第4話 夢じゃない
血に濡れた折れた剣が、キッチンの照明を鈍く反射していた。
「……戻った」
修司は動けなかった。
目の前には、開けたままの冷蔵庫。
まな板の上には切りかけの鶏肉があり、床には菜箸が一本だけ転がっている。
森へ行く直前と、何も変わっていない。
変わっているのは修司だけだった。
服には泥がつき、手には乾きかけた血がこびりついている。裸足ではないのに、靴の裏から湿った土が床へ落ちた。
そして、折れた剣。
「夢じゃない」
声に出すと、ようやく身体が動いた。
修司は剣を床へ置く。金属がフローリングへ触れ、重い音を立てた。
「まず、冷蔵庫」
自分でも驚くほど現実的な言葉が出た。
開けたままでは食材が傷む。
鶏肉を皿へ移してラップをかけ、冷蔵庫へ入れる。包丁を流しへ置き、扉を閉める。
そこまで終えてから、修司は両手を流しへついた。
「俺、何してんだ……」
知らない森へ飛ばされた。
若返った。
角の生えた狼がいた。
エルフらしき女性を治療した。
そして、彼女は結衣を知っていた。
並べれば並べるほど、頭がおかしくなったとしか思えない。
けれど足元には、現代のものではない剣がある。
修司は蛇口をひねった。
手についた血が、水に溶けて流れていく。
赤い水を見た瞬間、銀髪の女の顔が浮かんだ。
「戻るって言った」
根拠もなく。
方法も知らないのに。
修司は約束してしまった。
「……絶対戻る」
今度は、自分へ言い聞かせた。
手を洗い終えると、スマートフォンをテーブルへ置く。
時刻を確認する。
転移前から十二分。
森で見た時間と同じだった。
「現代でも時間は進んでる」
当たり前のようで、重要かもしれない。
修司はノートを取り出した。
分からないことがあると、書き出す。
昔からの癖だった。
ページの一番上へ、日付と時刻を書く。
『転移記録 一回目』
一、発生場所は自宅キッチン。
二、結婚指輪の石が発光。
三、異世界と思われる森林へ移動。
四、現代と異世界で時間は同じだけ経過。
五、滞在時間は十二分。
六、帰還前、指輪が三回強く発光。九分経過時点。
七、異世界では身体が二十代相当になる。
八、衣服と所持品は一緒に移動。
九、現地の物を持ち帰ることができる。
十――。
ペンが止まった。
『ユフィリア』
その名だけを、大きく囲む。
「結衣と同じ人……なのか?」
銀髪の女は、間違いないと言った。
髪の色。
目の色。
動物と植物。
確かに似ている。
だが、それだけで同一人物だと断定するには無理がある。
結衣は日本人だった。
少なくとも、修司はそう思っていた。
戸籍があり、仕事をして、税金を払い、スーパーのポイントを貯めていた。
病院にも通った。
葬儀もした。
「異世界の高位精霊でした、はさすがにな……」
口にしてから、折れた剣を見る。
「今日、異世界へ行った奴が言うことじゃないか」
何でもありになってしまう。
修司はスマートフォンで「ユフィリア」を検索した。
似た名前のゲームキャラクターや創作物が出てくるだけで、結衣へつながる情報はない。
次に画像検索。
意味はなかった。
当然だ。
「遺品」
修司は立ち上がった。
寝室へ向かい、クローゼットの奥から段ボール箱を引き出す。
結衣の私物は、かなり処分した。
服も靴も、生きている人に使ってもらえるものは手放した。
それでも、どうしても捨てられなかった物がある。
写真。
手帳。
財布。
小さなアクセサリーケース。
修司は一枚の写真を手に取った。
二人で旅行へ行った時のものだ。
結衣が笑っている。
雨上がりの光が髪へ当たり、黒いはずの髪が銀色に見えた。
「……似てる」
銀髪の女ではない。
彼女が口にした、ユフィリアという誰かに。
修司は写真を裏返した。
結衣の字で、日付と場所が書かれている。
その下。
今まで気にしたことのない、小さな模様があった。
三つの輪が、互いに重なっている。
「こんなの、あったか?」
指先でなぞる。
何も起きない。
手帳を開く。
予定、買い物、仕事のメモ。
普通の生活が並んでいる。
ページをめくるたび、結衣が本当にここで暮らしていたことだけが分かる。
最後の方に、破り取られたページがあった。
「……何だ、これ」
紙が自然に抜けたのではない。
何枚か、意図的に切り取られている。
その次のページには、薄い筆圧の跡だけが残っていた。
修司は鉛筆を探した。
横に寝かせ、紙の上を軽く擦る。
文字が浮かび上がる。
日本語ではなかった。
曲線と点を組み合わせた、見たことのない文字。
その中央に、写真の裏と同じ三つの輪が描かれている。
「結衣」
名前を呼ぶ。
返事はない。
当たり前なのに。
修司はしばらく、薄く浮かび上がった文字を見つめていた。
左手の指輪は、もう光っていない。
その向こうで。
約束した女が、まだ一人で森にいる。




