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虐げられた俺は異世界で神を超える 〜傷ついた黒猫を助けたら、現実世界での復讐が始まった〜  作者: 覇王が好き


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第106話 九条院家の父親は娘の初恋を知る

 九条院家の当主には、最近どうにも気になっていることがあった。


 それは仕事のことでも、家同士の付き合いのことでもない。


 もっと身近で、もっと大切な問題だ。


 ――一人娘の澪が、最近やけに嬉しそうなのである。


「お父様、おはようございます」


「ああ、おはよう、澪」


 朝の食堂に現れた娘は、いつものように上品な笑みを浮かべていた。


 淡い色のブラウスに、丁寧に整えられた髪。


 その姿は、誰が見ても九条院家の令嬢にふさわしい。


 だが、父親には分かる。


 最近の澪は、以前よりもずっと表情が豊かになった。


 以前から笑顔の絶えない娘ではあったが、どこか周囲に気を遣っているようなところがあった。


 ところが今は違う。


 何でもないときに微笑んでいたり、スマートフォンを見つめて嬉しそうにしていたり。


 先日など、庭園を歩きながら一人で小さく笑っていた。


 父親としては、気にならないはずがない。


「澪。最近、学校はどうだ?」


「はい。とても楽しいです」


「そうか。研究活動も終わったと聞いたが」


「ええ。最終発表も無事に終わりました。皆さんと協力して、一つのことを成し遂げられたのは、とてもよい経験でした」


 澪はそう言って微笑んだ。


 その表情には、確かな充実感がある。


「特に、レイジさんには本当に助けていただきました」


「……ほう」


 父親の眉がわずかに動いた。


 黒瀬怜司。


 その名前には覚えがある。


 いや、名前だけではない。


 以前、実際に会ったことのある少年だ。


 初めて顔を合わせたとき、彼は少し緊張していた。


 だが、九条院家の名前に必要以上に萎縮することも、反対に取り入ろうとすることもなかった。


 質問には自分の言葉で答え、分からないことを無理に知ったふりもしない。


 若いながら、なかなか誠実な少年だと感じたものだった。


「黒瀬君か。彼も元気にしているのか?」


「はい!」


 返事が早かった。


 あまりにも早かった。


 澪自身もそれに気づいたのか、少し恥ずかしそうに頬を染める。


「……その、レイジさんは、いつもお元気です」


「そうか」


 父親は紅茶を口に運んだ。


 向かい側では、妻が楽しそうに微笑んでいる。


 どうやら、自分だけが何かに気づいていないらしい。


「あなた、そんなに難しい顔をなさらなくても」


「別に難しい顔などしていない」


「あら、そうですか?」


 妻はくすりと笑った。


 澪は不思議そうに両親を見比べている。


 そのとき、テーブルの上に置かれたスマートフォンが小さく震えた。


「あっ……」


 澪が画面を確認する。


 次の瞬間。


 ふわり、と。


 それはもう、見ているこちらが驚くほど幸せそうな笑顔が浮かんだ。


「……ふふっ」


 澪は小さく笑い、すぐに返信を打ち始める。


 父親は思わず口を開いた。


「澪」


「はい?」


「……誰からだ?」


「えっ?」


 娘の頬が、ほんのり赤くなる。


「その……レイジさんからです」


「…………」


 父親は静かにカップを置いた。


 妻が笑いをこらえている。


「そうか。黒瀬君からか」


「はい。先日お話ししていた本のことを、覚えていてくださったみたいで……」


 嬉しそうに画面を見つめる娘。


 その表情を見た父親は、ようやく一つの可能性に思い至った。


 いや。


 可能性というより、ほとんど答えが出ているようなものだった。


     ◇


 澪が学校へ向かった後。


 父親は、食堂に残っていた妻へ尋ねた。


「……なあ」


「はい?」


「澪は、もしかして……」


「恋をしているのか、ですか?」


「……まだ何も言っていないだろう」


「お顔に書いてありますもの」


 妻は楽しそうに笑った。


「あなたも気づいたでしょう? あの子が黒瀬さんのお名前を口にするときの表情」


「……ああ」


「とても幸せそうでしたね」


 父親は黙って頷いた。


 娘が誰かを好きになる。


 それ自体は、何もおかしなことではない。


 澪は高校生だ。


 いつか、そんな日が来るとは思っていた。


 しかし、いざ現実になると、どうにも複雑だった。


「……まだ早くないか?」


「あら。何がです?」


「その……恋愛というものが」


「あなた。私たちが初めて出会った頃のことをお忘れですか?」


「……それとこれとは話が違う」


「同じですよ」


 妻は笑いながら紅茶を飲んだ。


「それに、黒瀬さんなら、あなたもお会いになっているでしょう?」


「ああ」


「どんな方でした?」


 父親は少し考えた。


 そして、率直に答える。


「礼儀正しく、誠実な少年だった」


「あら」


「こちらの立場を知っても、態度を変えなかった。自分の考えを持っているようにも見えたな」


「随分と高い評価ですね」


「事実を言ったまでだ」


 妻は微笑んだ。


「でしたら、よかったではありませんか」


「……何がだ?」


「澪が初めて本気で好きになった方が、あなたから見ても素敵な少年だったということです」


「…………」


 父親は返す言葉を失った。


 確かに、そのとおりだった。


 もし娘が誰かを好きになるのなら、誠実で、思いやりのある相手であってほしい。


 それは、父親として当然の願いだ。


 そして黒瀬怜司は、少なくとも自分が会った限り、その条件を十分に満たしていた。


 ……だからといって、簡単に割り切れるものでもないのだが。


     ◇


 その日の夜。


 澪は自室で、以前怜司と出かけた日のことを思い返していた。


 美術館で並んで絵を眺めた時間。


 カフェで交わした何気ない会話。


 そして、帰り道。


 初めて手をつないだ瞬間。


「……レイジさん」


 名前を口にしただけで、胸が温かくなる。


 あの日、怜司は少し緊張していた。


 もちろん、自分も同じだった。


 けれど、彼の手は温かかった。


 その温もりが、今でも忘れられない。


「……また、お会いしたいです」


 そう呟いたとき、扉が控えめに叩かれた。


「澪。少しいいか?」


「お父様? はい、どうぞ」


 父親が部屋へ入ってくる。


「勉強の邪魔ではなかったか?」


「いいえ。ちょうど休憩していたところです」


「そうか」


 父親は近くの椅子へ腰を下ろした。


 しばらく、他愛のない会話が続く。


 学校のこと。


 友人のこと。


 研究活動のこと。


 そして、父親は何気ない調子で尋ねた。


「黒瀬君とは、今でも仲がいいのか?」


「……はい」


 澪は嬉しそうに頷いた。


「レイジさんとは、研究活動が終わってからもお話ししています」


「そうか」


「それに……」


「それに?」


 澪は少し迷った。


 だが、やがて小さく微笑んだ。


「……休日にも、ご一緒させていただいています」


「…………」


 父親は一瞬だけ固まった。


 休日。


 二人で。


 その意味を考え、思わず姿勢を正す。


「……二人きりでか?」


「はい」


「……そうか」


 父親はできるだけ平静を装った。


 だが、内心は穏やかではない。


 自分の知らない間に、娘はそこまで親しい相手を見つけていたのだ。


「楽しかったか?」


 ようやく出てきたのは、そんな言葉だった。


 澪は少し頬を染めながら頷く。


「……はい。とても」


 その笑顔を見た瞬間、父親の胸にあった複雑な感情が、少しだけ和らいだ。


 娘が幸せそうだ。


 それなら、まずは喜んでやるべきなのだろう。


「澪」


「はい?」


「黒瀬君と過ごす時間を、大切にしなさい」


 澪が驚いたように顔を上げた。


「……お父様?」


「九条院家の娘だからといって、何もかも家のために決める必要はない。お前自身が大切だと思うものを、きちんと大切にしてほしい」


 澪はしばらく父親を見つめていた。


 そして、ゆっくりと微笑む。


「……ありがとうございます、お父様」


 その笑顔は、幼い頃に見せていた無邪気なものとは少し違っていた。


 一人の少女が、自分の気持ちを大切にしながら成長している。


 父親は、そんな娘の姿を嬉しく思った。


 同時に、ほんの少しだけ寂しくもあった。


     ◇


 寝室へ戻ると、妻が待っていた。


「どうでした?」


「……何がだ?」


「澪とのお話です」


「……黒瀬君と、休日にも出かけているそうだ」


「あら、そうなんですね」


 妻は嬉しそうに微笑んだ。


「……驚かないのか?」


「驚いていますよ?」


「まったくそうは見えんが」


「だって、あの子が幸せそうなんですもの」


 父親は小さく息を吐いた。


「……そうだな」


 窓の外には、静かな夜の庭園が広がっている。


「黒瀬君が澪を大切にしてくれるなら、私も応援したいと思う」


「ええ」


「だが、もし泣かせるようなことがあれば……」


「あなた」


 妻が優しく遮った。


「まだ何も起きていないのに、そんな心配ばかりしてはいけませんよ」


「……分かっている」


「それに、澪だって自分の気持ちをきちんと伝えられる子です」


 父親は静かに頷いた。


 娘を信じる。


 そして、娘が心を寄せた少年も、まずは信じてみる。


 それが今の自分にできることなのだろう。


「……それにしても」


「はい?」


「黒瀬君は、なかなか大した少年なのかもしれんな」


「あら。どうしてです?」


「うちの澪を、あれほど笑顔にしているんだからな」


 妻は目を細めた。


「ふふっ。本当にそうですね」


 夫婦は穏やかに笑い合った。


 その頃、澪は自室で怜司から届いたメッセージを読み返していた。


 次に会える日を楽しみにしながら。


 そして九条院家の父親は、まだ知らない。


 娘が心を寄せる黒瀬怜司という少年に、親友である西園寺麗華もまた、特別な想いを抱いていることを。


 その事実を知ったとき、穏やかな父親同士の間に、思いがけない対抗意識が芽生えることになるのだが――。


 それは、もう少し先の話である。

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