2 【精霊学】オーネット家の精霊の章
「お姉ちゃん、シュロはただの犬だよ。私が生まれた時から一緒にいたんだ。ねえ、シュロ?」
イヴェットはシュロの背中を撫でた。
「あれ? おかしいなあ……」
「……」
ミザリーはしばらくシュロの小さな琥珀色の瞳をじーっと見つめていた。
「まあいっか! この子たちのことはボクが調べるから、あまり騒がないであげて。教えてくれてありがとう!」
ミザリーは学生たちと別れて、イヴェットとシュロを中庭の向こうにある建物に連れて行った。
本があちこちの机に積み上げられていた。棚には巻物も混ざっている。巻物を広げて話し合う人や、本を別の本に書き写す人で賑わっている。
「わあ……図書館だ!」
イヴェットは嬉しそうに、小さく飛び跳ねた。それから困った顔をした。
「お姉ちゃん、シュロをどうしよう?」
「どうしようって?」
ミザリーが首を傾げる。
「シュロを連れて入れないから。中庭にいさせた方がいいと思うけど、ちょっと心配だから……」
「大丈夫さ。この世界では犬が問題になったことがないんだから」
シュロが素知らぬ顔をして、図書館の中に入っていく。
中にいた人々が王女と動物に気付き、ざわめいた。
ミザリーは騒ぎに顔を上げたカッツォとドレの姿を見つけ、手を振った。
「部屋を借りた方がいいかもね」
ミザリーはカウンターへ行って、鍵をもらってきた。
移動すると言うと、カッツォは分厚い本を五冊重ねたまま軽々と持ち上げた。ドレは似ている本を一冊抱えていた。
優しいお兄ちゃんがいていいなあとイヴェットは思った。
「何かわかった?」
小さな会議室のような部屋の机に本を置いたカッツォに、ミザリーが聞いた。
カッツォは困ったように笑い、肩をすくめる。
「ごめん、俺も仕事で使う字なら読めるんだけど。ドレが頑張って探してくれてるよ」
「読んだことがあるが、何巻だったか覚えていないんだ」
ドレは眉を寄せ、指先を止めずにページをめくっている。
イヴェットはドレの横へ行って、本の中をそっと覗き込んだ。細かい字で書かれている難しそうな本だ。
「ドレお兄ちゃんって頭がいいんだね」
イヴェットが近くにいたことに気づかなかったのか、ドレがびっくりして飛び退いた。椅子から落っこちそうになって、カッツォの手に支えられる。
「お兄ちゃん……?!」
「兄様のことだよ。ドレ君はね……アルフレッド君たちのこと、兄上って呼んでそうだよね!」
ミザリーが言うと、
「……な、なぜ私をそう呼ぶ……?!」
目を丸くして、引きつった顔でイヴェットを見た。
「嫌だった? ごめんなさい」
「あー……たぶん、ドレは年下の子と話したことがなかったんだ。大丈夫だよ、そう呼んでも」
カッツォは椅子から降りると、イヴェットの方へ来て、抱っこしたイヴェットを壁際の低いベンチに座らせた。
「イヴェットは何歳?」
「九歳! カッツォお兄ちゃんは?」
「俺は十七歳だよ」
「えっ」と、またドレが驚いた声を上げる。そして、「……なんでもない」と言い、本を読む作業に戻った。
「ミザリーお姉ちゃんは?」
「十四歳。ドレ君も一緒だよね!」
「……」
ドレは視線を落としたまま無言で頷く。
手持ち無沙汰にしているカッツォは、イヴェットに言った。
「じゃあさ、イヴェットが読めそうな本を探しに行こうか」
「うん!」
「あと、犬が読めそうな本は……」
暇そうに寝そべっているシュロを見て言う。
「僕もイヴェットも字は読めないよ。犬じゃなければ、読めたんだけどね」
「じゃ、子どもの本だな。それなら俺も読んであげられるから」
カッツォはイヴェットを連れて、閲覧室を出て行った。
「……」
「カッツォ君は子どもに好かれるんだね」
「……私が子どもだと言っているのか?」
ドレは、ミザリーなんかと話している暇はないと思いながら返事をした。
「ふふ。ドレ君はカッツォ君が好きなんだね」
「!」
カッツォが有名な童話を手に戻ってくると、ミザリーとドレが言い合いになっていた。
「ちょっと目を離しただけなのに、どうしてすぐ喧嘩になるんだ。ミザリーとドレは!」
と、カッツォが止めに行く。
カッツォはみんなのお兄さんなんだなあ、とイヴェットは思った。
「むかし、人はみんな一つの町に住んでいました。
アルソリオという、かべにかこまれた白い町。食べものも服も、精霊が出してくれました。
でも、本当はみんな何かをやりたかったのです。料理をしたい人。服を作りたい人。本を書きたい人。何かをやりたい人たちが集まってオルミスという国を作りました。
アルソリオに生まれたファルトーソーという少年は、オルミスにあこがれていました。ファルトーソーは草花を調べるのが好きでした。
食べられる草。ねむくなる草。ねむれなくなる花。
ファルトーソーが見つけたものは薬になりました。
しかしある時、薬をためしたヨハナがたおれて動かなくなりました。ファルトーソーは王様にたのみました。ヨハナを治してください、と。
けれど王様は、ヨハナを治すために魔法を使ってくれなかったのです」
部屋の隅の腰掛けに座り、カッツォがイヴェットに童話を読み上げる。イヴェットの横に座っているシュロは時々、欠伸をする。
シュロが言ったように、イヴェットには何が書いてあるかわからなかった。言葉は通じているのに文字は読めない、不思議だなと思う。
カッツォの穏やかな声の合間に、ドレとミザリーがページをめくる音が響く。
「……オルミスに津波を起こしたことを怒ったのは、大精霊ファムレだったのです。ファルトーソーはアンズィルの爪とともに、北の海に沈んでしまいました……」
「あった! ケンシー!」
ドレが叫んだ。
ちょうど童話が終わるところだったので、カッツォとイヴェットも机の方の椅子に移った。
「――従来、屋敷内ではその精霊は“固定”に相当する名称で呼ばれていたが、ある時点で自らを「ケンシー」と名乗り、「愛の性質の精霊」であると述べた。この変化は、単なる呼称の変更ではない。実際、屋敷内における生気循環、家族関係、従者の願望、対象者自身の欲望が絡み合う中で、当該精霊は延命中心の存在から、愛・執着・相互理解を帯びた存在へと変質したように見える――」
「……ごめん、ドレ。何を言ってるかさっぱりだよ」
「面白いね。その本、全部僕に読んでよ」
「シュロってそんなに頭が良かったの?」
難しい話が始まったので、イヴェットは童話の本を眺めている。文字は読めないが挿絵が描いてある。独特な絵で面白い。
「オーネット家の嫡子の病を治すために授けられた精霊が、人間の感情や願望の干渉で変質していった過程が書かれている。ケンシーははじめ“固定”という意味を持つ名前を名乗っていたらしい」
「“フィルマ”だね」
シュロは垂れた耳をぴくりと持ち上げた。
「フィルマって、ストラヴィルが人形を作った時に言ったやつだよね」
「あとはもう、精霊についてわかっていることが記されているだけだ。……逆か。この本に書いてあることが、精霊についてわかっていることのすべてなのだから」
ドレは一度息をつき、本のページに視線を落とした。
「……第二章、狼王の箱の実験について……」
「狼王の箱?」
「実験に用いられた「狼王の箱」は、古い銀色の長箱であり、外面は摩耗している一方、内面には極めて特異な黒い鉱質の輝きを有していた。その質感は、アルソリオにおいて確認された特殊鉱材と同種である可能性が高い。この器物は伝承上、「狼王の牙」と関係づけられてきた。さらに、内部の黒い材質が精霊を通さない、あるいは遮断する可能性があることが推定された。この仮説は、過去の遺物研究と、当該器物が特定の危険物の封印に用いられていた可能性に基づく」
「ああ、そうだね。そっちの方が重要だよ」
シュロは前足を組み替えた。
「本実験の当初の目的は二重であった。第一に、当時「ケンシー」と名乗っていた精霊を器物内部に封じた際、対象者の身体状態に異常が生じるかを確認し、病がすでに治癒しているかどうかを検証すること。
第二に、精霊と対象者の「性質の一致」が開閉条件に関与するならば、将来的な融合可能性を示す手がかりを得ること。ただし後者については、のちに述べる事情により厳密な検証は不可能となった。
実験は概ね以下の手順で構想・実施された。1、精霊を箱内部に入れる。2、対象者が一度箱に触れ、開くことを確認する。3、その後、精霊を箱内部に留めたまま数日間経過を見る。4、身体状態に異常が起こらないかを観察する。5、所定期間の後に再度開閉を試みる。
この計画のうち、少なくとも初期段階では、対象者が箱に触れて開いたことを確認した」
「ふうん。それでケンシーが、いたりいなかったりしたわけだ。あの箱が開きっぱなしになって、人間がアンズィルの牙とは別のものを入れるなんて、予測してなかったな」
「シュロ、お兄ちゃんたちが言ってる箱のことを知ってるの?」
「まあね。わんわん」
「……性質を遮断する実験は成功したが、もう一つの実験は失敗したようだ」
読み上げるのをやめ、ドレは要約だけを話した。
「もう一つって?」
「箱を開ける実験だ。同じ性質を持つ者が触れると開くと考えていたようだ。しかし、最終的に箱は開かなかった。レイドンは、箱が同じ物ではなかった可能性があると書いている。政治的・家内的事情に鑑み、本文では詳細に立ち入らない……だそうだ」
ドレは丁寧に本を閉じた。
「そっか。ケンシーは閉じ込められたままで怒ってたんだね。その箱が四日前に開いたんだよ」
ドレは本から顔を上げ、ミザリーを見つめた。緑の瞳が揺れる。
「そういう……ことなのか? ケンシーはオーネットに戻り……騙された怒りでオーネット家の人間を……?」
拳を握りしめ、声を震わせる。
「そんな理不尽な話があるか! なぜ、昔の人間の過ちでソラミルが……死ななければならないんだ……っ!」
拳が振り下ろされた机にぽたぽたと滴が落ち、木目の色を変えた。
「ドレ君」
カッツォが、伸びかけたミザリーの手を止める。
部屋がしんと静まり返った。
「わざとじゃなかったんだよ、きっと……。なんで箱は開かなくなったんだろう。最初は開いたって言ってただろ?」
「同じ性質の人が開けられるんだよね。その人がいなくなったんじゃないかな」
「シュロ、知ってる?」
大人しく話を聞いていたイヴェットは、シュロに囁く。
「君が疑問を持たないなら答えるけどさ。まあ、これは人間側のことだから人間が考えればいいよ」
シュロの頭のあたりから、きゅーんと鳴く音が聞こえる。
「誰かが箱をすり替えたんじゃないか?」
話し合っているうちに、カッツォが言った。
「そっか、偽物だったんだ! よくわかったね。カッツォ君」
「いや、商売ではよくある話だからさ」
「……だとしたら、目的は実験の失敗か?」
ドレが少し息を詰まらせながら話に戻る。
「レイドンを貶めようとした……」
「ってことは、裏切り者がいたんだ。実験を知ってて偽物を用意するんだから」
「そういえば、昨日ボクたちレイドンを見たんだよね。あの黒い玉で。その時裏切られたとか、言ってなかった?」
「あ、そうか。女の人がレイドン様って言ってたよな。そういや、箱の話もしてた!」
「イグニーズ……!」
ドレの声は怒りに満ちていた。
「うん、その人だね」
「友情は壊れた、愛を裏切った、だっけ。……愛がどうのってのは、よくわかんなかったんだよなあ」
「レイドンの実験中に、イグニーズという人物が箱をすり替え持ち去った……そのせいで箱は開かず、ケンシーは閉じ込められた……イグニーズのせいで、ソラミルは……!」
机の上に置いた拳を震わせる。
それを横目に見ながら、カッツォが呟く。
「……イグニーズって人は、何でそんなことをしたんだろうなあ」
「うーん……」
ミザリーが首を傾げる。
「ケンシーのことはわかったけど、ストラヴィルのことはわかりそうにないね」
「……確かに」
「じゃ、僕がわかったことを教えてあげるよ」
シュロが三人の前に歩み出てきた。
「狼王の箱と呼ばれる物体の内部にはね、封印していたアンズィルの牙の性質が残っていた。そこに入れられたケンシーにその性質が宿ってしまった。あの精霊は観察のために、性質変化を起こしやすい状態にしてあったんだ」
「シュロ、どうして……」
どうしてそんなことがわかるの?と、イヴェットは言いかけた。イヴェットが知らないことをシュロが知っているはずがないからだ。
シュロは大きな口を開けて、「くわあ〜」と欠伸をした。
「どうして……あれ……?」
突然、瞼が重くなり――
イヴェットは意識を失った。
「イヴェット? ……イヴェット!」
カッツォが駆け寄り、机に突っ伏したイヴェットの肩を揺さぶった。その焦りようを見てミザリーが立ち上がる。
すると、シュロが言った。
「眠っただけだよ。そのままでいい」
「眠っただけ……?」
ドレは目を見開いた。カッツォがこんなふうに取り乱すのを、初めて見たからだった。
挿絵はAI生成で出来るだけイメージに近づけたものです。




