第9話 妻だった
「見えるだけではないのか」
リゼの声は低かった。
「声まで聞こえると?」
「声なのかは分からない。頭の中に意味が入ってくる感じで」
修司の肩に止まっている青い光が、くるりと回る。
『おなじ』
「何が同じなんだ?」
『ちがう。おなじ。ちがう』
「どっちだよ」
光は答えず、修司の指輪へ近づいた。
石の周りを回り、嬉しそうに明滅する。
リゼには声が聞こえていないらしい。
ただ光の動きは見えている。
「普通じゃない?」
「普通の人間は、下位精霊の姿を見ることすら難しい」
「エルフなら見える?」
「感応力があれば。だが声を直接聞ける者は、我々の中にも多くない」
修司は肩の光を見る。
特別なものには見えない。
小さく、無邪気で、少し落ち着きがない。
「こっちの世界では、こういうものだと思ってた」
「お前は、この世界の何を知っている」
「何も」
「なら、なぜ普通だと思える」
「基準がないから?」
リゼは眉間を押さえた。
「頭が痛い」
「傷のせいか?」
「半分はお前のせいだ」
残りの半分は傷らしい。
精霊術を使った後、リゼの顔色はさらに悪くなっている。
「もう休め」
「隠れ家へ移動する」
「その前に、俺がまた消えるかもしれない」
時刻は再転移から一時間を過ぎている。
指輪はまだ警告の光を見せていない。
修司はリュックからノートを出し、時刻と現象を記録した。
「今度戻されたら、結衣の写真を持ってくる」
「しゃしん?」
「姿を紙みたいなものへ残せる。見れば同じ人か分かるだろ」
「そのような魔道具があるのか」
「こっちでも、似たものはない?」
「肖像画ならある」
「写真の方が本人に近い」
リゼの瞳に、期待と恐れが混じった。
何十年も探した相手。
その人生の続きを、修司だけが知っている。
「戻ったら持ってくる。それまでは、俺の知ってる結衣の話をする」
「……頼む」
修司は、何から話すべきか迷った。
高位精霊。
元護衛。
異世界。
そんな言葉と、修司の知っている結衣はあまりにも遠い。
「朝が弱かった」
「何?」
「休みの日は、放っておくと昼まで寝てた」
「ユフィリア様が?」
「寝起きも悪い。起こすと、とりあえず俺の腕を掴んで布団へ引っ張り込む」
「……人違いではないか?」
「俺も今、少しそう思ってる」
リゼが真剣な顔をするので、修司は笑いそうになった。
「甘いものが好きだった。辛いものも好き。料理はできたけど、片づけは苦手」
「あの方が料理を」
「俺の方が作ることは多かったけどな」
「高位精霊へ食事を作らせていたのか?」
「夫婦なら、どっちが作ってもいいだろ」
「夫婦……」
リゼは、その言葉をまだ受け入れきれないようだった。
「どうやって出会った」
「道端で拾った」
「何を?」
「結衣を」
「話す気があるのか」
「本当だよ。最初は小さな結晶だった」
雨の日。
泥の中に落ちていた、曇った結晶。
なぜか放っておけず、家へ持ち帰った。
洗い、磨き、机へ置いた。
一人暮らしの部屋で、返事のない結晶へ話しかけるようになった。
そしてある日、帰宅すると知らない女性がいた。
「結衣は、自分のことをほとんど覚えてなかった。名前も曖昧だったから、俺がつけた」
「ユイという名を?」
「人との縁を結ぶ、って意味で結衣。今思うと、少し気恥ずかしいけど」
リゼは何も言わない。
ただ、目を見開いていた。
「どうした?」
「ユフィリア様が司るものを、知っていたのか?」
「何の話だ」
「縁。結び。魂の共鳴」
森の音が、急に遠くなった。
「あの方の本質だ」
「偶然だろ」
「人間が偶然、高位精霊の本質を名として与えるのか?」
「俺に聞かれても」
修司自身、何も知らなかった。
結衣という名が特別だと思ったこともない。
ただ、彼女に似合うと思った。
それだけだった。
左手が熱くなる。
修司とリゼが同時に指輪を見る。
石が淡く光っていた。
「またか」
時刻は、再転移から一時間十二分。
初回の六倍。
「戻るのか?」
「たぶん」
今度は警告が始まった時点で、少し余裕がある。
「写真を持って戻る」
「シュウ」
リゼが呼び止める。
「もし、そのユイという女性がユフィリア様なら」
「なら?」
リゼは一度、言葉を飲み込んだ。
「いや。写真を見てから話す」
光が強くなる。
小精霊たちが修司の周囲を慌ただしく飛び回った。
『いく』
『かえる』
『またくる』
「ああ。また来る」
修司が答えると、リゼの表情がさらに固まった。
「本当に会話しているのか……」
「だから、そう言ってるだろ」
白い光が広がる。
今度は恐怖より、帰る目的の方がはっきりしていた。
現代へ戻ると、すぐに寝室へ走る。
遺品箱から写真を何枚も取り出した。
結衣が一人で写っているもの。
二人で撮ったもの。
笑っている顔。
怒っている顔。
寝癖のまま睨んでいる顔まである。
写真を選ぶ手が止まった。
「見せていいよな」
返事はない。
それでも、結衣なら少し恥ずかしがった後、きっと笑うと思った。
再転移までの待ち時間は、今度は六時間だった。
修司は写真を防水袋へ入れ、指輪が光るのを待った。
そして三度目の森。
リゼは同じ場所で待っていた。
修司が差し出した写真を、一枚ずつ無言で見る。
最後の一枚へ触れた時、指先が震えた。
「……ユフィリア様」
「同じ人か?」
長い沈黙の後。
リゼは写真を胸元へ抱いた。
「間違えるものか」
声が、泣いていた。
「この方は、ユフィリア様だ」
修司は答えなかった。
言葉にすれば、何かが完全に変わってしまう気がした。
リゼが顔を上げる。
「そして、お前の妻だった」
「ああ」
その一言だけは、迷わなかった。
「結衣は、俺の妻だった」




