17 集結の場
部屋の扉が、突然開かれた。
無作法に。乱暴に。
最低な記憶をなぞるように。
「なっ……」
ハーヴァはベッドから飛び起き、テーブルを後ろ手に部屋の奥へ逃げた。
「行くぞ。仕度はできたか?」
ナリファネルが言い放った。ハーヴァの怯える顔など、目にも入っていない。
「セレニアは!」
こういうことが起こらないように、あの子がいたはずなのに。
「いない。悪魔の首輪を繋いでおくのは、誰の役目だ?」
「……わ、私……?」
「ふん……まあいい。後で処罰を加えてやる。宮殿に女を迎え入れる。正妻として挨拶でもしろ」
「何言ってるの? 何の話よ!」
ソファの背から滑り落ちた服。ぶつかったはずみで、棚から落ちた写真立て。全てを土足で踏み付けながら、ナリファネルは言った。
「増えた奴らを有意義に使おうじゃないか。精霊の餌よりは、奴隷の方がマシだろう。家畜の街は王国になり、不死の王が永久に君臨する」
「……勝手にやりなさいよ! 私は、こんな世界いらない!」
「わざわざ俺が、お前を立ててやろうとしているんだぞ! 大人しく言うことを聞け!」
激昂したナリファネルは肩を掴み、無理やり部屋から引きずり出した。扉の角に何度も何度も打ち付ける。抵抗する力を失うと、赤い絨毯の上に投げ捨てた。
「セ、レ……ニア……どこにいるのよ、セレニアアアア!」
廊下を引き摺られて行く。ハーヴァの悲痛な叫び声は、宮殿中に響き渡った。
▪︎
トゥヴァリは一人、馬の背から降りた。慎重に、アンズィルの牙がナランサの毛先にも触れないようにしながら。
『その牙は、魔法で不死となっている者を殺せるだろう。しかし、お前を魔法で助けることも出来ない。その牙を持つ限り』
「わかりました」
精霊が一度治してくれた手のひらに、再び傷が刻まれる。ひりつく痛み。まるで火を握っているかのようだ。
「トゥヴァリ。やっぱり、……」
ペルシュがうつむく。
トゥヴァリは優しく笑いかけた。
「待っててくれ。必ずペルシュの世界を取り戻すから」
ペルシュのためじゃない。
二度とペルシュをあの男の視界の端にも入れたくない。
あの男を、できるだけ苦しませて死なせたい。
指が砕けそうなほどに、牙を握りしめる。
この怒りは、もう抑えていられない。
ナランサと見つめ合う。トゥヴァリの願いに応じ、ナランサは空中へ前足を踏み出した。
黒い扉を、力強く開く。
▪︎
「アイピレイス様!」
若い男の声が地下牢に反響し、アイピレイスは目を開けた。
暗がりに浮かび上がる顔が、ぼんやりしていた頭を覚醒させる。
「トゥヴァリ……? どうしてここへ来た! 今、恐ろしいことが起きている。ナリファネルが……」
「待って! ……これは、どうやって開けるんですか?」
トゥヴァリは鉄格子を揺らす。鉄の棒は天井から床まで突き抜けており、腕の力ではびくともしない。
「鍵があるはずだ。入り口の辺りに」
トゥヴァリは何かを引きずり、入り口へ向かう。
「カギって、何ですか? ……何もありませんよ?」
「何だって?」
アイピレイスは鉄格子をよく調べた。
トゥヴァリの言う通り、牢には鍵穴も扉もない。鉄格子だけが、端から端まで並んでいる。
(……ルヨはどうやってここに私を入れた?)
記憶がない。気を失った覚えはないというのに。
「アイピレイス様、離れていて下さい」
トゥヴァリは目の前に立ち、引きずっていたものを振り上げる。それは、白銀に輝く剣のように見えた。
(あれは一体……鉄格子を切ろうというのか?)
トゥヴァリが剣を振るう。
確かに当たったはずなのに、牢は静かなままだった。しかし、剣が触れた瞬間。アイピレイスを閉じ込めていた檻は、塵のように光の輝きを残して消えた。
「へえ。こんなものも魔法で出来てるんですね」
「何をしたんだい?」
「アンズィルの牙の力で、魔法を消したんです」
トゥヴァリはそれを目の前に上げて見せる。
触れてみようとした時、
「――セレニアアアアア!」
上の方で、叫び声が響いた。
「ハーヴァの声だ」
「……あの人、俺たちを、騙していたんですよね」
低く憎しみのこもった声で、呟く。
「何かあったのか?」
「ペルシュが……ペルシュが生きていたんです……」
アイピレイスは、目を見張る。
しかし、トゥヴァリは喜んでいるようには見えなかった。
「アイピレイス様……俺は……あの男を、赦さない……!」
その形相は、アイピレイスの中に恐怖を生んだ。
トゥヴァリの手からは、血が滴っている。
(そうか。この子は、私たちに……死を与えに来たのだな……)
死神でも未知の光でもなく、怒れる人間の姿をして。
「……君はもう、私の知らないところで物事を成し遂げたのだね。その力でこの町……世界を、変えるのだろう」
アイピレイスは肩を落とした。
「ハーヴァ……彼女は、私たちを騙したわけではない」
名前を口にしただけで、トゥヴァリの目がこちらを睨む。
「あれも本心だったのだよ。彼女は、もう……」
さっきの悲鳴は、ただ事ではなさそうだ。
「行こう」とトゥヴァリを促した。
▪︎
広場に王が現れた。
賢人ナリファネル――その傍らにいるのは、あの黒髪の少女ではなく、金色の髪を振り乱して悲鳴を上げる女だった。
人々は言い争っていたなんて忘れたように、揃って大階段を見上げた。
「何か問題でも起きているようだな」
「君の提案に納得していない人間がいるみたいだよ」
ルヨは肩をすくめる。
ナリファネルは広場を見渡した。昨日と違い、一人一人の顔を確認している。
「お前が主犯だな?」
レニスと目が合った瞬間、ナリファネルは言った。女性の腕を無造作に引きながら、真っ直ぐレニスへ向かってくる。
ラナを背中に隠した。
「乱暴はよくありません。その人を離してあげてください」
「乱暴とはこういうことか?」
ナリファネルが腕を振り上げ、レニスは思わず目を閉じる。
ラナが悲鳴を上げた、その時だった。
『賢人ナリファネル。我ら精霊の蓄えを奪うこと、傷つけることは、どんな生物にも許されてはいない』
広場にいた全員が、その言葉を聞いた。
風が頭上を駆け抜けていく。レニスは遠く離れた上空に、草色の馬の姿を見た。
「邪魔をするな! 忌々しい駄馬めが!」
ナリファネルが声を荒げる。
「それ以上、人々に近づくな!」
若い男の声が広場に響く。
階段の上に現れたトゥヴァリの姿を見つけ、レニスは安堵した。
▪︎
「何だ、お前は?」
ナリファネルがトゥヴァリを睨む。
掲げると、アンズィルの牙が眩しく輝く。
「精霊王セレニアよ……もしどこかで見ているなら、この男の欲望を上回る、俺の願いを聞き届けてくれ!」
牙はいよいよ、掴んでいられないほどの熱さで手のひらを焼く。
「この男に、ペルシュの受けた以上の苦しみを……!」
両手でしっかりと握り締め、ナリファネルに向かって飛びかかる。
ナリファネルは驚いた顔をしていた。だが、トゥヴァリが牙を振り翳すのを見るや、笑い、腕を前に出した。腕を掴まれているハーヴァが、トゥヴァリの前に飛び出した。
「あ……っ!」
牙が、ハーヴァの肩から胸を通り、抜ける。
ハーヴァは足から崩れ落ち、ナリファネルの手を離れ階段に倒れ込む。
「何だ、それは?」
ハーヴァに気を取られた、その一瞬。
胸ぐらを引き寄せられ、腹に衝撃がめり込んだ。息が潰れる。足を踏み外し、牙を握ったまま、階段を転げ落ちる。
「トゥヴァリ!」
レニスが叫ぶ。
すぐに起き上がれずにいると、降りてきたナリファネルの足が、トゥヴァリの腕を踏みつけた。
腕が跳ね、裂けた掌から、アンズィルの牙がこぼれ落ちた。
「俺に……苦しみを願うだと?」
なおも、腕を踏みにじる。
「……っ」
抗っているのに、足を跳ね除けることができない。握りしめ続けていた手はガクガクと震え、力が入らなくなっていく。
段差の角に押し当てられ、腕が折られる――
しかしその時、ナリファネルの足が浮き、トゥヴァリから離れた。
レニスがナリファネルに掴みかかっていた。階段から引きずり下ろし、地面で揉み合っている。
すかさず、精霊がトゥヴァリの元へ飛んできた。
押さえつけようとするレニスを、ナリファネルが殴る。顔を殴られたレニスが仰け反る。
ナリファネルはさらにもう一撃、顔を殴りつけ、ふら付くレニスを蹴り倒した。
「力とは、振るい方を知らぬ者には災いしかもたらさない――だからこそ、手にする者は選ばれるのだ!」
ナリファネルが眼光を向けると、人々は悲鳴を上げ、逃げ惑った。
「はははは! 良いぞ! いい絵だ!」
ナリファネルは笑いながら、階段の下に落ちていたアンズィルの牙を拾い上げる。
牙は堅い手の平を、指先まで灼いた。
「ぐ……っ! 何だ、これは!」
ナリファネルが牙を取り落としたところへ、トゥヴァリが滑り込む。
アンズィルの牙がナリファネルの体を貫いた。
「お前はもう、賢人じゃない!」
「貴……様……っ!」
トゥヴァリはナリファネルの顔面に拳を叩きつける。足をふらつかせたところを蹴り倒す。ナリファネルの髪を掴み、地面に打ちつける。
ナリファネルがペルシュにしたように――それ以外に方法がわからない。暴力をトゥヴァリに教えたのは、この男だ。
――嫌な気分だ。
長い苦しみを与えたいと願った。
だが、もうこの男の顔を潰すのも、腹を踏みつけるのも、やっていたくない。
あの光景を思い出す。だからこそ、もう一度殴る。なのに、自分の姿がこの男に重なる。
拳に血が付き、吐き気がして、トゥヴァリはナリファネルから離れた。
アンズィルの牙は魔法を消滅させるだけで、ナリファネルを消してはくれない。
「もういい……こいつを食ってくれ……」
動かなくなったナリファネルを見下ろし、トゥヴァリは自分の精霊に頼む。それ以外に、人が死ぬ方法を知らない。
「トゥヴァリ!」
大階段の上から、アイピレイスが駆け降りてくる。折れた鼻から血を流すナリファネルを見やり、トゥヴァリに言った。
「……大丈夫か」
「……はい。でも……どうすればいいか、わからない……」
「ならば、捕えよう。……自身が作った、あの牢に」
しかし、アイピレイスは足を止めた。
「檻がないのだったな。魔法の……」
アイピレイスは振り返り、中腹に座り傍観していた子どもを見上げる。
「ルヨ、君は一体……。いつから宮殿にいて、いつからナリファネルに力を貸していた?」
「えっ……」
ルヨは驚いてアイピレイスを見る。
「なぜ、その姿のまま何十年も生きている? 賢人は五人……君は、何者なんだ」
「僕は関係ないよ」
「だが、これだけはわかっている。君は、ナリファネルの仲間だ」
アイピレイスの後ろで、トゥヴァリは再びアンズィルの牙を取った。痛みに顔が歪み、手が震える。
しかし、歯を食いしばり堪える。
全部、今、終わらせなければ――。
「い……いやだ!」
ルヨは怯えた顔で立ち上がり、階段を駆け上がった。
トゥヴァリが後を追う。
大階段を登りきり、宮殿の広場を逃げていく。
「僕はまだ、消えたくない! 近付かないで! 助けて、セレニア!」
と、精霊王の像に飛び込んだ。
それは、白ではなく――深淵の闇だった。




