1 南オルミスのハンドレッド
「何が英雄だ、くだらない」
窓辺に腰掛けていたハンドレッドは、読んでいた本を投げ捨てた。本が石床の上を滑る。小姓のダリウス・ドーデミリオンは慌ててそれを拾い上げ、表紙の擦れを確かめた。
「なんてことをするんですか! お勉強をなさるお約束でしょう! これは王子として学ぶべき教養ですよ!」
そう喚いても、ハンドレッドは鼻で笑うだけだった。
「どうせその家系の子孫が威光を保つために、大げさに持ち上げているだけだ。書いてあるのは嘘ばっかりだ」
「絶対に外でそんなことを言ってはいけませんからね! 本当は、私の前でだってどうかと思いますよ」
ダリウスは憤慨し、ハンドレッドに背を向けた。
「王子に向かって不遜な態度だな、ダリウス。自分の先祖が本当に英雄だと信じてるのか? ドラギエル・ドーデミリオン、箱で敵を殴り殺した。ただの野蛮な大男じゃないか」
「わかった! 私をクビにしようとなさっているんでしょう。その手には乗りませんからね」
「そもそも、お前がその血を継いでいるとは思えないな。十七歳のくせに、十四歳の私と背が変わらないのだから」
「力だけ受け継いでいたらどうするんです? 痛そうなものはたくさんありますよ、王子」
「あっはっは、やってみろダリウス。証明してみせろ、英雄の子孫だと」
ハンドレッドは窓の外を覗き込んだ。
「見ろ、ダリウス。煙が上がっている。兄上たちの軍が向かっているぞ。昔の英雄たちとやらの失態だ。また港が海賊に襲われている」
石造りの高い塔。上階にあるこの部屋からは、城壁の向こう、北にあるルミリア港が小さく見える。
半年前に北西のアンデロス港が襲われたばかりだ。海賊の頭領はファルトーソーを名乗ったという。
「すぐに撃退されます。アルフレッド殿下もベアトール殿下も、もうじき英雄に名を連ねるでしょう」
「これが世界で繰り返されている日常か」
冷たい光を帯びた緑色の瞳に遠くの争いを映し、ハンドレッドは一人呟く。
その時――ハンドレッドの視界の端で、突然、黒い閃光が弾けた。
「なんだ?」
東側を見ようと、窓から身を乗り出す。
「王子?!」
ダリウスは驚き、ハンドレッドの服を掴んだ。ハンドレッドはその手を振り払い、小さな自室を飛び出した。前室にあるダリウスの部屋を抜け、螺旋階段を駆け上がる。
「王子ー!」
二人分の足音が円筒状の吹き抜けに反響する。
ダリウスが慌てた様子で追いかけてくる。見た目に寄らず、足が速い。
「だめです、王子、戻ってください!」
「違う! ダリウス、あれを見ろ」
「……な、」
短く切り揃えられた茶色の髪が、風に煽られ視界を覆う。目の前の髪を払い、ダリウスは絶句した。
東の空が黒い雲で覆われていた。
雲の中から、赤い光の球が降りてきた。
「何だ、あれは……!」
遠くからでも大きく見えるそれは、ゆっくりと地面に着くと、そのまま沈み込んでいった。
低い唸り声が轟き、二人の立つ塔までもが震えたようだった。
こんな空は見たことがない。
しかもこの方角は――ハンドレッドにとって、遠い空の出来事ではなかった。
「まさか、オーネットでは……」
唇を震わせる。
ダリウスは、この怯えた表情に覚えがあった。十年前、カルラ王妃が亡くなった時も、幼いハンドレッド王子は同じ表情をしていた。
「ソラミル……!」
ハンドレッドは、オーネットにいる唯一の友人の名を叫んだ。
欄干に身を乗り出し、今にも飛び越えそうなその様子に、ダリウスは慌ててハンドレッドの腕を掴む。
「王子! 戻りましょう!」
「……っ」
ハンドレッドはダリウスを突き飛ばし、螺旋階段を駆け降りた。
自室に戻り、外出用の服を探した。しかし、冷たい部屋の中にある布といえば、ベッドとカーテンくらいのものだった。他にあるのは本ばかりだ。
「ちっ」
ハンドレッドは舌打ちをして、ダリウスの部屋に向かう。
「ちょっ……王子、何をやってるんですか!」
タンスの中を引っ掻き回し、地味な緑色の外套を見つけた。
「あれが何もなかったと思うか? オーネットに行ってくる」
ハンドレッドは腰に鞄のついたベルトを巻きながら言った。
「えっ、王子がですか? 何かあればアルフレッド殿下が向かわれるでしょうに」
「……兄上たちは海賊と戦っているところだ。すぐには動けない。私が行く。ソラミルとの約束を知っているだろう?」
「そうですけど、何もこんな急に決めなくても。少し待ってください、私も行きますから」
羽織った外套の留め方がわからずにいると、ダリウスが首元の紐をくすんだ金属に留めた。
「お前はここにいて、私がいないことをごまかさなければならないだろう」
「……それはそうですけれども、お一人でなんて……」
ダリウスは苦い顔をして、少しの間考えた。
「でしたら、お帰りのときはソラミル殿に送っていただいてくださいよ。そうすれば、誰も何も言えません」
「お前のごまかしが失敗するのは決まっているのか?」
ハンドレッドは呆れながら外套のフードを被り、顔を隠せることを確かめた。
「外では通貨が必要ですよ」
ダリウスが取り出した小さな袋を受け取る。
ハンドレッドは懐に袋をしまい、部屋を出て行った。
「大丈夫ですかねえ、外なんて行ったことがないのに……」
階下には第一王女マリージアの部屋と、ダリウスの家族の居室がある。ハンドレッドは影に身を隠しながら、そろそろと塔を出た。
自分の体が外にあることに、小さく驚く。
(まだだ。まだここは、外じゃない……)
四方を取り囲む灰色の城郭を眺める。誰かが見ているのではないかと、恐れを抱きそうになる。
東棟の赤い旗が風に鳴っていた。
西側からは帆布の擦れる音と、潮を含んだ匂いが流れてくる。
向かうのは、南の城門。それさえ抜ければ、ハンドレッドを止める者はいないはずだ。
城門には兵が数人立っていた。顔を伏せ、足早に通り過ぎようとする。しかし、兵たちは首を傾げ、フードの影を覗き込んだ。
「……誰だ?」
緑の瞳と目が合った瞬間、兵の顔色が変わった。
「まさか、第三王子……!」
「公務に出る。ダリウスに聞け」
逃げ出したくなるのを抑え、堂々と歩みを進めた。
心臓がバクバクと音を立てていた。
軋む音を立てて、門が開く。
――風に外套が煽られた。
(出られた……)
塔の中からしか見たことのなかった景色の中に、ハンドレッドは立っていた。
振り返ると、塔の外回廊でダリウスが手を振っていた。
(……私には、危ない危ないというくせに)
軽く手を上げ返し、先を急ぐ。
東の空は、何事もなかったかのように澄みきっていた。
緩やかな丘陵を下り、まだ朝の空気を残す城下町に入る。大きな屋敷が整然と並び、人通りはほとんどない。静かな町に響く革底の硬い音は、塔の中にいるのと変わらない。
馬車がやって来るのが見え、外套のフードを被り直した。ゆっくりと引かれていく馬車からは、野菜の青いにおいや生臭い魚のにおいがした。
どの馬車もハンドレッドのことを気にしていない。緊張が解け、足取りが軽くなる。
城下町から外へ出る外壁門は、中へ入ろうとする商人でごった返していた。
まだ通行証の確認が始まっていない。待っている商人たちは、時間を情報交換に使っている。ハンドレッドは人混みの隙間を潜り抜け、城下町を囲む高い壁の外へ出た。
立ちこめる土埃が喉に絡みつく。ハンドレッドは咳き込んだ。
街道は馬車が行列を作り、その隙間を縫うように大勢の人々が行き交っている。街道沿いや壁の周囲は物売りで溢れている。
ハンドレッドの前を歩いていた人が、突然商品を見て立ち止まる。避けようとした先にも別の人がいて、肩がぶつかる。道の端に寄ると、いきなり物売りに外套を掴まれた。
(何なんだ、ここは!)
外套を物売りの手から取り返し、逃げ出した。
(こんなところで一歩も進めないようでは、とても辿り着けない……)
オーネットに向かうには街道を行けばいいはずだ。どこかで東に曲がるはずだ。気を落ち着かせ、早くこの道を抜けなければと足を急がせる。
「おい、危ないぞ!」
荷車を引く男が、罵声を浴びせながら乱暴に通って行く。荷車をぶつけられたハンドレッドは地面に転び、膝と両腕をしたたかに打ちつけた。
「大丈夫か?!」
誰かが駆け寄ってくる。脇を持ち上げられ、足の裏が地面につけられる。
何が起きたかわからぬまま、膝の汚れを払われる。目の前には誰かの茶色い頭があった。埃っぽい長い髪を、後ろで一つに結んでいる。
しゃがんでいた男が立ち上がり、今度は自分の服の袖でハンドレッドの手を拭いた。
「血は出てないな。洗った方がいいけど」
背が高い。けれど、顔つきはまだ少年のようにも見える。ハンドレッドよりは年上だろう。
「どうかした?」
ぽかんと見上げていると、男は薄い茶色の瞳を細め、ハンドレッドに笑いかけた。
「たぶん、この町に来たばかりだろ? 親は商人? この時間は一番人が多いから、遊ぶんだったら昼にしな」
「……なぜ助けた?」
ハンドレッドは、男の服の汚れた袖を見つめて言った。男はその視線に気付き、さりげなく袖をまくった。
「なぜって、変なこと聞くなあ。知り合いがいないのって大変だろ? 困ってたから助けただけさ。俺はカッツォっていうんだ。商人の見習いだよ。そっちは?」
勢いに押され、思わず答える。
「……ドレ……」
ぼそぼそと呟く声に、カッツォは耳を近づけた。
「よし、ドレだな。家まで送って行ってやろうか? 俺は壁の外ならどこだって案内してやれるよ」
ハンドレッドはカッツォを睨む。勝手なことばかり言ってくるので、調子を狂わせてやりたくなった。
「……オーネット」
「え?」
「お前を雇う。オーネットに私を連れていけ」
カッツォは困ったように首を傾げた。
「オーネットだって? そんな遠くだと思わなかったな……何しに行くんだい?」
「壁の外ならどこでもいいと言っただろう。行けないのなら雇わないだけだ」
押しのけて歩いて行こうとすると、カッツォに道を塞がれた。
「あー、ちょっと待った。……俺が行かなくても行くんだよな? 一人でも」
「当然だ」
「俺を雇うって言ったよな。三日分の金があるんなら、連れてってやってもいいよ。旅ってのは金がかかるんだ。世間知らずの子どもが一人でできるようなもんじゃ……」
ハンドレッドは懐から小さな袋を取り出し、カッツォに突きつけた。どう使えばいいのか知らないが、ダリウスが渡したのだから、必要な量はあるのだろう。
「へえ」と、カッツォは目を丸くした。
「……わかった、雇われるよ。三日間、オーネットまでな」
ハンドレッドは少し驚いた。この小さな袋一つで、さっきまで文句を言っていた男が従うのか、と。
しかし、都合のいい人間がいて助かった。
「なら早くしろ。急いでいるんだ」
「わかった、わかった。こっちへおいで」
カッツォは街道を城とは逆に進んでいき、小さな幌馬車の前で足を止めた。
「タラン! 仕事だ、行くぞ」
白毛に茶色い斑模様の入った馬は、鼻面をカッツォにすり寄せた。
「馬車を持っているのか?」
「これが俺の全財産さ。この馬車が家みたいなもんで、タランが家族だ」
カッツォはそう言って、馬の背を撫でる。
「馬が家族?」
「そうだよ。羨ましいかい?」
カッツォはハンドレッドを持ち上げて、馬車の荷台に押し込んだ。荷台の隅には水樽、果実や干し肉が入った袋と乾草の束が置かれていた。
馬車というものは、想像していたものとはまるで違った。中で椅子に座れると、本で読んだはずなのに、この馬車にはそれがなかった。地べたのような荷台で荷物に挟まれ、膝を抱えていろということらしい。
「私もそこに座らせろ」
カッツォが座っているのを見て、ハンドレッドは御者台に体を捻じ入れた。椅子のようになっているだけ後ろよりましに思える。
カッツォは少し驚いた顔をしながら、端の方に体をずらす。
「ドレは、城下にはどうやって来たんだい? どうして一人で?」
「……座りにくいからここに来ただけだ。話したいわけじゃない」
「いいじゃないか、三日も一緒にいるんだから。黙りこくってちゃ長く感じるだろ? 話していればあっという間だよ。けつが痛いのも忘れるし」
そう言って笑ったきり、カッツォは何も言わなかった。
(話したくないと言ったから黙ったのか……?)
単調に車輪が回る音。
馬が何度か体を揺らす音。
(ソラミルもここを通って、城に来ていたのだろうか……)
城下はすでに遠く離れていた。
進む丘陵には、轍の残る街道と草木しか見えない。カッツォが言う通り、先は長そうだ。
「……友人がいるんだ」
なぜ自分から話し始めてしまったのかは、わからなかった。
この男がよく話すからつられたというわけではない。ただ座っているのが退屈だっただけだろう。
「さっき空が黒く光った。……だから様子を見に行く」
「ああ! さっきのあれ、凄かったよなあ。なんだったんだろう」
「見たのか?」
「うん。もしかして、その友だちが心配で会いに行こうとしてるのか?」
「悪いか? 友人なのだから、当然だ」
「悪いなんて言ってないよ。ちょっと意外だった。……雇われる仕事っていろいろあるけどさ、こういう仕事は一番いいな」
「……」
「その友だちって、どんな人だい?」
「物静かで、賢い。それに、温厚だ」
「そりゃあ、この世界で一番いい人だなあ」
カッツォは軽く頷いた。
「お前のような者に言われずとも、ソラミルは素晴らしい人物だ」
ふんと笑うと、カッツォが驚いた顔で見ているのに気付いた。
(……しまった。つい、ダリウスのつもりで……)
「絶対に外でそんなことを言ってはいけませんからね!」
ダリウスのいつもの小言が、頭をよぎる。
それっきり、カッツォが話しかけてこなくなった。静かになって良かったと、ハンドレッドは思った。
カッツォの頭の中はそれどころではなかった。
(ソラミル……って言ったな、今……)
カッツォは以前仕事でオーネットに行ったことがある。当主の息子の一人が、たしかソラミルという名前で、二十歳前後だったはずだ。
(歳上の領主の息子を呼び捨てにして、友人だって? 服もよく見りゃ上等だし……貴族街の子か? まずったなあ……)
カッツォは“ドレ”に聞かれないように、そっとため息を吐いた。
挿絵はAI生成で出来るだけイメージに近づけたものです。




