第101話 小さな宿屋から届いた商談
第101話 小さな宿屋から届いた商談
ルミエールの商業区に、朝の鐘が響いた。
ベルン商会の応接室で、黒瀬怜司は一枚の紙を見つめていた。
「……一週間で、二十個ですか」
「ええ。まずはその程度から始めたいとのことです」
向かいに座るトーマス・ベルンが頷いた。
今日の議題は、宿屋から持ち込まれた新しい商談だった。
先日の試験販売で、日本から持ち込んだ飴を購入した客がいる。その客が経営する宿屋で、客室に置く小さな菓子として使えないかという話が出ていた。
もちろん、怜司にとって初めての継続取引だ。
「宿屋の名前は?」
「《銀の小鹿亭》。商業区の南側にある、小規模ながら評判のよい宿です」
トーマスは資料を差し出した。
部屋数は十二。
主な客は行商人や、近隣の町から訪れる旅人。
高級宿ではないが、清潔さと接客の丁寧さに定評があるという。
「なるほど……」
怜司は資料を読み込んだ。
「でも、どうして飴なんでしょう?」
「旅人は、長旅で疲れて宿へ到着します。部屋に小さな甘味が一つあれば、それだけで気分が和らぐ。宿の主人は、そう考えたようですな」
「……いい考えですね」
怜司は素直に感心した。
豪華な設備を増やすには大きな費用がかかる。
けれど、ちょっとした心遣いなら、小さな宿でも工夫できる。
そして、その工夫に自分の商品が使われるかもしれない。
そう思うと、胸が高鳴った。
「ただし、レイジさん」
トーマスの声が少し真剣になる。
「宿屋への販売は、店頭販売とは違います」
「……はい」
「相手は、決められた日に商品が届くことを前提に、お客様へのサービスを考えます。こちらの都合で品物が用意できなければ、宿の信用にも関わる」
怜司は頷いた。
前回、エリシアにも似たことを教わった。
無理な約束をしないこと。
最初は期間を区切ること。
そして、問題があれば見直せる条件にしておくこと。
「まずは一週間だけ、試験的に納品する形にしたいです」
怜司が言う。
トーマスは微笑んだ。
「私も、その方がよいと思います」
◇
昼前。
怜司とトーマスは《銀の小鹿亭》を訪れた。
建物は大きくない。
だが、入口の木製看板は丁寧に磨かれ、窓辺には季節の花が飾られていた。
「いらっしゃいませ!」
中へ入ると、四十代ほどの女性が明るく迎えてくれた。
「ベルン商会のトーマス様ですね?」
「ええ。こちらが商品の提供者、レイジさんです」
「初めまして。黒瀬怜司です」
「まあ、お若いのね!」
女性は驚いたように目を丸くした。
「私は、この宿を切り盛りしているクララと申します。よろしくね」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
クララは二人を食堂の一角へ案内した。
昼食前の時間帯らしく、客席はまだ空いている。
テーブルには、きちんと洗われた布が敷かれていた。
「実はね、前に買った飴を娘に食べさせたら、とても喜んだの」
クララが笑う。
「それで思ったのよ。うちに泊まるお客様にも、こういう小さな楽しみがあったらいいなって」
「……素敵ですね」
怜司が答えると、クララは嬉しそうに頷いた。
「高いお金をかけて改装することはできないけれど、できることはあるでしょう?」
怜司は周囲を見渡した。
木製の椅子は古い。
けれど、傷んだ部分は丁寧に手入れされている。
壁には旅人向けの案内が掲示され、食堂の隅には荷物を置く棚もあった。
この宿は、限られた条件の中で客を大切にしている。
その姿勢が伝わってきた。
「……僕も、ぜひ協力したいです」
怜司は自然に答えていた。
◇
商談は、トーマスを交えて慎重に進められた。
最初の納品数は二十個。
期間は一週間。
宿屋側は、客室への設置や客の反応を確認する。
ベルン商会は、納品と代金の管理を担当する。
怜司は商品を提供し、品質と供給可能な数量を確認する。
「それから、こちらをお願いします」
怜司は一枚の紙を差し出した。
商品の原材料や保存方法について、トーマスと相談しながら整理した説明書きだ。
もちろん、日本の包装に書かれた情報を、そのまま読める客ばかりではない。
だから、ルミエールの言葉で分かるように伝える必要があった。
「まあ、丁寧なのね」
クララが感心した。
「お客様に食べ物をお出しする以上、必要なことだと思うので」
怜司が答える。
トーマスは満足そうに頷いた。
「この点は、私どもの商会でも確認しております」
「それなら安心ね」
クララは微笑んだ。
「ただ、うちには小さな子供連れのお客様もいるから、飴を置く部屋は選ばないといけないわね」
怜司はすぐに頷いた。
「そうですね。小さな子が誤って喉に詰まらせないよう、注意が必要です」
「ええ。まずは大人のお客様が泊まる部屋から試してみるわ」
その場で、運用方法も決まった。
全室へ一斉に置くのではなく、対象の部屋を限定する。
商品を置く際には、宿の従業員が説明できるようにする。
反応が悪ければ、無理に続けない。
怜司は、その一つ一つをノートに書き込んだ。
◇
「それでは、まず一週間」
クララが手を差し出した。
「よろしくお願いしますね、レイジさん」
「はい!」
怜司はその手を握った。
「よろしくお願いします!」
初めての継続取引。
まだ正式な長期契約ではない。
数量も少ない。
それでも、店頭で偶然買ってもらうのとは違う。
誰かの仕事の一部として、自分の商品が必要とされる。
その事実が、怜司には嬉しかった。
宿を出た後、トーマスが隣で笑った。
「よい商談でしたな」
「はい。すごく勉強になりました」
「何が一番印象に残りましたか?」
怜司は少し考えた。
「……クララさんが、お客様のことを本当に大切にしているところです」
トーマスは目を細めた。
「ほう」
「僕は、どうやったら商品が売れるかばかり考えていました。でも、クララさんは、どうしたら泊まる人が喜ぶかを考えていた」
怜司は続けた。
「その違いが、すごく大きい気がしました」
トーマスはしばらく黙っていた。
そして、穏やかに笑った。
「レイジさん。それは商売の本質に近い考えですぞ」
「……本当ですか?」
「ええ。商品を売ることだけを目的にすると、客の顔が見えなくなる。ですが、相手の役に立つことを考えれば、商売は自然と長続きするものです」
怜司は深く頷いた。
◇
夕方。
ベルン商会へ戻った怜司は、今回の取引を帳簿へ記録した。
予定数量。
販売価格。
商会の手数料。
商品を用意するための費用。
そして、万が一の返品や不良品に備えるための余裕。
「……こうして見ると、利益はまだ小さいですね」
怜司が呟く。
トーマスは笑った。
「最初から大きな利益を求める必要はありません」
「はい」
「ですが、少量でも安定して売れる仕組みができれば、次の展開を考えられます」
怜司は頷いた。
今回は二十個。
もし一週間後に好評だったとしても、いきなり大量に増やすつもりはない。
宿の客数や、実際に喜ばれた割合を確認する。
それから次を決める。
その方が、きっと長く続けられる。
「……楽しみです」
怜司が笑うと、トーマスも頷いた。
「私もです」
◇
夜。
日本へ戻った怜司は、自室の机で帳簿を開いた。
異世界で得た収益は、今のところ異世界での活動資金として管理している。
日本の生活費に使える状態ではない。
けれど、商売を続けるための基礎は、少しずつできてきた。
「……次は、もっと効率よくできるかな」
怜司はペンを動かした。
仕入れ数量を増やした場合。
価格を少し変えた場合。
宿屋のような取引先が増えた場合。
さまざまな条件を書き出してみる。
ただし、机上の計算がすべてではない。
実際に客が買ってくれるかどうかは、まだ分からないのだから。
そのとき、スマートフォンが震えた。
詩織からだった。
『黒瀬君。今度のお出かけ、本屋さんはいかがでしょうか?』
怜司は思わず笑顔になった。
『いいですね。僕も行きたいです』
返信を送る。
少しして、またメッセージが届いた。
『ありがとうございます。楽しみにしています』
怜司は画面を見つめた。
異世界では、新しい商談。
日本では、大切な人との約束。
どちらも、自分が少しずつ築いてきたものだった。
「……明日も頑張ろう」
少年はノートを閉じた。
小さな宿屋から始まった取引が、どこまで広がっていくのか。
まだ誰にも分からない。
けれど、その第一歩は、確かに踏み出されていた。




