第104話 宿屋の評判と新しい可能性
第104話 宿屋の評判と新しい可能性
「レイジさん!」
ベルン商会へ入った瞬間、トーマスが嬉しそうに声をかけてきた。
「おはようございます」
「おはようございます。ちょうど、よい知らせが届いたところです」
怜司は目を瞬かせた。
「……よい知らせ?」
「《銀の小鹿亭》から、試験販売の結果が届きました」
その言葉に、怜司の胸が高鳴った。
先日、宿屋との一週間限定の試験取引が始まった。
納品したのは、個別に包装された飴、二十個。
客室へ置く小さなサービスとして使ってもらうための商品だ。
果たして、客の反応はどうだったのか。
「……どうでした?」
怜司が尋ねる。
トーマスは微笑んだ。
「まずは、こちらをご覧ください」
差し出された紙には、宿屋からの報告がまとめられていた。
設置した客室の数。
実際に菓子を受け取った客の数。
客から寄せられた感想。
そして、宿屋側の評価。
怜司は一つずつ読み進めた。
「……喜んでもらえたんですね」
「ええ」
トーマスが頷く。
「特に、長旅の後に甘いものを食べられたことを喜ぶ声が多かったそうです」
怜司は嬉しくなった。
ただ商品が売れたわけではない。
誰かの疲れを、少しだけ和らげることができた。
その事実が、胸に温かく響いた。
◇
「ただし、課題もあります」
トーマスが続けた。
「……はい」
怜司は真剣な表情になった。
「まず、客室に置く菓子としては、価格が少し高いという意見がありました」
「……なるほど」
「それから、すべてのお客様が甘いものを好むわけではありません」
怜司は頷いた。
「確かに、そうですね」
「さらに、宿の従業員が毎回商品を補充する手間もかかります」
怜司はノートを開いた。
価格。
好み。
補充の手間。
どれも、実際に使ってもらわなければ分からなかったことだ。
「……思っていたより、考えることが多いですね」
怜司が呟く。
トーマスは笑った。
「それが商売です」
そして、少しだけ真剣な声になった。
「ですが、今回の結果は悪くありません」
「……本当ですか?」
「ええ。宿屋の主人は、条件が合えば続けたいと考えているようです」
怜司の表情が明るくなった。
「……よかった!」
トーマスも微笑んだ。
「ただし、ここからが本当の商談ですぞ」
◇
昼前。
怜司とトーマスは、再び《銀の小鹿亭》を訪れた。
宿の主人クララは、二人を笑顔で迎えてくれた。
「いらっしゃい、レイジさん!」
「こんにちは、クララさん」
「この前のお菓子、ありがとうね」
クララは嬉しそうに笑った。
「お客様から、結構いい反応があったのよ」
「本当ですか?」
「ええ。特に、長い旅をしてきた商人さんたちには好評だったわ」
怜司はほっとした。
「……よかったです」
クララは頷いた。
「ただね、毎日全部の部屋に置くとなると、少し費用が気になるの」
「……そうですよね」
怜司は真剣に答えた。
宿屋も商売だ。
客が喜んでくれるからといって、採算を無視することはできない。
「だから、まずは希望するお客様へのサービスにしてみようかと思ってるの」
クララが言う。
「希望するお客様?」
「ええ。例えば、チェックインのときに、小さなお菓子はいかがですかって聞くの」
怜司は少し考えた。
「……それなら、必要な数を調整できますね」
「そうなのよ」
クララは笑った。
「無駄も減るし、お客様にも選んでもらえるでしょう?」
怜司は頷いた。
すべての客に同じサービスをする必要はない。
欲しい人に、欲しいものを届ける。
その方が、宿屋にとっても客にとってもよいかもしれない。
◇
商談は、前回よりも具体的な内容になった。
まず、次の二週間は少量の納品を継続する。
数量は、宿の利用状況を見ながら調整する。
価格は、無理に下げすぎない。
そして、商品を渡した客の反応を引き続き確認する。
「……この条件なら、どうでしょう?」
怜司が尋ねる。
クララは少し考えた。
「いいと思うわ」
トーマスも頷いた。
「商会としても、対応可能です」
怜司は安心した。
今回も、大きな利益が出るわけではない。
だが、継続して取引できる可能性が生まれた。
それだけでも、大きな前進だった。
「……よろしくお願いします!」
怜司は深く頭を下げた。
クララは笑顔で手を差し出した。
「こちらこそ、よろしくね!」
◇
商談が終わった後。
クララは、二人に温かい飲み物を出してくれた。
「そういえば、レイジさん」
「はい?」
「このお菓子って、ほかにも種類があるの?」
怜司は少し驚いた。
「……ありますけど」
「そうなの?」
クララは興味深そうに身を乗り出した。
「実はね、常連のお客様から、甘いものが苦手な人向けの品はないのかって聞かれたの」
怜司は考えた。
日本には、甘くない菓子もたくさんある。
せんべい。
クラッカー。
塩味のスナック。
だが、こちらへ持ち込むなら、保存方法や原材料、包装の状態などを改めて確認する必要がある。
何より、ルミエールの人々の口に合うかどうかは分からない。
「……すぐにはお約束できませんけど、考えてみます」
怜司が答える。
クララは嬉しそうに笑った。
「ありがとう。無理はしないでね」
「はい」
怜司は頷いた。
新しい商品を増やすことは、魅力的だ。
けれど、焦って種類を増やしすぎれば、管理が難しくなる。
今は、慎重に進めるべきだろう。
◇
ベルン商会へ戻る途中。
トーマスが怜司へ声をかけた。
「レイジさん。今回の商談、どう感じましたか?」
「……面白かったです」
怜司は素直に答えた。
「最初は、お菓子を売るだけだと思っていました」
「ほう」
「でも、宿屋の仕事の仕方まで考える必要があるんですね」
トーマスは微笑んだ。
「その通りです」
怜司は続けた。
「相手の商売を理解しないと、いい取引はできないんだなって」
トーマスは満足そうに頷いた。
「よい学びですな」
そして、少しだけ真剣な表情になった。
「実は、もう一つお話があります」
「……え?」
「今回の件を聞いた、別の商人から問い合わせが来ております」
怜司は目を見開いた。
「……別の商人?」
「ええ。宿屋向けの備品や日用品を扱っている方です」
トーマスは説明した。
「珍しい菓子を取り扱っていると聞き、興味を持たれたようです」
怜司の胸が高鳴った。
新しい取引先。
新しい可能性。
けれど、同時に不安もあった。
まだ、最初の宿屋との取引すら始まったばかりだ。
ここで手を広げすぎて、大丈夫なのだろうか。
「……すぐに話を進めるのは、少し怖いですね」
怜司が正直に言う。
トーマスは頷いた。
「その慎重さは、悪いことではありません」
「……はい」
「まずは、どのような商品を、どの程度求めているのか。話を聞くだけでもよいのです」
怜司は少し安心した。
「……そうですね」
そして、微笑んだ。
「まずは、お話を聞いてみたいです」
◇
夕方。
怜司はルミナス伯爵家を訪れていた。
エリシアに、今回の商談結果を報告するためだ。
「まあ!」
話を聞いたエリシアが、嬉しそうに目を輝かせた。
「継続取引のお話が進んだのですね!」
「うん。まだ小さな規模だけど」
「素晴らしいです!」
エリシアは笑顔で頷いた。
「レイジ様が、丁寧に準備されてきた成果ですね」
怜司は少し照れた。
「トーマスさんや、エリシアのおかげだよ」
「……私も、お役に立てたのなら嬉しいです」
エリシアの頬が少し赤くなる。
怜司はノートを広げた。
「それで、また相談したいことがあって」
「はい!」
エリシアは嬉しそうに身を乗り出した。
怜司は、新しい商人から問い合わせがあったことを説明した。
エリシアは真剣に耳を傾けた。
「……なるほど」
そして、少し考えた。
「でしたら、今の取引を安定させることを優先してはいかがでしょう?」
「……やっぱり?」
「はい。新しい取引先を増やすことは魅力的ですが、約束を守れなくなっては意味がありません」
怜司は頷いた。
「……僕も、そう思ってた」
エリシアは微笑んだ。
「レイジ様は、もうご自分で判断できていらっしゃいますね」
「……そうかな」
「はい」
エリシアは優しく笑った。
「私は、背中を押しただけです」
その言葉が、怜司には嬉しかった。
◇
勉強会を終えた後。
二人は庭園を歩いていた。
夕日が、花々を柔らかく照らしている。
「……レイジ様」
エリシアが静かに口を開いた。
「うん?」
「最近、商売のお話を聞くのが、とても楽しみなんです」
怜司は少し驚いた。
「……本当?」
「はい」
エリシアは微笑んだ。
「レイジ様が、少しずつ新しいことを成し遂げていく姿を見ると、私まで嬉しくなります」
怜司は照れくさそうに笑った。
「……ありがとう」
エリシアは少しだけ視線を落とした。
「それに……」
「うん?」
「こうして、レイジ様と一緒に過ごせる時間も、好きですから」
怜司は彼女を見つめた。
エリシアの頬は、ほんのり赤くなっている。
「……僕も、エリシアと話すのは楽しいよ」
怜司は優しく答えた。
エリシアの表情が明るくなった。
「……ありがとうございます」
彼女は嬉しそうに微笑んだ。
◇
夜。
怜司はルミエールの宿で、今日の取引内容を整理していた。
最初の宿屋との継続取引。
新しい商人からの問い合わせ。
そして、今後の商品構成。
少しずつ、商売が広がり始めている。
だが、焦る必要はない。
まずは、今ある約束を守ること。
品質を維持すること。
そして、相手の役に立つこと。
「……よし」
怜司はノートを閉じた。
小さな商売は、確かに次の段階へ進み始めていた。
その先に、どんな未来が待っているのか。
まだ分からない。
けれど、怜司はもう、挑戦することを恐れてはいなかった。




