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虐げられた俺は異世界で神を超える 〜傷ついた黒猫を助けたら、現実世界での復讐が始まった〜  作者: 覇王が好き


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第107話 西園寺家の令嬢と、父親の知らない恋心

 西園寺家の朝は、規則正しい。


 決まった時間に朝食が用意され、家族が食卓を囲み、それぞれが一日の予定を確認する。


 それは西園寺麗華が幼い頃から変わらない光景だった。


 ただし、最近になって一つだけ変化が生まれていた。


「お母様。今日の髪形、少し変ではありませんか?」


 朝食を終えた麗華が、母親にそう尋ねたのである。


 母親は思わず目を瞬かせた。


「髪形?」


「ええ。少しだけ、こちらの毛先が気になりまして」


 麗華は自分の髪に指を添える。


 丁寧に整えられた長い髪は、母親から見れば十分に美しかった。


「おかしくなんてないわ。とても似合っているわよ」


「そうですか?」


「ええ。どうして急に?」


「……いえ。何でもありませんわ」


 麗華はそう答えると、何事もなかったように席へ戻った。


 しかし母親は見逃さなかった。


 娘が、ほんの少しだけ頬を赤くしていたことを。


 そしてもう一人。


 新聞を読んでいた父親も、そのやり取りを耳にしていた。


「麗華」


「はい、お父様」


「今日は何か特別な予定でもあるのか?」


「いいえ。普段どおりですわ」


「そうか」


 父親は新聞へ視線を戻した。


 だが、内心では首を傾げていた。


 麗華は昔から身だしなみに気を遣う娘だ。


 西園寺家の令嬢として、人前に出るときには常に品位を保つ。


 しかし、今日の様子は少し違う。


 誰かにどう見られるかを、いつも以上に気にしているようだった。


「……ふむ」


 父親は小さく唸った。


 すると妻が、面白そうにこちらを見ている。


「あなた、どうかなさいました?」


「いや。麗華も随分と年頃らしくなったと思ってな」


「あら、今さらですか?」


「……今さらとは何だ」


「ふふっ。何でもありません」


 妻はそれ以上何も言わなかった。


 その笑顔が妙に気になったが、父親はあえて追及しなかった。


     ◇


 麗華が出かけた後。


 母親は使用人から、娘の部屋に新しい洋服が何着か増えていると聞いた。


 もちろん、麗華が服を買うこと自体は珍しくない。


 しかし最近は、以前なら選ばなかったような柔らかい色合いの服にも興味を示しているらしい。


 母親は思わず微笑んだ。


「……なるほどね」


 その日の午後。


 書斎で仕事をしていた夫のもとを訪ねる。


「あなた、少しよろしいかしら?」


「ああ。どうした?」


「最近の麗華について、何かお気づきになりません?」


「最近の麗華?」


「ええ」


 父親は少し考えた。


「以前より明るくなったようには思うな」


「ほかには?」


「……髪形を気にしていた」


「それだけですか?」


「何が言いたい?」


 妻は楽しそうに微笑んだ。


「どうやら、あの子にも好きな方ができたみたいですよ」


「…………何?」


 父親の手が止まった。


 書類に目を落としていた顔が、ゆっくりと上がる。


「……好きな方?」


「ええ」


「麗華に?」


「ほかに誰がいるんです?」


「いや、それは……」


 父親は言葉を詰まらせた。


 麗華が誰かを好きになる。


 もちろん、いつかはそんな日が来ると思っていた。


 だが、あまりにも突然ではないか。


「……相手は誰だ?」


「まだ本人から詳しく聞いたわけではありませんけれど」


「けれど?」


「黒瀬怜司さん、というお名前には心当たりがあります」


「黒瀬……怜司?」


 父親は聞き慣れない名前を繰り返した。


「聖蘭学園のお友達だそうです。以前、二人で休日に出かけたこともあるみたいですよ」


「……二人で?」


「ええ」


「麗華が?」


「そうです」


 父親は深く椅子へ背中を預けた。


 どうやら、自分の知らないところで娘の世界は随分と広がっていたらしい。


「……どんな少年なんだ?」


「そこまでは、まだ」


「家は?」


「あなた」


 妻の声が、少しだけ厳しくなった。


「最初に気にするのが家柄では、麗華が悲しみますよ」


「……いや、そういうつもりではない」


「でしたら、まずはどんな方なのか、麗華の話を聞いてあげてください」


 父親は黙り込んだ。


 確かに、妻の言うとおりだった。


 自分は西園寺家の当主である前に、麗華の父親なのだ。


 娘がどんな相手に心を寄せているのか。


 それを知りたいと思うのは当然だが、最初から条件を並べ立てるつもりはなかった。


「……そうだな」


 父親は小さく頷いた。


「今夜、麗華と話してみよう」


     ◇


 その日の夕食後。


 麗華は自室で、一冊の本を開いていた。


 先日、怜司と訪れた書店で見かけた作家の作品だ。


 別に、怜司に勧められたわけではない。


 ただ、あの日のことを思い出すと、自然と手に取りたくなった。


「……黒瀬さん」


 小さく名前を呟く。


 すると、胸の奥がくすぐったくなった。


 あの日、怜司は自分の話を丁寧に聞いてくれた。


 こちらの意見にただ頷くだけではなく、自分の考えも話してくれた。


 そして何より、一緒に過ごした時間が楽しかった。


 西園寺家の令嬢としてではなく、ただの西園寺麗華として接してもらえること。


 それが、どれほど心地よかったことか。


「……また、お誘いしてもよろしいかしら」


 思わず呟いた、そのとき。


 扉が叩かれた。


「麗華。少しいいか?」


「お父様? ええ、どうぞ」


 父親が入ってくる。


 その表情は、どこか普段よりも真剣だった。


「何かございましたか?」


「いや。少し話をしたくてな」


 父親は椅子へ腰を下ろした。


「最近、学校はどうだ?」


「とても充実していますわ」


「そうか。研究活動も終わったそうだな」


「はい。皆さんと協力して、とてもよい経験ができました」


 麗華は穏やかに答える。


 父親は頷きながら、次の言葉を探した。


「……その研究班には、男子生徒もいたのか?」


「ええ。三人いらっしゃいましたわ」


「ほう」


「一条さんと神崎さん、それから黒瀬さんです」


 父親の眉が動いた。


 名前が出た。


 思ったより自然に出てきた。


「……黒瀬君というのは、どんな少年なんだ?」


「えっ?」


 麗華が顔を上げる。


「どうして、黒瀬さんのことを?」


「いや、研究班の仲間なら、どんな人物なのかと思ってな」


「……そうですか」


 麗華は少し考えた。


 そして、静かに微笑む。


「とても誠実な方ですわ」


「誠実?」


「ええ。誰に対しても分け隔てなく接してくださいますし、努力を惜しまない方です」


 父親は黙って耳を傾ける。


「それに、黒瀬さんは……」


 麗華はそこで言葉を止めた。


 何と説明すればよいのだろう。


 優しい。


 真面目。


 努力家。


 もちろん、どれも間違ってはいない。


 けれど、自分が惹かれた理由は、それだけではなかった。


「……私を、特別扱いしすぎない方です」


「特別扱いしない?」


「はい。西園寺家の娘だからといって、必要以上に気を遣われることもありません。もちろん、礼儀はきちんとしていらっしゃいますけれど」


 麗華は小さく笑った。


「私が何かを話せば、きちんと聞いてくださるんです。意見が違えば、ご自分の考えも伝えてくださいます」


 その声は、いつもより柔らかかった。


「一緒にいると、自然体でいられるんですの」


 父親は、娘の顔を見つめた。


 その表情を見た瞬間、理解した。


 これは、ただの友人について話している顔ではない。


「……麗華」


「はい?」


「その黒瀬君のことが、好きなのか?」


「っ……!」


 麗華の頬が、一気に赤くなった。


「お、お父様!?」


「いや、その……」


「どうして突然、そのようなことをお聞きになるんですの!?」


 父親は思わず姿勢を正した。


 娘がここまで取り乱す姿は珍しい。


「す、すまん。答えにくいなら、無理に答えなくてもいい」


「…………」


 麗華は俯いた。


 胸が激しく鼓動している。


 父親に恋心を尋ねられる日が来るとは思わなかった。


 けれど、否定したくはなかった。


 黒瀬怜司を好きだという気持ちは、自分にとって大切なものだから。


「……まだ」


「うん?」


「まだ、黒瀬さんには……きちんとお伝えしていませんわ」


 小さな声だった。


 しかし、父親には十分だった。


「……そうか」


「ですから、その……」


「分かった。これ以上は聞かん」


 父親は穏やかに微笑んだ。


「ただ一つだけ、聞かせてくれ」


「……何でしょう?」


「その少年と一緒にいると、幸せか?」


 麗華はゆっくり顔を上げた。


 そして、恥ずかしそうに頷いた。


「……はい」


 その笑顔を見た父親は、静かに息を吐いた。


 娘が本当に誰かを好きになった。


 それは、少し寂しくもあり、嬉しくもあることだった。


「なら、その気持ちを大切にしなさい」


「……お父様」


「ただし、自分を大切にすることも忘れてはいけないぞ」


「はい」


 麗華は微笑んだ。


「ありがとうございます」


     ◇


 その夜。


 寝室へ戻った父親は、妻に向かって言った。


「……どうやら、本当らしい」


「あら、麗華のことですか?」


「ああ」


「ふふっ。どんな様子でした?」


「……真っ赤になっていた」


 妻は思わず笑った。


「あの麗華が?」


「ああ。私も驚いた」


「まあ……可愛らしいこと」


 父親は苦笑する。


「それで、黒瀬君という少年だが……」


「ええ」


「一度、会ってみたいものだな」


 妻は少し意外そうに目を丸くした。


「反対なさらないんですか?」


「なぜ反対する?」


「西園寺家の娘ですもの。もっと家柄を気になさるかと思っていました」


 父親は静かに首を振った。


「家柄だけで人間の価値が決まるわけではない。それくらいは分かっている」


 そして、少しだけ笑った。


「何より、あの麗華が自分から誰かを好きになったんだ。まずは、その相手を知りたい」


「……そうですね」


 妻は嬉しそうに頷いた。


「きっと、素敵な方なのでしょうね」


「ああ。そうだといいな」


 父親は窓の外へ目を向けた。


 黒瀬怜司。


 まだ顔も知らない少年。


 しかし、娘の心をこれほど動かした相手だ。


 興味が湧かないはずがない。


「……機会があれば、ぜひ話してみたいものだ」


 そう呟いた父親は、まだ知らなかった。


 その少年と、九条院家の当主が既に顔を合わせていることを。


 そして、その事実が自分の妙な対抗心に火をつけることになるなど、このときは考えもしなかったのである。

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