第100話 百歩目の先にある未来
第100話 百歩目の先にある未来
朝。
黒瀬怜司は、洗面所の鏡の前で足を止めた。
「……あれ?」
何となく、違和感があった。
顔を近づける。
以前より、輪郭がすっきりしている。
頬の余分な肉が落ち、顎の線が少しずつはっきりしてきた。
姿勢も、自然とよくなっている。
何より、鏡に映る自分の表情が違った。
以前のように、どこか怯えた顔ではない。
目線がまっすぐで、落ち着いている。
「……変わったな」
小さく呟く。
かつての自分は、鏡を見ることが嫌いだった。
太った身体。
自信のない表情。
何をしても上手くいかないと思い込んでいた自分。
けれど、今は違う。
もちろん、まだ理想の姿になったわけではない。
《完全適応》による身体の変化も、今なお進んでいる途中だ。
だが、確かなことが一つある。
自分は、少しずつ前へ進んでいる。
「……お兄ちゃん?」
背後から声がした。
振り返ると、陽菜が立っていた。
「どうしたの?」
「いや、ちょっと鏡見てただけ」
陽菜は兄の顔をじっと見つめた。
「……やっぱり」
「何?」
「お兄ちゃん、またかっこよくなった?」
「……えっ」
怜司が固まる。
陽菜はにやにやと笑った。
「最近、ほんと変わったよね」
「そんなことないって」
「あるよ!」
陽菜は即答した。
「前より背筋伸びてるし、顔もすっきりしてるし」
そして、少しだけ真面目な顔になった。
「でも、一番変わったのは、笑うようになったことかな」
怜司は言葉を失った。
陽菜は笑った。
「今のお兄ちゃん、楽しそうだもん」
その言葉が、胸に温かく響いた。
「……ありがとう」
怜司は優しく笑った。
陽菜も嬉しそうに笑う。
「へへっ!」
◇
朝食の席。
美咲が怜司を見つめながら、微笑んだ。
「怜司、最近本当に元気そうね」
「うん。体調はいいよ」
「無理してない?」
「大丈夫」
怜司は頷いた。
「ちゃんと食べてるし、寝てるから」
正臣が新聞を畳んだ。
「それならいい」
そして、息子を見つめた。
「ただ、頑張ることと無理をすることは違うからな」
「……うん」
「自分のペースで進めばいい」
怜司は静かに頷いた。
「ありがとう、父さん」
美咲も微笑んだ。
「何か困ったことがあったら、ちゃんと相談してね」
「うん」
怜司は家族を見渡した。
父。
母。
妹。
以前は、心配ばかりかけていた。
今も、すべてを話せているわけではない。
異世界のこと。
自分の能力のこと。
そして、そこで経験してきた出来事。
まだ、秘密にしていることは多い。
けれど、家族を大切に思う気持ちは、以前よりずっと強くなっていた。
いつか、自分の力で家族を支えたい。
その思いは、今も変わらない。
◇
聖蘭学園。
教室へ入ると、隼人が元気よく手を振った。
「おーい、怜司!」
「おはよう」
「おはよう!」
蒼真も微笑んだ。
「今日は少し早いね」
「うん。余裕があったから」
怜司が席へ向かうと、隼人がじっと顔を見つめた。
「……なあ」
「何?」
「お前、また雰囲気変わった?」
「……え?」
怜司は思わず苦笑した。
「陽菜にも同じこと言われたよ」
「妹ちゃん、見る目あるな!」
隼人は笑った。
「最近、女子からも結構見られてるぞ」
「……そうなの?」
「気づいてないのかよ!」
隼人が大げさに頭を抱える。
蒼真は小さく笑った。
「見た目もそうだけど、前より自然に人と話せるようになったのが大きいんじゃないかな」
怜司は少し考えた。
「……そうかもしれない」
以前は、人と目を合わせることさえ苦手だった。
何を言われるか怖かった。
笑われるのではないかと、不安だった。
けれど今は、友人と話す時間が楽しい。
それだけでも、大きな変化だった。
「……二人のおかげでもあるよ」
怜司が言う。
隼人が目を丸くした。
「え?」
「蒼真と隼人が、普通に接してくれたから」
蒼真は静かに微笑んだ。
「友達なんだから、当然だよ」
「そうそう!」
隼人が笑う。
「今さら何言ってんだ!」
怜司も笑った。
友達。
その言葉を、こんなにも自然に受け止められるようになった。
それが嬉しかった。
◇
昼休み。
怜司が廊下を歩いていると、澪と麗華に声をかけられた。
「レイジさん」
「黒瀬さん」
「あ、澪さん。麗華さん」
二人は微笑んだ。
「先日はありがとうございました」
澪が言う。
「こちらこそ」
怜司は笑顔で答えた。
「美術館、すごく楽しかったです」
澪の表情が柔らかくなる。
「私もです」
麗華も口を開いた。
「私も、先日のお出かけがとても楽しかったですわ」
「僕もです」
怜司は頷いた。
「また一緒に出かけたいですね」
麗華の頬が少し赤くなった。
「……はい。ぜひ」
澪はそんな二人を見つめながら、穏やかに微笑んだ。
ただし、その胸の奥には、少しだけ複雑な気持ちもあった。
麗華も、怜司のことを大切に思っている。
それは、もう分かっている。
けれど、だからといって友人を嫌いになりたいわけではない。
自分の気持ちも、相手の気持ちも、大切にしたい。
「……レイジさん」
澪が静かに口を開いた。
「はい?」
「また、今度お時間があるときに、お話しできませんか?」
「もちろんです」
怜司は笑顔で頷いた。
澪も嬉しそうに微笑んだ。
麗華はその様子を見つめ、静かに思った。
九条院澪は、やはり強い。
自分の気持ちを大切にしながら、相手への思いやりも忘れない。
だからこそ、尊敬している。
そして、負けたくないとも思う。
けれど、それは相手を傷つけたいという意味ではなかった。
自分も、怜司にとって大切な存在になりたい。
ただ、それだけだった。
◇
放課後。
怜司は図書室へ向かった。
そこには、詩織が待っていた。
「黒瀬君」
「詩織さん」
二人は微笑み合った。
「先日は、ありがとうございました」
詩織が言う。
「こちらこそ」
怜司は頷いた。
「すごく勉強になりました」
「……よかったです」
詩織は少しだけ頬を染めた。
そして、勇気を出して続けた。
「次のお出かけも、楽しみにしています」
「僕もです」
怜司は笑顔で答えた。
その言葉に、詩織の胸が温かくなった。
以前の自分なら、こんなふうに気持ちを伝えることはできなかった。
けれど今は、少しずつ変わろうとしている。
黒瀬君が前へ進んでいるように。
自分も、前へ進みたい。
詩織は静かに微笑んだ。
◇
その後。
校舎を出た怜司は、美月と顔を合わせた。
「怜司!」
「美月さん」
「この前はありがと!」
「こちらこそ」
怜司は笑った。
「すごく楽しかったよ」
美月の頬が赤くなる。
「……そ、そう?」
「うん。また一緒に運動したいね」
「もちろん!」
美月は元気よく答えた。
そして、少しだけ声を落とした。
「……あとさ」
「何?」
「今度の、普通に遊びに行く約束も忘れないでよ?」
怜司は笑顔で頷いた。
「忘れないよ」
その言葉に、美月の胸が高鳴った。
「……よし!」
小さく拳を握る。
まだ、恋愛のことはよく分からない。
けれど、自分の気持ちは分かった。
怜司が好きだ。
だから、もっと一緒にいたい。
その気持ちを、少しずつ伝えていこう。
◇
その夜。
怜司は《界渡り》を使い、ルミエールへ向かった。
ベルン商会での取引について、エリシアに相談する約束をしていたのだ。
ルミナス伯爵家の書庫。
扉を開くと、エリシアが嬉しそうに振り返った。
「レイジ様!」
「こんにちは、エリシア」
「お待ちしておりました!」
彼女は笑顔で椅子を勧めた。
「今日は、商会のお話でしたね」
「うん」
怜司はノートを広げた。
「実は、宿屋から新しい取引の相談があって」
「まあ!」
エリシアの瞳が輝く。
「それは素晴らしいです!」
「でも、まだ正式に決まったわけじゃないんだ」
怜司は説明した。
宿屋が客室用の菓子を探していること。
継続して納品できるかが重要なこと。
そして、数量や価格を慎重に決める必要があること。
エリシアは真剣に耳を傾けた。
「……なるほど」
彼女は少し考えた。
「でしたら、最初は期間を決めた試験取引にしてはいかがでしょう?」
「期間を?」
「はい。例えば、一定期間だけ少量を納品して、宿屋の方にも反応を確かめていただくのです」
怜司は目を見開いた。
「……それなら、いきなり長い約束をしなくて済むね」
「はい」
エリシアは微笑んだ。
「双方にとって、負担が小さくなると思います」
怜司はノートへ書き込んだ。
「……ありがとう。すごく参考になるよ」
「お役に立てたなら、嬉しいです」
エリシアは少し照れくさそうに笑った。
◇
勉強会が一段落した後。
二人は庭園へ出た。
夜空には、無数の星が輝いている。
「……綺麗だね」
怜司が呟く。
「はい」
エリシアは微笑んだ。
「私、この時間の庭園が好きなんです」
二人は並んで歩いた。
しばらく、穏やかな沈黙が続く。
やがて、エリシアが口を開いた。
「レイジ様」
「うん?」
「最近、とても楽しそうですね」
怜司は少し驚いた。
「……そう見える?」
「はい」
エリシアは頷いた。
「以前より、いろいろなことに挑戦されているように感じます」
怜司は空を見上げた。
「……うん。やりたいことが増えたんだ」
「やりたいこと?」
「もっと強くなりたいし、商売も上手くなりたい」
怜司は少し笑った。
「それから、大切な人たちと、楽しく過ごせるようになりたい」
エリシアの胸が、静かに高鳴った。
「……素敵ですね」
「そうかな」
「はい」
エリシアは微笑んだ。
「私も、レイジ様と一緒に、いろいろなことを学んでいきたいです」
怜司は彼女を見つめた。
「……ありがとう、エリシア」
そして、優しく笑った。
「これからも、よろしくね」
エリシアの頬が赤くなる。
「……はい!」
その返事は、夜の庭園に優しく響いた。
◇
日本へ戻った怜司は、自室の窓辺に立っていた。
今日も、たくさんのことがあった。
家族との会話。
友人たちとの時間。
少女たちとの約束。
そして、異世界での新しい挑戦。
かつての自分には、想像もできなかった日々だった。
何もできないと思っていた。
誰からも必要とされないと思っていた。
未来なんて、考えたくもなかった。
けれど今は違う。
自分には、やりたいことがある。
会いたい人がいる。
守りたいものがある。
そして、まだ知らない世界が広がっている。
「……百歩目、か」
怜司は小さく呟いた。
これまで歩いてきた道を思い返す。
つらかった日々。
黒猫を助けたあの日。
神から与えられた力。
異世界での冒険。
そして、日本で少しずつ変わっていった日常。
すべてが、今の自分につながっている。
もちろん、まだ何も完成していない。
商売は始まったばかり。
身体の変化も途中。
恋愛についても、自分の気持ちを十分に理解できているわけではない。
それでも、焦る必要はなかった。
一歩ずつ進めばいい。
昨日より、少しだけ前へ。
その積み重ねが、未来を作る。
怜司は静かに微笑んだ。
「……明日も、頑張ろう」
窓の外には、穏やかな夜空が広がっていた。
少年の物語は、ここで終わらない。
むしろ、本当の意味での自由を手に入れるための道は、まだ始まったばかりだった。
百歩目の先には、まだ誰も知らない未来が待っている。
そして黒瀬怜司は、その未来へ向かって歩き続けるのだった。




