1 森の中の目覚め
光の球がふわふわ、頭上に浮かんでいた。
目の前に突然現れた大勢の人々と、お互いに顔を見合わせた。あちこちから聞こえる色々な外国の言葉。
灰色の雲の下、歩いていたはずの線路はどこにもなくて、足元には石ばかり転がっている。
光の球が、ゆっくりと降りてきた。
『イヴェット……』
――気がついたら、森にいた。
また、飼い犬のシュロと二人きりになっている。
「夢だったのかなあ? よくわかんないけど、シュロが一緒にいるなら平気!」
イヴェットはいつものように、自分を奮い立たせる呪文を唱える。
嫌な同級生と一緒にグループワークをする日の朝、お母さんに叱られた夕方、怖いニュースを見た夜。
シュロがいれば、どんな時でも平気だ。
森に来てから、もう三回も夜が来た。特に目的もなく歩いている。進んだり、戻ったり。大きな木の根っこに登ったり降りたり。
「しかもみなさん、何とびっくり。人の言葉を喋る犬なんですよ! じゃじゃーん!」
「うん……喋るけどさ」
シュロはとぼとぼと歩いている。
「シュロってそんな感じだったんだね。もっと、元気な子かと思ってた」
「いや、僕は……」
「うそだよ。どんな子だってシュロはシュロだもん。大好き!」
イヴェットはシュロに抱きついた。
犬になる前にあったはずの自己認識は、イヴェットに“シュロ”と呼ばれるたびに消えていく。
「なんかね。疲れてもいないし、お腹も空いてないし、すっごく元気! なんでだろう?」
「そりゃあね。だって君は……」
「あ! 道がある!」
細い轍がいくつも残る、広い道に出た。
「シュロ、誰か来る! やっぱり人はいたんだよ!」
イヴェットはシュロの耳に顔を近づけ、喋っちゃダメだよ、と小声で囁いた。
歩いてきたのは、四人の大人たちだった。
みな一様に革鎧を着て、外套を羽織っている。腰に携えているのは長剣だ。
道に立ち尽くしているイヴェットとシュロに気付いて、指をさした。
「え……映画の撮影、かな……?」
鎧の人たちは、怖い顔で近付いてきた。
剣に手をかけている人もいる。
「あの動物はなんだ!」
「子どもがいるぞ?」
「例の人形か?」
「良かった、言葉がわかるよ」
イヴェットはシュロに囁いた。
「そりゃあね」
と、シュロは舌を出してハッハッと息をしながら言った。
「マリエル・オーネット様では?」
「違う。年頃は同じだが……」
彼らは少し離れた場所で立ち止まり、イヴェットたちの様子を見ている。
「どうしたらいいかな?」
「君が話しかけてよ。僕に喋るなって言ったんだからさ」
「だって、犬が喋ったらみんなびっくりするよ?」
「君が喋ったってびっくりするよ。ほらほら」
シュロが鼻先でぐいぐいと腰を押すので、イヴェットは仕方なく前に出た。
「あの……」
「君……名前は?」
赤胴色の髪をした男が、イヴェットに話しかけた。
やるな、ガイリッド!と他の男たちから声が上がる。
「イヴェット・エルヴァリン……」
「エルヴァリン?」
彼らは顔を見合わせる。
「南オルミス人か?」
「国籍? リンドホルンだよ」
彼らはまた「リンドホルン?」と顔を見合わせた。
「どうしたらいい? シュロ……」
その時、遠くから「おーい!」と、声がした。
「ガイリッドー!」
白毛に茶色の斑模様の馬が、馬車を引いてくる。
赤い髪の女の子が、後ろから身を乗り出して手を振っている。
「ミザリー王女!」
彼らはほっとしたように笑い合った。
シュロは円らな瞳でその様子を見ていた。
「変わった服だねー」
ミザリー王女と呼ばれた女の子は、止まった馬車から降りてきて、イヴェットを覗き込んでいた。
「そうかなあ……」
少し大きめのカーディガンに、白いブラウス。茶色いスカート。何でもない、いつもの服だ。ずっと着ていたせいで汚れている。
「お姉ちゃんたちの方が、昔の人みたい……」
「そうかなあ?」
「そんなことはありませんが……」
ミザリー王女と、ピンクゴールド色の髪をしている女の人が顔を見合わせた。彼女も男たちと同じ革鎧をつけ、長い剣を持っている。
「アルストルへ行かないのか?」
御者台で待っている黒髪の男の子が、不機嫌そうに言った。
「まあまあ。少し待ってよう、面白い動物もいるし」
隣に座っている男の人が男の子を宥める。あの人たちは兄弟かな、とイヴェットは思った。
「あれはなんだ?」
「羊かなあ。俺も見たことないよ」
「なんかみんな、犬を知らないみたい」
シュロに囁いたつもりだったのに、いつの間にか目の前に屈んでいたミザリー王女の耳元で言ってしまった。
ミザリー王女は金色に輝く大きな瞳で、シュロをじっと見つめた。
「……犬? 犬っていうの? かわいいね」
「バーニーズだよ。シュロっていうの!」
「犬? バーニーズ? シュロ?」
「バーニーズは犬の種類だよ。名前が、シュロ」
「そっか。シュロ、よろしくね!」
「撫でても大丈夫だよ。おっきいけど、すごくいい子なんだ」
イヴェットが言うと、ミザリー王女は躊躇なく手を伸ばした。
「ふわふわしてる! タランと違うね」
「タラン?」
「あの馬だよ。カッツォ君の馬なんだ!」
馬車の方を見ると、目が合った青年はにこりと笑った。優しそうな人だと思った。後ろに結んだ茶色い髪のポニーテールが、本当に馬の尻尾みたいだ。
「迷子のようですので、アルストルで保護するのはどうでしょうか」
同じ服の男の人たちと話していた女の人が戻ってきて言った。
「そうだね、一緒に町まで行こう」
「一緒に?」
黒い髪の男の子が嫌そうな声を出す。
ミザリー王女に手を引かれて、幌馬車の荷台に乗せられた。
男の子が振り向いて、イヴェットが乗り込むのを見ている。シュロが乗ってくると、怖がって顔を引っ込めた。
「馬車に乗るなんて初めてだね、シュロ」
女の人がシュロに触りたそうにしていた。撫でられるのが好きだから撫でていいよ、とイヴェットが言うと、恐る恐る手を伸ばし、嬉しそうな顔をした。
「ボクはミザリー、こっちはコーレリア。そっちにいるのがカッツォ君とドレ君だよ。他のみんなは見回り中の騎士」
「騎士……!」
「ボクたちは調べることがあって、アルストルへ行くところなんだ。イヴェットは?」
「私はね……えーっと……」
イヴェットは、行くあてもなく歩いていたことを思い出した。
死んだ人や動物を跨いで、歩いた。
電車も車も動いていなかった。
入れるお店の缶詰とかを勝手に食べた。
シュロとただひたすら歩いた――。
「あっそうだ。世界が終わるのを見に行くところだったんだ」
「世界が終わる?!」
馬車に乗っていた他の四人がぎょっとして、イヴェットの顔を見た。
幌の中が一瞬しんとして、シュロが体を震わせた。
「でも、まだ終わりじゃなかったみたいだね。歩いてきてよかった。ね、シュロ」
イヴェットは微笑んだ。
「……まさか、オーネットのことを言っているのか?」
「でも、今は危ないから連れて行くわけにはいかないなあ」
と、御者台の二人が言った。
「兄たちが見つけていて良かったですね」
「そうだね、何か知ってかも。それに……」
コーレリアの言葉に頷いたミザリー王女は、じっとシュロを見つめる。
「ボクは君が気になるな」
「まあ、君はそうだろうね」
と、シュロが言った。
「シュロ! 喋っちゃだめって言ったじゃない」
「ずっと黙ってるなんてできないよ。教えることもあるし」
「教えること?」
でも、それよりもイヴェットが気になったのは、シュロが喋ったことには四人がそこまでびっくりしなかったことだった。
「あれ? 犬が喋るのって普通のこと?」
「たまに喋る動物がいることを、彼らは知ってるんだよ」
森を抜けると大きな石の壁が現れ、金属鎧の騎士たちが馬車を出迎えた。
「昔遊んだブロックのお城みたいだね、シュロ」
上に立っている見張り兵たちがミザリー王女に手を振っている。こんなに人気があるなんて、ミザリーはきっと善い王女様なんだとイヴェットは思った。
コーレリアがイヴェットとシュロを馬車から降ろした。
「ボクたちオーネット領の状況を話してくるから、カッツォ君とドレ君は先に行っててくれる?」
「わかった。本を調べておくよ」
そう言って、カッツォは手綱を引いた。
ミザリーは集まった騎士の人たちに、イヴェットとシュロが森で迷子になっていたことを説明している。
イヴェットは辺りを見回してみた。
川には水車が動いている。炭のような匂いがする。町の建物の屋根は青色で揃っているが、どれも少し色褪せている。
石造の大きな建物があちこちに見える。
古い石畳は滑らかで丸みを帯び、隙間に細い草が生えている。
「似ている場所は知ってるけど、お話の中の風景みたい……」
イヴェットが言うと、シュロが不満を訴えた。
「それで結局、僕は喋っていいの? 悪いの?」
「大丈夫みたいじゃない?」
「良かった。わんわんと言わずに済んで」
シュロはすました顔で言った。口があまり動いていないのに、どうやって人の言葉を話しているのだろう。
「やっぱりそうだよね。精霊かなって思ってたんだ」
いつの間にか騎士たちとの話を終わらせて、ミザリー王女だけが二人の前にいた。
「精霊?」
イヴェットがきょとんと聞き返す。
「あとはコーレリアに任せて、ボクたちも行こ!」
ミザリーはイヴェットの肩を押し、町の中心部へと向かわせた。
「お姉ちゃんって、王女様なんでしょ?」
「うん。ミザリーでいいよ」
イヴェットは周りを見回したが、城のような建物は見当たらない。騎士も兵士も町の中にはいない。
黒い染みだらけの服を着た人たちが、広場に座り込んでいる。
「アルストルは学校が有名だけど、インクや紙を作っているんだよ」
イヴェットが彼らを見ているのに気づき、ミザリーが教えた。
「あっ、これ、インクのにおいだったんだね」
イヴェットは空気を吸い込んでみた。湿った草のにおいも混じっている。
「あれが学校だよ。向こうは近くの子どもたちが通う学校。大きい方がアルスター講堂。ヘイス王が作った、学校で教えることを教える学校なんだ」
「教えることを教える……先生の学校だね!」
「そう。レイドンもよく来ていたんだよ」
「レイドン?」
「有名な昔の人、精霊学者だよ。ボクたち、レイドンのことを調べにアルストルに来たんだ」
アルスター講堂は、イヴェットの知る教会のような雰囲気だった。白い石の廊下には、赤い絨毯。少女の像に、馬の像。それからオットセイの像。アーチを描く天井には教会に似た雰囲気の絵が描かれている。
「ここはアルソリオの宮殿が再現されてるんだよ。ヘイス王は、ファムリアに来た人がこれを見られなくなるのはもったいないと思ったんだって」
「……アルソリオって何?」
「はじまりの町だよ。昔はその一つの町しかなくて、みんなそこに住んでたんだ」
「ファムリアっていうのは?」
「この国の名前だよ。ヘイス王っていうのは、ファムリアの最初の王様で、英雄と呼ばれた人なんだ」
「じゃあ、お姉ちゃんはファムリアの王女で、その人の子孫ってこと?」
「うん! そうだよ」
廊下の先へ進むと中庭に出た。
授業のない学生たちが、話し合ったり本を読んだりして過ごしている。
彼らは王女に気がつき、手を振った。
そしてシュロに気がつき、その手を止めた。
「ミザリー、その動物は何?」
「子牛? 子馬……でもないですね」
シュロの周りに集まってくる。
「犬っていう動物なんだって」
そう、ミザリーが言った途端。
「犬?!」
学生達はざわめき、顔を見合わせた。
「まさか……」
「でも全く造形が違う……」
「いや、耳の位置、目の位置、口の形も同じだ。見ろ、ここに牙もある」
学生たちはシュロの顔を上に向けて顎を開ける。
「どうしたの?」
ミザリーが聞くと、
「犬についてはアルソリオの文献に記載があり……」
「サキタリ家に残る英雄トゥヴァリの記録にも残っているわ」
「狼犬と呼ばれていたものがオルミス中期には狼王と呼ばれるようになりました」
「あ、そっか」
ミザリーは話を聞いて、納得したように手を打った。
「じゃあ、君は大精霊アンズィルなの?」




