8 星空の記憶
その日はコーレリアの言う通り、タランに無理をさせないだけの範囲を進んだ。日が沈みかける前、サフラス川の緩やかな岸に近い大きな木の下で馬車を止める。
コーレリアがタランとペルシュに水を飲ませるため、川に連れて行く。
カッツォは乾草を一束投げ下ろし、もう一束の縄を解いて荷台に敷きつめるように広げた。ランタンに火を入れて横木に吊るす。
ドレとミザリー、イヴェットはそれぞれに食べ物を取り出し、ランタンが幌を照らすのを見上げる。
ミザリーは何か四角いものを手にしている。今日は力を使っていないからか、食べる量は少ない。ドレは裂いた干し肉を齧り、イヴェットは干し魚やパンを食べていた。そのそばにシュロがのんびり伏せている。
戻ってきたコーレリアは、馬に乾草を食べさせる。それから車輪を覗き込み、傷や痛みがないかを確かめた。
二人がかりであっという間に作業が終わる。
「コーレリアさんはよく旅をしてるんですか?」
「旅はしませんが、騎士は野営訓練があります。補給部隊も経験しますから、馬車の扱いにも慣れているんです」
「コーレリアさんは、護衛に、騎士に……何でもできるんですね」
カッツォは手袋を取り、乾いた汚れを払った。
「私と兄は幼い頃から訓練を受けていますからね」
「ヴァルス家は昔から騎士団長になる家系なんだよ」
作業を終えたカッツォとコーレリアに、ミザリーがさっき食べていた四角いものを渡した。外側は硬いが口に入るとすぐに崩れていく。甘い焼き菓子のようだ。
一口齧った後カッツォはそれを半分に割って、片方をイヴェットにあげた。
「じゃあ、お姉さんが次の騎士団長になるんだね」
焼き菓子に喜びながらイヴェットが言うと、コーレリアが振り向いた。
「イヴェット。……そうですね……試しに、今度は姉様と呼んでみてください」
「姉様?」
コーレリアは深く考え込んだ。イヴェットは首を傾げた。
シュロは声を出さずに、大きな欠伸をした。
話があると言われ、カッツォはコーレリアについて行った。馬車から離れ、草地に入る。
「お姉さん……姉様……?」
立ち止まったコーレリアは、まだイヴェットにどう呼ばせるかを考えているようだ。
「あの……」
「私には兄しかいないものですから。ミザリーにも何度か教えたのですが、コーレリアとしか呼びません」
この話をするために呼ばれたわけではないと思うが、コーレリアがふざけているのか本気なのかがわからない。
「……良ければ、俺も姉さんと呼びましょうか?」
「えっ……ええ?」
思いの外、コーレリアは本気で受け取ったらしく、カッツォをまじまじと見返してくる。
「……では、姉」
「冗談ですよ」
カッツォが困ったように笑うと、コーレリアは小さく咳払いをする。大真面目な人でもないらしい。
「……そんな話をするために呼んだのではありません。カッツォ、護衛術の訓練をしてみませんか?」
「訓練……ですか?」
「この旅の間は私が護衛を請け負いますが、覚えて損はありません。商人としても自分の身を守れますし、護衛もできると言えば、見習いの間も仕事が取りやすいのではありませんか?」
「……ファムリアの騎士団長に教わったなんて言えば、一生話し相手に困りませんよ」
「一度やってみましょう」
冗談だと言う前に、コーレリアに先を越された。
腰のベルトから短剣を抜き、柄をカッツォに差し出す。
「持ってください」と手に握り込まされる。
「ま、待ってください。こんなの、危ないですよ」
太く短い柄に巻かれた革が手のひらに引っかかる。先細りの両刃は鋭く、触れれば血が出そうだ。
「では、鞘はつけておきましょう。あなたが勝ったら当然、訓練の必要はありません。私が勝ったら、私のことを姉上と呼んでもらいます」
「姉上?!」
思わず、短剣を握る両手に力が入る。
「いや、俺がコーレリアさんに勝てるわけないじゃないですか。そんな条件は飲めませんよ」
「私は剣を持ちません。ここから動きません。一度しか攻撃をしません。私を三歩以上歩かせたら、あなたの勝ちです。どうですか?」
カッツォは一度、息を吐いた。
「……三歩、ですね」
短剣を握り直す。
コーレリアが頷いた瞬間、踏み込み、腕を伸ばす。歩かせればいいのなら、体勢を崩せばいい。当てないように短剣を振る。
避けたところを押すか引っ張る――その瞬間、手首を掴まれた。
足が、地面を離れる。
「――っ」
気付いた時には、視界が反転していた。
背中が地面に落ちる。息が詰まる。
「はい、終わりです」
短剣は奪われ、コーレリアの手の中にある。
どこにも痛みはない。心臓だけが大きく音を立てている。
「……一歩も動かしてないじゃないですか」
コーレリアは短剣をしまうと、カッツォの手を取って引き起こした。
「本当に呼んだ方がいいんですか?」
「冗談ですよ」
コーレリアは笑う。
「訓練は本気です。“守るべきものを、守るべき時に守る。平和でも常時訓練!” ……これがヴァルス家の家訓です」
コーレリアの緋色の瞳はやる気に満ち、輝いている。
(守るべきものを……)
タランと、馬車を見る。ファムリアの騎士に護衛術を教わるなんて、もう二度と起こりっこない。数日くらいやってみるか、とカッツォは思った。
ドレたちは荷台の縁に腰掛け、干し肉を噛みながら、薄闇の中のカッツォとコーレリアを眺めていた。
「カッツォが剣の訓練をしているのか?」
「コーレリアはね、訓練が大好きなんだよ。みんな、コーレリアが騎士団長になったら大変だって言ってるんだ。南オルミスには騎士団長みたいな人っている?」
ドレは少し間を置いて言った。
「……騎士団と呼ばれる組織はない。相当するのは近衛隊長だろう。ラルハイン・アンデロスという人物だ」
「その人にも会ったことないの?」
「昔会ったような気がするが、よく覚えていない」
「会わない人のこともちゃんと知ってるんだね」
「……ダリウスが私に覚えさせたんだ。王子ならば知っていて当然の知識だと言ってな」
「そっか。ダリウス君は小姓って言ったよね。教育係ってことなら、コーレリアみたいな感じ?」
「違う気がする。……イリウスなら近いと言えるか」
「イリウス?」
「ダリウスが私付きの小姓で、弟のイリウス、マリウスがいる。その母親が乳母のミリアンだ」
「へー、みんなドレ君のお友達?」
「小姓だと言っているだろう。奴らは同じ顔で、同じ髪型をしていて、背の丈だけが違う。長男のダリウスが一番背が低くて、三男のマリウスが一番背が高い。イリウスが一番しっかり者だ」
「へー、会ってみたいな」
ドレはしかめっ面のまま、時々得意げに笑った。
イヴェットは、シュロに囁く。
「シュロ、大変! ドレお兄ちゃんとお姉ちゃんが、仲良く話してる!」
「別に話すくらい、なんだって言うのさ」
「……シュロも褒められたいの? 犬なのに話せてすごいよ!」
イヴェットが水に浸してあった干し肉を割いて、シュロの口に入れる。シュロは舌舐めずりをしながら、それを味わった。
「乾草って良いにおいだね」
「シュロ、こっちにおいでよ」
イヴェットとミザリーが、荷台の寝床にはしゃぐ。
「交代で見張りをしましょう。先に寝てください、夜明け前、少し早めに起こしますので」
「わかりました」
カッツォは寝場所を選び、草を踏んで馴らす。二枚の布を敷いてドレを呼んだ。
「寒くないか?」
「大丈夫だ」
いつも布か外套に包まってすぐに横を向くドレが、上を向いている。
「外にいる方が明るいな……」
大きな木の枝葉が屋根のように広がっている。その枝の隙間に光る星々を見つめている。
「今夜は雲がないからなあ。ファムリアの人たちってさ、星空をセレニアの髪って呼ぶんだよ。こんな日はセレニアの加護があるんだってさ」
川の水が時々、流れを変える音。規則正しいようで、そうでもない。
タランはいつものように草を喰み、たまに鼻を鳴らしている。
耳を立て、手綱を揺らしているのはペルシュだろう。
「……その話……昔、聞いたことがある」
しばらくして、眠ったかと思っていたドレが呟く。
「……ソラミルさんに? それか……ダリウスさん?」
「違う。誰か……母上か……姉上か……。庭園にいる時だった……」
(姉上……マリージア王女……?)
ドレは目を瞑っている。
「城の真ん中にある高い塔。それが私のいた場所で、ルミールの塔という。塔の上には庭園……セレニアの像がある。誰かが幼い私に、その話をした……」
「へえ、塔の上に庭園かあ。なんでわざわざそんなところに?」
「ルミール王妃が、北オルミスを想って建てたそうだ。これはダリウスに聞いた気がする」
ルミールは、南オルミスの最初の王妃の名前だ。
子どもの頃に教わり、本も読んだことがある。
――“今は北オルミスという名前の北大陸の国が、ただオルミスと呼ばれていた頃。海賊に城下町を占拠された事件があった。海賊を撃退したのは、英雄トライロス・ルペッサン。彼は褒美にルミール王女との結婚と、巨大大陸の新しい国を与えられた。”
南オルミス城のルミールの塔――新しい土地で故郷を懐かしみ、海を見つめる王女の姿が思い浮かぶ。
「じゃあ、海の向こうの北オルミスが見えるんだな。いっぺん見てみたいもんだなあ」
「見えたのは海だけだったと思う。見せたいが、庭園にはもう、入れない。……封鎖されているからな……」
ドレは目を開け、大きく息を吸った。
「母上が、そこから落ちて亡くなったために……」
「え……カルラ王妃は、病気じゃなかったのか?!」
カッツォは、思わず半身を起こした。
「私を産んで御病気になり……そのせいで、そんな事故が起こったのだと言われている」
「言われているって……」
誰に、と思わず言いそうになる。だが、ドレの表情を見て言葉を飲み込んだ。
(星空の話は良い思い出だろうに……)
「ドレ……無理に話さなくてもいいよ」
「……話したいと思っていたことだ。こんな話を聞きたくもないだろうが……」
「……王家の噂話ってのはなあ。好きな奴もいるけどさ。俺はあまり興味はなかったな……」
「……」
「でも、今は違うよ。ドレの話は、俺にも関係あるからな」
ドレは布を引き寄せ、いつものようにくるまって背を向けた。
「もう寝る。見張りをするのに、長話をして悪かった」
「……おやすみ」
肘枕でドレを見ていたカッツォも、寝転がって目を瞑った。
(……おかしいよな……色々と……)
王妃が死んだ塔にいた。
小姓に見張られていた。
(なんだって、そんな……)
自分を産んだせいだって――?
カルラ王妃が亡くなったのは十年前――ドレは四歳で、アルフレッド王子たちは今のカッツォと同じくらいの歳だったはずだ。
「厭われているんだよ」という、ドレの言葉。
アルフレッドの、視線すら合わさない冷たい表情を思い出す。
会えないと怯えるドレの表情。
「そんなの変だよ」というミザリーの声。
(……)
カッツォは考えるのをやめた。
王家が考えることなんて、庶民にはわかるはずもない。
ソラミルの言葉を思い出す。
(理解は感情を抑える……。ソラミルさんは、どう思ってたんだろう……)
川の音に混じるドレの小さな寝息を聞きながら、眠りについた。




