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亡き妻の指輪で異世界へ――Lv0の四十代、精霊に愛されながら妻の足跡を追う  作者: 翠碧ノ人


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第3話 あと三分しかない

 赤い目は、二つではなかった。


 右に二つ。


 左にも二つ。


 そのさらに奥で、低い唸り声が重なる。


「三……いや、四頭か」


 修司は声に出してから、自分で嫌になった。


 数が分かったところで、状況が良くなるわけではない。


 こちらには重傷者が一人。


 戦える人間は――たぶん、いない。


「逃げろと言った」


 銀髪の女が、修司の腕を掴んだまま告げる。


「聞こえてる。でも無理だ」


「なぜ」


「走って逃げたところで、追いつかれる」


 それもある。


 ただ、本当は。


 ここへ彼女を置いていく自分を、後で許せる気がしなかった。


 修司はスマートフォンのライトを森へ向ける。


 光の中へ、獣が一頭だけ姿を現した。


 先ほど倒れていた巨大な狼よりは小さい。それでも大型犬の倍はあり、額から短い角が伸びている。


 口元は、赤く濡れていた。


「あれを倒した仲間ではない」


 女が掠れた声で言う。


「血の匂いに寄ってきた魔獣だ」


「あんたも血だらけだけど」


「だから置いていけ」


「却下」


「お前は馬鹿か」


「初対面の相手に言われたくないな」


 軽口を返しながら、修司は周囲を見た。


 正面には魔獣。


 背後は大木。右手は緩い斜面になっている。左には倒れた巨大な狼の死骸。


 手元には財布とスマートフォン、菜箸。


「菜箸より財布の方が硬いな」


「何を言っている?」


「俺にも分からん」


 財布を投げつけても、魔獣が死ぬとは思えない。


 スマートフォンはもっと駄目だ。今ここで失えば、ライトも時計も記録手段もなくなる。


 なら、戦わない。


 近づかせない方法を考える。


「あいつら、火を怖がるか?」


「魔獣による。だが、その種は普通の獣より警戒心が強い」


「火がない」


「なら聞くな」


「光は?」


 返事を待たず、スマートフォンのライトを魔獣の目へ向ける。


 獣が顔を背けた。


「嫌がってはいるな」


「その魔道具は何だ?」


「今それを説明してる時間ある?」


 光だけでは止められない。


 魔獣は頭を低くし、今にも飛びかかろうとしている。


 修司は倒れている巨大な狼を見る。


 腹が裂け、周囲には血が広がっていた。


 血の匂いに寄ってきた。


 なら。


「あんた、少しだけ我慢してくれ」


「何を――」


 修司は女の身体へ腕を回した。


 肩と膝の裏を支え、抱え上げる。


「ぐっ……!」


 女が息を詰めた。


「悪い!」


 想像より軽い。


 いや、自分の力が強くなっているのかもしれない。


 考えるのは後だ。


 修司は女を抱えたまま、大木の反対側へ回り込んだ。


 幹の根元には、人一人が横になれるほどの窪みがある。


「ここに隠れる」


「匂いは消せない」


「分かってる。だから、もっと強い匂いを使う」


 女を根元へ座らせる。


 それから地面に落ちていた折れた剣を拾った。


 重い。


 刃は半分から先がなく、それでも菜箸よりは頼りになる。


「お前、まさか戦うつもりか」


「違う」


 修司は狼の死骸へ駆け寄った。


 折れた剣を血溜まりへ差し込み、近くに落ちていた外套の切れ端へ血を染み込ませる。


 魔獣が走り出した。


「シュウ!」


 初めて名前を呼ばれた。


 教えた覚えはない。


 たぶん、さっき自分で口にしたのを聞いていたのだろう。


 修司は血に濡れた布を斜面の下へ投げた。


 同時に、スマートフォンのライトを点滅へ切り替える。


 暗闇の中で白い光が激しく瞬いた。


 先頭の魔獣が足を止める。


 後ろの一頭とぶつかった。


「今だ!」


 誰へ言ったわけでもない。


 修司は大木の陰へ飛び込んだ。


 魔獣たちが吠える。


 一頭は血の布を追い、斜面を下った。残りも巨大な狼の死骸へ鼻を向ける。


 完全には騙せない。


 それでも、こちらへ来るのは止まった。


「……成功?」


「声を出すな」


 女の手が修司の口を塞いだ。


 細い指は冷たい。


 二人で息を潜める。


 肉を噛み裂く音が聞こえた。


 修司は目を閉じた。


 獣が食事を終えるまで、どれくらいかかるのか。


 その前に別の魔物が来ない保証もない。


 左手が熱くなったのは、その時だった。


「……指輪?」


 小さな石が、一度だけ強く光る。


 少し間を置いて、二度目。


 そして三度目。


「さっきより強い」


「何が起きている?」


「分からない。最初も、こいつが光ってここへ来た」


 スマートフォンの時刻を見る。


 家にいた時から九分が経っている。


 数字を見た瞬間、嫌な予感がした。


「もしかして……あと三分?」


「何の話だ」


「俺がここにいられる時間」


 女の表情が変わった。


「戻るのか?」


「分からない。でも、たぶん」


「なら今すぐ行け」


「だから、あんたを置いて――」


「違う」


 女は修司の左手を掴んだ。


 指輪を、食い入るように見る。


「お前の妻について答えろ。名は?」


「神谷結衣」


「ユイ……」


 知らない名を口の中で確かめる。


「髪は?」


「黒に近いけど、光に当たると銀っぽく見えた」


「瞳は」


「本人は灰色だって言ってた。俺には青にも見えたけど」


 女の呼吸が止まる。


「動物にやたら好かれてた。植物を育てるのも上手かった。運動神経も、今思えば少しおかしかったな」


「……間違い、ない」


 掠れた声だった。


「何が?」


「お前の妻は――」


 言葉の途中で、視界が揺れた。


「待て」


 足元の感覚が消える。


 修司は反射的に女へ手を伸ばした。


 指先が触れる。


 けれど、掴めない。


「シュウ!」


「必ず戻る!」


 約束できる根拠などなかった。


 それでも、そう叫んだ。


 白い光が森を塗り潰す。


 次の瞬間。


 修司は、自宅のキッチンに立っていた。


 右手には、血に濡れた折れた剣を握ったまま。

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