3 アンズィルの瞳
「イヴェットが目覚めていると、できない話があるからね」
欠伸のあと、シュロは足で耳の後ろを掻いた。
「シュロがイヴェットを眠らせたの?」
「そうだよ」
「良かった、眠っただけで。倒れたのかと思ったよ」
カッツォは大きく息をつき、椅子にもたれかかった。
ドレが見ているのに気付くと気まずそうに笑った。
「ミザリー、君が言ったように僕は精霊だ。でも今は犬のシュロ。もう僕の本当の性質は思い出せない」
「別の精霊だったのに、シュロになってるってこと?」
ミザリーはシュロの前にしゃがみ込み、首を傾げる。黄色い瞳が小さな琥珀色の瞳を覗き込んだ。
「違うよ。いいかい、これはイヴェットに聞かせたくない話じゃなくて、イヴェットが目覚めているとできない話なんだ。だから今話すことをよく覚えておいて」
「何が違うの?」
「僕が秘密にしたいわけじゃない。でも僕たちの会話はイヴェットの無意識のうちに遮断される。だから話したくてもできないんだよ」
「無意識にって……どうして?」
「イヴェットという存在には、犬のシュロが必要なんだ。だから僕が強制的にその役を負ったってわけ。シュロがいないと、イヴェットの記憶に乖離が起きて、イヴェットとして保てなくなってしまうんだ」
ミザリーは頷いたが、カッツォとドレはさっぱりわからないという顔をしている。
「君たちがわからなくても別に困りはしないんだけど」
シュロはカッツォの足元に歩いてくると、座り込んで尻尾を振った。
「……君はいつもタランといる。それって君にとって、当たり前のことだよね?」
「何で知ってるんだい? その通りだよ」
「じゃあ、何が起きたかわからないけど急に知らない場所にいて、隣にいたはずのタランがいなかったらどうする?」
「そりゃあ、びっくりして探し回るよ」
「そうだろうね。そして君は、なんでタランがいないんだ? 何が起こったんだ? って考える。でも、タランがいたらどう? とりあえずは落ち着くはずだよ」
「はあ……まあ、そうかもしれないな。まずタランの飯の心配をしなきゃならないし」
「イヴェットにシュロが必要っていうのはそういうことさ。わかったかな?」
カッツォは隣で机に倒れているイヴェットを見た。寝息で肩がわずかに揺れている。
「なんとなく……?」
「それで、僕はイヴェットを本当のシュロのところに連れて行かなきゃならない。アンズィルのところにね。イヴェットはね、アンズィルを封じるために、セレニアから取り出された記憶の一部なんだ」
「じゃあ、イヴェットがここにいるってことは、封印は解けちゃったんだね」
「わからない。僕は今セレニアと遮断されてて、直接行ってみないと。ただの犬になっても困るから、君に頼みに来たんだよ」
「そっか。そういうことだったんだね。わかったよ!」
ミザリーがスッキリしたように返事をした。
ドレと目が合ったが、戸惑っているように思える。
「……ごめん、さっぱりわからない」
カッツォは肩をすくめる。
シュロは長い舌で鼻をべろんと舐め回した。
「まあ、この話はミザリーがわかればいいよ。僕の役目は終わり。これで、いつ喋れなくなってもいいや」
そう言って、満足そうな顔をして、どすんと床に寝そべった。
「他にも何か教えてくれるって言ってなかった?」
「さっき言ったろ。ケンシーがアンズィル化したってこと」
「あれはアンズィルの力なの?」
ミザリーは目を輝かせてシュロに迫った。
「そうだよ。アンズィルを君たちの言葉にすると、“非承認“。セレニアの世界が存在することを認めない、それがアンズィルという大精霊だ」
「存在を認めない……?」
ドレの瞳がかすかに揺れた。
「じゃあ、ストラヴィルは?」
「あれは君たちが生み出したんじゃないか」
シュロは前足をぐっと伸ばしてから、重たい体を横に倒し、ごろんと腹を見せた。
「俺たちが?」
「ああ、カッツォはちょっと違うけど。ドレとミザリーのことさ。ミザリー、君はオーネット家の人が生きているように願ったね」
「うん、願ったよ」
さも当たり前のことのように、ミザリーは明るく答えた。
「そしてドレ。君は、世界の終焉を願った」
「……」
否定せず、ドレは少し視線を落とす。
「ケンシーはアンズィルになって生気を使い果たした。精霊として形を成さずに、散り散りになって漂っていた。
そこにドレが来て生気を与えたから、破滅の精霊ストラヴィルが生まれたんだよ」
シュロが喋ってしまうのを、カッツォは止める間もなかった。
「私が……?」
「そうさ。ミザリーは生気を与えないからね、願いだけが作用してるんだ」
「ストラヴィルが言ってたよ。ドレ君のおかげで生まれたんだって!」
ミザリーがあまりにあっけらかんと言うので、ドレは困惑してカッツォを見た。
「あー……どうも、そうらしいよ」
「……」
「大事なことらしいけど、誰も責めてるわけじゃないよ……たぶん」
「でもボクは、ドレ君の願いを取り消そうと思ったんだけどな」
「破滅の力は抑えられているよ。でもストラヴィルは人間の体を持っているから、ストラヴィル自身に意思があるんだ。だから君の言うことを簡単には聞かないよ」
「じゃあ、どうすればいいんだろう」
ミザリーは腕組みをして、椅子に深く座り込む。
すると、カッツォが言った。
「さっきの箱を使えたらいいのになあ。精霊を閉じ込められる箱ってやつをさ」
「そっか! 閉じ込めちゃえばいいよね」
「……しかし、本物の箱の行方はわかっていないだろう。本物どころか、偽物でさえ」
「そうだよな。やっぱり無理かあ」
カッツォは頭の後ろで手を組み、難しい話ばかり聞いて疲れた体を、大きく伸ばした。
「探してみようよ! 他の方法がわからないし」
「じゃあ、探すとして……どこを探せばいいんだい?」
「……あれが使えるかもしれない。イグニーズが箱を持ち去ったことがわかったのだから、何か過去の記憶を見て辿れば……」
「あ、あの黒い玉?」
ドレとミザリーがカッツォを見る。
カッツォはポケットにしまっていた、黒い線が揺蕩う琥珀色の玉を取り出した。
すると、シュロが机の周りを歩き始めた。しかし、喉の唸りとはまったく違う声で言った。
「これは“アンズィルの瞳”だよ」
「アンズィルの瞳……?」
「上空に一つ。精霊とセレニアの接続を遮断している。君の手元に一つ。この世界の記憶に接続してる。君たちが考えている通り、これを使えば過去に起きたことを知ることができる」
三人はカッツォの手のひらにある、黒い玉を見つめた。黒い揺らぎの向こう、光に透ける琥珀色はシュロの瞳に似ていた。
「牙や爪とは違って、ただそれだけのものだ。アンズィルがどういうつもりかわからないけど……使っても影響はないと思うよ」
「これもアンズィルの力……」
「なんだか、とんでもないことが色々と起きてんだなあ。ドレに会ってなきゃ知りもしないで暮らしてたかと思うと、変な気分だ」
「あの時別れないで良かったね。二人がいたから色々なことがわかってきたよ」
「じゃあ、必要な話は終わったからイヴェットを起こすよ……くわあ〜」
シュロは大きな欠伸をした。
ぱち、とイヴェットの瞼が開く。体を起こし、辺りをきょろきょろと見回した。
「あれ……?」
ミザリーたちのところにいたシュロが、イヴェットの方へ歩いていく。シュロを見つけた途端、イヴェットにほっと安堵する表情が浮かんだ。
「シュロ! 私、寝ちゃってた? 難しいお話聞いてたら眠くなっちゃったのかな……」
イヴェットも欠伸をして目を擦る。
「三日も寝てなかったんだから、眠かったんだよ」
「お姉ちゃんたち、お話終わっちゃった?」
「大丈夫だよ、イヴェット。外に出て、遊ぼっか!」
ミザリーの言葉を聞いて笑顔が浮かぶ。
「うん!」
ハンドレッドはカッツォと本を棚に戻しに行った。ミザリーが書庫番に鍵を返し、図書館を出る。
「おいで、シュロ!」
イヴェットが広場に駆け出し、ミザリーも一緒になって走っていく。
「……犬をやるのも大変だよ」
シュロはカッツォとハンドレッドにだけ聞こえるように言うと、嬉しそうにしか見えない走り方でイヴェットとミザリーを追いかけていった。
「はあ……」
カッツォは疲れ切った顔をしている。しかし、ハンドレッドに顔を向けた時には笑顔を浮かべていた。
「もう昼過ぎだ……腹が減ったなあ。何か食べよう」
広場に面したパン屋でカッツォがパンを買い、広場に置かれている長椅子に座った。
町に漂う紙とインクのにおいは、塔の自室のにおいに少し似ている。石造りの建物は塔の壁と同じで、アルストルは自室が広くなって町としてあるような場所だと、ハンドレッドは思った。
「疲れたかい?」
「……少し」
差し出されたパンを受け取る。昨日食べたパンと違って、剣のように長い。カッツォが齧りついたので、それを真似した。硬くて食べにくい。なんとか引きちぎって噛んでいると、口の中に甘みが滲む。
「ドレはすごいな。あんな難しそうな本が読めて、内容もわかって。やっぱり庶民とは、生きている世界が全然違うんだなあ」
「……あの本はソラミルがよく読んでいるからな。それで私も読み慣れているだけだ」
【精霊学】はハンドレッドにも難しすぎる本だった。わからない言葉があっても、ダリウスもわからないと言う。
ソラミルが訪れる日を待って教えてもらうしかない。けれど、ソラミルが知らないうちに、同じ話ができるようになって驚かせたかった。
何度も何度もページをめくっていると、ソラミルがいない日も、ソラミルの言葉が聞こえるような気がしていた。
――最近になってようやく、本の内容が少しずつ理解できるようになってきた。
「……約束の一つは、“勉強すること”だ」
「ソラミルさんとの約束か。王子と領主の息子だもんな」
「……ソラミルは、ただ勉学をしろと言ったのではないんだ。物事を知り、なぜ現在がこうなっているのかを理解すること。……理解は感情を抑える。たとえその理由に対処できなくても」
「へえ……えらいことを言う人だなあ」
軽い相槌を打つカッツォの顔に、ほんの少しだけ困ったような笑みが浮いていた。
雇われ人のくせに――ハンドレッドがそう言った時に、同じ表情をしていたことを思い出す。
(……だめだ。重要なことを言わずにいるから伝わらなくなる……)
ソラミルとの約束を守りたい。守るのを手伝ってもらいたい。けれど――カッツォは知らない。ソラミルと違って、きっと何一つ知らない。ハンドレッドが自分で話さなければ、カッツォには何もわかるはずがない。
――話さなければ。
握りしめたパンの表面が割れてこぼれる。
「……ソラミルは私のために城へ来てくれていた。本を持ってきて、私に読み書きを教えた。私には勉強が必要だと言った。今の私があることにはたくさんの理由があるから、感情に飲まれず考えなければならないと……」
「……」
今度はカッツォが少し頷いたので、正しく伝わっているように思う。
カッツォの薄い茶色の瞳が、ハンドレッドに穏やかな眼差しを向けている。ソラミルは深い茶色の瞳。似ているようで似ていないけれど、どちらの瞳にもハンドレッドが映る。
ハンドレッドは一度深呼吸をして、言った。
「私のせいで……母が死んだ。それは間違いだということが……わかるようになると」
カッツォは少し目を見開いた。
(あ……)
言ってしまった後で、やっぱり後悔する。
(ソラミルがそう思っているというだけなのに……)
呼び起こされる記憶は、頬を掠める剣。
美しい剣技を賞賛されていた姉王女マリージアの切先が、力任せに振るわれた。ハンドレッドの頬に薄らと赤い線を引いて硬い地面に突き刺さる。乳母がしがみついて止めなければ、その地面は再び赤く染まっていただろう。
――あなたのせいよ! ハンドレッドのせいでお母様は……!
泣き叫ぶ声が、塔を囲む壁に反響する。
第一王女マリージアが間違っているなんて、城の誰も思わない。壁の向こうから幾つもの目が塔を見つめ、小さな声で囁きあっている。あれが“王妃を殺した王子”だと。
「……カルラ王妃……」
呟かれる名前に、ハンドレッドの心臓は痛むほどに縮んだ。
暑くもないのに、汗がこめかみを伝い落ちる。
カッツォの沈黙に耐えきれず、目を瞑った。
「……俺も、ドレと一緒に勉強した方がいいみたいだなあ」
ため息をつきつつ、カッツォは言った。
「……え……?」
「……今まではさ、噂でしか知らなかったんだよな。第三王子は生まれてもいないなんて言われててさ。でも、今こうして俺の横に座ってるんだから……どの噂も間違ってたってことなんだよ。
なんでカルラ王妃が死んだのかなんて、庶民の俺にはちっともわからないけどさ。それがソラミルさんとの約束なら、俺も考えてみるよ。そのためには、俺も勉強しないとな」
ハンドレッドは呆然とカッツォを見つめ、パンに齧り付いた。パンを食べる、ただそれだけのことにすら、こんなにも苦労する。さっきは甘かったはずなのに、今はしょっぱく感じた。
「大丈夫か? アルストルのパンってさ、硬くて食べるの大変だよな」
歯で引きちぎるのに苦労しながら、カッツォは笑った。




