8 フィルマの変化
お目覚めになったエディメル様は、いつになく体調が良くご機嫌でした。
「いや、少し熱っぽい気がするんだ。でも大丈夫だよ、これくらいは」
そんなことを仰ったのは、初めてだったのではないでしょうか。
『無理をしないで、エディメル。あなたが心配よ』
「ありがとう、フィルマ。今も生気を運んでくれている?」
『いいえ。どうして?』
「そんな気がしたんだけど……」
『あなたが願うなら、私は何でもするわ』
そう言い合って、微笑み合うエディメル様と精霊フィルマ。エディメル様はどこか居心地の悪そうな、慣れないご様子です。
フィルマの目には瞳がないのに、エディメル様を熱く見つめているように見えました。フィルマはまとわりつくようにそばにいて、言葉はつぼみのような唇から発せられているようにしか思えません。
「……やっぱり、熱が出てきたみたいだ。もう少し寝ていることにする」
エディメル様が仰ったので、私はお水を置いてお部屋を出ました。
私にはわかりました。
フィルマはエディメル様を愛してみせているのです。
どのように表現すれば愛していることになるのか、理解したのでしょう。
ローレンスの甘さに浸るような文章そのままに。
『あなたがそう思うなら、成功しているのね』
いつのまにかフィルマは私のそばにいました。
「エディメル様はお休みになられたのですね」
『ええ。もっと愛を学習したいわ。まだ理解が埋まっていない部分があるもの』
フィルマが言うので、私はレイドン様の研究棟へ向かいました。レイドン様は、あの箱についてのお考えを文章にまとめていらっしゃるところでした。
「そういうわけで、他の愛のことがわかる本を貸していただきたいのです」
すると、レイドン様は困った顔をなされました。
「実はね、ああいった本がたくさんあるわけではないんだ。ファムリアに行けば歌や劇の作り話があるかもしれないけれどね。僕が研究しているのは人間じゃなくて精霊だから……地理、建国史……この辺りにあるのは、医療や薬についての本なんだ」
ご自身の本棚を指されて、仰いました。
医療や薬についての本、というものは他よりもたくさんありました。
「レイドン様はお医者様にもなられるのですか?」
精霊と歴史の研究者であり、教師でもあるレイドン様がこれだけの量の知識をお持ちになっているのなら、もう既に「お医者様でもある」と言えるのではないでしょうか。
しかし、レイドン様は首を横に振られました。
「これは、エディメルの病気のことを調べているだけなんだ」
「エディメル様の……?」
「もちろん、医療と精霊の力の関係を研究してもいるけどね。クローレア様に頼まれて、エディメルの病気を治す方法を探しているんだよ。実はアルソリオへの旅もそちらが主目的だったんだ」
「……そうだったのですね。治す方法は、見つかりそうなのですか?」
「役に立ちそうな資料はなかった。子どもの頃の症状は、【ハーヴァの書】に似たものがいくつか書かれていたけれど……医者は、もう異常はないと言ってる。でも実際に身体症状は出ている……」
レイドン様はしばらく考え込まれると、
「フィルマに、こういう本も読んでみてくれないかい?難しいかもしれないけど……医療のことが書いてある。僕はね、医療行為というのは人間が持つ究極の愛が作用する魔法だと思っているんだ」
そう言って手渡されたのは、【チルキア家の心得】という本でした。
「“人が人を害する意思を持ったとき、精霊による治癒の力は失われた。
我が家の祖チルキアがアルソリオに生まれたのは、オルマの頼みを精霊が聞かなくなった時代だった。彼は他者が痛み苦しむことに耐えられず、願いを叶えてもらうため、賢人アイピレイスに精霊王セレニアへの謁見を申し出た。賢人アイピレイスは、賢人ハーヴァの遺した本と道具をチルキアに与えた。
それがアルソリオにおける医療の始まりである。医療行為を行う者を医者という。チルキア家に生まれた者は己より他者を願う術を身に付け、医者という仕事に従事することを望む。“」
この本には三つのことが書かれていると、私は理解しました。
お医者様とは人を害そうとする意思を上回る、他者の安らぎを願う強い意志をお持ちであること。
医療を行うことで意志は行動となり、さらに強い願いとなること。
その願いは精霊に届き、治癒の魔法を叶えること。
『そうね』
と、フィルマは言いました。
なぜか、そっけなく――この本に書かれていることは知っている、というように聞こえました。
『だって、私がその精霊だったのだから』
「あ……そう、でしたね」
私は自分に驚きました。
そうです。フィルマは精霊王がオーネット家に与えられた、治癒の精霊に違いありません。
お生まれになったエディメル様にお医者様が医療を施し、それでも治らない病に対して、クローレア様とダニエル様の願いが聞き届けられたのです。
しかし、私はフィルマを何だと思っていたのでしょう。
いつしか。いつから、エディメル様の――病の原因だと考えるようになったのでしょうか。
※
『レラ。私はオーネット家の願いを叶えるためにいる』
昔――下膨れの青い花、ミシュワの姿をしていた精霊が話したことを思い出しました。
『あなたと同じ』
ミシュワの姿の精霊は、私から少し生気を取りました。花や虫の生気ばかり与えていたら、エディメルが人間ではなくなってしまうから、と精霊は言いました。
※
記憶が頭の中で再生されたとき、私は気付いたのです。
――私がその精霊だった。
フィルマは、そう言いました。
「フィルマ、あなたは……はじめから……フィルマという名前でしたか?」
『私ははじめからフィルマよ?』
と、瞳のない目を細めて微笑みます。
「今も……フィルマですか?」
『ええ、そうよ』
そう言うので、私は少し落ち着くことができました。
レイドン様がいらっしゃらないこのときに、何かがわかってしまいそうで――けれど私はこのとき、レイドン様がいらっしゃらなくて良かったと、安堵していたのです。
「フィルマというのは、精霊の言葉で何を意味するのでしょうか?」
『“固定”』
「固定……?」
『私、彼のそばにいるわね。すぐに彼を治してあげないと。彼に触れられたらいいのに、触れて、抱きしめられたらいいのに。私はエディメルの願いを叶えるためにいるのだから』
そう言って、フィルマは姿を消しました。




