第10話 《白銀の守剣》リゼリア
写真を胸に抱いたまま、リゼは長い間、動かなかった。
修司も急かさなかった。
結衣が死んだと告げられた自分に、どんな言葉も届かなかった時間がある。信じるにせよ疑うにせよ、今のリゼには、何も言われずにいる時間が必要だった。
やがて彼女は、写真を壊れ物のような手つきで防水袋へ戻した。
「いつだ」
「二年半前」
「病だったのか?」
「ああ。分かった時には、かなり進んでた」
詳しく話すつもりはなかった。
けれど、リゼが何も挟まずに待っていると、言葉は少しずつ続いた。
「入院して、治療して、一度は家に戻れた。でも長くはなかった。最後は病院で、俺がそばにいた」
「最期に、何か言ったか」
「また会えるって」
あの時は、修司を残していく結衣なりの慰めだと思っていた。
そう思わなければ、いなくなった翌日からを生きられなかった。
「あの方らしい」
リゼの声に、かすかな笑いが混じる。
「自分がどれほど無茶な約束をしているのか、少しも気にしない」
「知ってるんだな、結衣を」
「私が知る名はユフィリアだ。だが、間違いなく知っている」
リゼは背を支えていた木へ手をつき、姿勢を正した。
傷の痛みに眉が寄る。それでも膝を立てようとしたため、修司は慌てて肩を押さえた。
「何してる。寝てろ」
「そうはいかない」
「怪我人が格好つけるな」
「格好の問題ではない」
押し返す力は弱かった。
それでもリゼは譲らず、最後には座ったまま右の拳を左胸へ当てた。
「私はリゼリア・アルヴェイン。エルフ諸侯連合に属する《翠銀騎士団》の元副団長。《白銀の守剣》の名を賜った者だ」
先ほどまでと同じ銀髪の女なのに、声と眼差しが変わっていた。
森の静けささえ、彼女の言葉を待っているように思えた。
「そして、かつて高位精霊ユフィリア様の専属護衛を務めていた」
「専属護衛……」
「あの方がどこへ行こうと、私は剣を持って付き従った。国境にも、魔族領にも、祭りの屋台にもな」
「最後だけ急に平和だな」
「あの方にとっては、祭りの方が危険だった」
リゼが遠い目をする。
「目を離すと消える。知らない者と酒を飲む。人の食べ物を勝手に交換する。池へ落ちた子どもを助けるため、正装のまま飛び込んだこともある」
修司は思わず笑った。
結衣も、旅先ではよくいなくなった。
探してみれば、迷子の子どもと一緒に親を探していたり、店先の犬と遊んでいたりした。
「同じだ」
「そうか」
「困った人を見つけると、後先を考えない。助けたあとで俺に怒られて、それでも次にまたやる」
「同じだな」
二人の間に、小さな笑いが落ちた。
片方は夫として。
もう片方は護衛として。
別々の世界で、同じ女性に振り回されていた。
笑いが消えると、リゼは修司の左手を見た。
「その指輪を、近くで見せてくれ」
修司はためらってから手を差し出した。
リゼは指輪そのものへ触れず、石の上へ指先をかざす。
透明とも乳白色ともつかない小さな石の奥で、淡い光が揺れた。
「やはり、ユフィリア様の波長だ。姿を似せることはできても、魂の響きまでは偽れない」
「これが、結衣のものだって?」
「一部だ。外殻、と呼ぶべきかもしれない。力の中心はここにはない」
「じゃあ、どこにある」
「分からない」
期待が生まれるより早く、答えは落ちた。
「高位精霊の核は、壊れれば消える。だがこれは消滅した欠片ではない。遠くにある中心と、今も細く結ばれているように感じる」
「生きてるのか?」
声が掠れた。
リゼは簡単には頷かなかった。
「そうだと言い切るには弱すぎる。眠っているのか、封じられているのか、それとも別の形で残っているだけなのか」
「それでも、消えてはいない」
「おそらくは」
おそらく。
たったそれだけの言葉が、二年半閉ざしていた場所へ入り込んだ。
修司は左手を握る。
指輪をつけた指ごと、強く。
「探す」
「シュウ」
「いる可能性があるなら、探す。何をすればいい」
「待て。お前はこの世界のことを何も知らない」
「だから教えてくれ」
リゼは口を閉じた。
森の奥で、夜鳥が一度鳴いた。
「私を襲った者たちは、精霊狩りと呼ばれている」
やがて、低い声で告げる。
「精霊を捕らえ、力を削り、魔物や道具へ移す。あの黒い棘も奴らのものだ。私は、その痕跡を追ってこの森へ来た」
「結衣と関係がある?」
「ユフィリア様が消えた頃から、活動が活発になった。偶然とは思っていない」
修司の脳裏へ、銀線の巻かれた黒い棘が浮かんだ。
あれがリゼの身体へ残っていれば、傷そのものを異常化させていた。
誰かが、それを作った。
「まずは、お前を隠れ家まで運ぶ」
「話を聞いて最初に出る言葉がそれか」
「探すにしても、一人じゃ無理だ。案内役に死なれたら困る」
「案内役……」
「嫌なら先生でもいい」
「どちらも不敬だ」
「妻の護衛だった人に、どう敬意を払えばいいか知らないんだよ」
「普通は畏まるものだ」
「今さら?」
リゼが呆れたように息を吐いた。
その時。
修司の指輪が、静かに脈打った。
白い光が二人の手元から広がる。
森の景色は変わっていない。
それなのにリゼの目には、修司の背後へもう一人の姿が重なって見えた。
長い髪。
振り向けば、いつも勝手に先へ進んでいた背中。
懐かしい精霊の気配。
「ユフィリア、様……?」
リゼの唇から、声が零れた。
修司が振り返る。
「何かいるのか?」
そこには、小さな精霊の光が漂っているだけだった。
今のは幻ではない。
指輪の波長とも違う。
修司自身の魂が、遠い場所にいる誰かへ触れ、その残響をこちら側へ返した。
そんな感覚だった。
「いや」
リゼは胸元を押さえた。
失ったはずの主の気配が、まだ温かく残っている。
「今は、まだ分からない」
ただ一つだけ、分かったことがある。
この男を、もう見失ってはならない。




