、鏡を覗き込む。
「……こっちの方がいいかな」
前髪を少し変えてみる。
それから、首を傾げた。
「……いや、変かな」
もう一度整え直す。
そんなことを繰り返していると、背後から声がした。
「あら、美月。今日は随分早いのね」
「お母さん!?」
美月は慌てて振り返った。
母親は楽しそうに微笑んでいる。
「髪形、気になるの?」
「……別に」
「怜司君に見せるため?」
「ち、違うってば!」
美月の顔が真っ赤になった。
母親は思わず笑った。
「はいはい。そういうことにしておくわ」
「もう!」
美月は頬を膨らませる。
だが、母親が部屋を出ていくと、もう一度鏡を覗き込んだ。
そして、小さく呟く。
「……ちょっとくらい、可愛いって思ってほしいじゃん」
その声は、誰にも聞こえないほど小さかった。
◇
その日の夜。
父親はリビングで、妻から娘の朝の様子を聞いていた。
「……髪形まで気にしていたのか?」
「ええ。何度も鏡を見ていたわ」
「ははっ。美月らしくないな」
「そう?」
母親は微笑んだ。
「私は、すごく美月らしいと思うけれど」
「……どういうことだ?」
「好きなことには、いつだって一生懸命な子でしょう?」
父親は少し考えた。
そして、ゆっくり頷く。
「……確かにな」
美月は昔から、何事にも全力だった。
運動でも、遊びでも、勝負でも。
そして今は、恋にも一生懸命なのだろう。
「……応援してやりたいな」
「ええ」
「ただ、あいつは無理をしすぎるところがあるからな」
「そうね」
「自分の気持ちばかり急がず、相手のこともちゃんと考えられるといいんだが」
母親は笑った。
「大丈夫よ。あの子だって、少しずつ大人になっているんだから」
父親は頷いた。
「……そうだな」
その頃、美月は自室で白猫のぬいぐるみを抱きしめながら、次の休日の予定を考えていた。
初めてのデートは、もう終わった。
けれど、これからが始まりなのだ。
次は、もっと自然に笑いたい。
もっと素直に話したい。
そして、いつか。
「……好きって、ちゃんと言えるかな」
美月は白猫を見つめた。
少しだけ恥ずかしそうに笑う。
「……まあ、焦らなくてもいいよね」
そう呟いて、ぬいぐるみをそっと抱きしめた。
橘家の両親は、まだ知らない。
娘が初めて本気で好きになった少年が、ほかの少女たちからも大切に想われていることを。
けれど、たとえそれを知ったとしても。
きっと二人は、こう言うだろう。
――美月らしく、頑張りなさい。
それが、橘家の変わらない家族の形だった。




