第103話 藤宮詩織、恋人未満の休日
第103話 藤宮詩織、恋人未満の休日
土曜日の朝。
藤宮詩織は、自室の鏡の前で立ち尽くしていた。
「……どうしよう」
ベッドの上には、三組の服が並んでいる。
淡い色のブラウス。
落ち着いたワンピース。
少しだけ大人っぽいカーディガン。
どれも普段から着ている服だ。
けれど、今日はなかなか決められなかった。
理由は一つ。
黒瀬怜司と、二人で出かけるからだ。
前回は図書館での勉強が目的だった。
今回は違う。
勉強ではなく、普通に一緒に過ごしたい。
そう自分から誘い、怜司が了承してくれた。
「……普通に、って」
詩織は小さく呟いた。
それはつまり、デートなのだろうか。
けれど、まだ付き合っているわけではない。
そもそも、怜司が自分をどう思っているのかも分からない。
「……考えすぎかな」
詩織は頬を押さえた。
それでも、胸の高鳴りは止まらなかった。
◇
待ち合わせ場所は、駅前の大型書店だった。
怜司は少し早めに到着していた。
「……まだ時間あるな」
スマートフォンを確認する。
約束まで、あと十分。
今日は詩織が行きたいと言っていた書店を中心に回り、その後は近くのカフェで休憩する予定だ。
怜司自身も、本を選ぶのが楽しみだった。
経営や会計の勉強を続けているうちに、知りたいことが増えていたからだ。
だが、それ以上に。
詩織と二人で過ごす時間が、少し楽しみになっていた。
「……黒瀬君」
控えめな声が聞こえた。
振り返ると、詩織が立っていた。
淡い水色のワンピース。
肩にかけた小さなバッグ。
丁寧に整えられた髪。
普段の制服姿とは違う、柔らかな雰囲気だった。
「……詩織さん」
怜司は思わず目を見開いた。
「おはようございます」
「おはようございます」
詩織は少し緊張したように微笑んだ。
「待たせてしまいましたか?」
「いえ。僕も今来たところです」
怜司は笑った。
そして、少しだけ迷った後、言葉を続けた。
「……今日の服、すごく似合ってますね」
詩織の頬が、一瞬で赤くなった。
「……あ、ありがとうございます」
「その色、詩織さんに合ってると思います」
怜司は素直に言った。
詩織は俯いた。
朝から何度も服を選び直したこと。
髪を整えるのに、いつもより時間をかけたこと。
そんなことを知られたら、恥ずかしくてたまらない。
けれど。
気づいてもらえたことが、嬉しかった。
「……黒瀬君も、素敵です」
詩織は小さな声で言った。
今度は怜司が少し照れた。
「ありがとうございます」
二人は顔を見合わせ、控えめに笑った。
◇
書店へ入ると、詩織の表情が少し明るくなった。
「……ここ、好きなんです」
「よく来るんですか?」
「はい。静かですし、専門書も多いので」
怜司は周囲を見渡した。
広い店内には、さまざまな分野の本が並んでいる。
小説。
歴史。
科学。
経済。
芸術。
そして、料理や旅行の本。
「……すごいですね」
怜司が呟く。
詩織は嬉しそうに微笑んだ。
「でしょう?」
その笑顔を見て、怜司は少し驚いた。
学校では、詩織はどちらかといえば控えめだ。
けれど、好きな本の話になると、表情が明るくなる。
「……詩織さん、本当に本が好きなんですね」
「……はい」
詩織は少し照れながら頷いた。
「小さい頃から、読むのが好きでした」
「どんな本を読むんですか?」
「いろいろですけど……物語が多いです」
「物語?」
「はい。自分が知らない世界へ行けるような気がして」
怜司は、その言葉に思わず笑った。
知らない世界。
自分は、本当に別の世界へ行っている。
もちろん、そのことを話すわけにはいかない。
けれど、詩織の気持ちはよく分かった。
「……いいですね」
怜司が言う。
「僕も、知らないことを知るのは好きです」
詩織は嬉しそうに微笑んだ。
◇
二人は書棚をゆっくり見て回った。
詩織が一冊の小説を手に取る。
「……これ、前から気になっていたんです」
「どんな話なんですか?」
「主人公が、自分の居場所を探す物語です」
怜司は少し興味を持った。
「……面白そうですね」
「はい」
詩織は表紙を見つめた。
「最初は、自分には何もないと思っている主人公なんです。でも、いろいろな人と出会って、少しずつ変わっていくんです」
怜司は静かに頷いた。
どこか、自分と重なるものがあった。
「……僕も読んでみようかな」
詩織が目を丸くした。
「……本当ですか?」
「はい。詩織さんが好きな本なら、気になります」
詩織の胸が高鳴った。
自分の好きなものに、興味を持ってくれる。
それが、こんなにも嬉しいとは思わなかった。
「……じゃあ」
詩織は少しだけ勇気を出した。
「読み終わったら、感想を聞かせてもらえますか?」
「もちろんです」
怜司は笑顔で頷いた。
「楽しみにしてます」
詩織も微笑んだ。
新しい約束が、一つ増えた。
◇
昼。
二人は書店の近くにあるカフェへ入った。
窓際の席に座り、軽い食事を注文する。
「今日は、誘ってくれてありがとうございます」
怜司が言う。
詩織は少し驚いた。
「……こちらこそ、来てくれてありがとうございます」
「すごく楽しいです」
怜司は笑った。
「詩織さんの好きなものを、いろいろ知れたので」
詩織は俯いた。
「……私も、楽しいです」
しばらく穏やかな会話が続いた。
学校のこと。
好きな本のこと。
将来のこと。
そして、家族のこと。
「黒瀬君は、妹さんと仲がいいんですね」
詩織が言う。
「うん。陽菜とは、よく話すよ」
怜司は笑った。
「最近は、よくからかわれるけど」
「……ふふ」
詩織も笑った。
「楽しそうですね」
「うん。大切な妹だから」
その言葉に、詩織の胸が温かくなった。
怜司は、家族のことを話すとき、いつも優しい顔になる。
それが、彼女にはとても素敵に思えた。
「……黒瀬君」
「はい?」
「私、家族を大切にしている人って、素敵だと思います」
怜司は少し照れた。
「……ありがとうございます」
詩織は微笑んだ。
そして、少しだけ真剣な表情になった。
「黒瀬君は、将来どんな人になりたいですか?」
怜司は考えた。
「……そうですね」
すぐには答えが出なかった。
以前なら、そんな質問をされても何も思い浮かばなかっただろう。
けれど今は、いくつも願いがある。
家族を安心させたい。
自分の力で生活できるようになりたい。
大切な人を守りたい。
そして、誰かに必要とされる人間になりたい。
「……自分で、自分の人生を選べる人になりたいです」
怜司は静かに答えた。
詩織は目を瞬かせた。
「自分で……?」
「はい」
怜司は微笑んだ。
「誰かに決められたからじゃなくて、自分で考えて、自分で選びたいんです」
詩織はしばらく黙っていた。
そして、ゆっくり頷いた。
「……素敵ですね」
その声には、心からの気持ちが込められていた。
◇
午後。
二人は駅前の小さな公園を歩いていた。
木々の間を、穏やかな風が吹き抜ける。
ベンチには、家族連れや老夫婦の姿があった。
「……今日は、ありがとうございました」
詩織が言う。
「こちらこそ」
怜司は笑った。
「また一緒に出かけたいですね」
詩織の胸が跳ねた。
「……はい」
そして、少しだけ勇気を出した。
「黒瀬君」
「はい?」
「私……」
言葉が止まる。
好きです。
そう言えたら、どれほど楽だろう。
けれど、まだ怖かった。
怜司が自分をどう思っているのか、分からない。
それでも、何も伝えずに帰りたくはなかった。
「……黒瀬君と一緒にいると、すごく落ち着くんです」
怜司は彼女を見つめた。
詩織は続けた。
「学校でも、今日みたいな日でも……」
頬が熱くなる。
「……だから、また一緒にいたいです」
怜司は少し驚いたように目を見開いた。
そして、優しく微笑んだ。
「……僕もです」
詩織が顔を上げる。
「詩織さんといると、無理に何か話そうとしなくても落ち着くんです」
怜司は少し照れくさそうに笑った。
「だから、また誘ってください」
詩織の胸が、温かさでいっぱいになった。
「……はい」
小さな返事だった。
けれど、その声は嬉しそうに弾んでいた。
◇
帰り道。
駅の改札前で、二人は足を止めた。
「……それじゃあ、また学校で」
怜司が言う。
「はい」
詩織は微笑んだ。
そして、ふと手元を見た。
今日買った小説が、紙袋の中に入っている。
怜司も同じ本を買っていた。
同じ物語を読む。
そして、感想を話し合う。
それだけの約束が、今はとても特別に思えた。
「……黒瀬君」
「はい?」
「本、読み終わったら教えてくださいね」
「もちろんです」
怜司は笑った。
「約束です」
詩織も微笑んだ。
「……はい。約束です」
◇
帰宅後。
詩織は自室の机に、今日買った本を置いた。
その隣には、カフェでもらった小さなレシート。
捨ててしまっても構わないものだ。
けれど、何となく残しておきたかった。
「……楽しかったな」
詩織は小さく呟いた。
今日も、告白はできなかった。
けれど、以前よりずっと自然に話せた。
自分の好きなものを知ってもらえた。
そして、怜司も一緒にいる時間を楽しいと言ってくれた。
それだけで、十分に嬉しかった。
スマートフォンが震える。
怜司からのメッセージだった。
『今日はありがとうございました。帰り、大丈夫でしたか?』
詩織は微笑んだ。
『無事に帰りました。黒瀬君も、お疲れさまでした』
少しして、返事が届いた。
『ありがとう。また本の話、しましょう』
詩織は画面を見つめた。
「……はい」
誰もいない部屋で、小さく返事をする。
恋人ではない。
けれど、ただのクラスメイトでもなくなり始めている。
その曖昧な距離が、今は少しもどかしくて。
同時に、とても大切だった。
藤宮詩織の恋は、静かに、けれど確実に前へ進んでいた。




