16 アンズィルの牙
次に襲ってきたのは、怒りの感情だった。
ナリファネルに対する憎悪。トゥヴァリの世界に悍ましい出来事を持ち込んだ怒り――いや。
それは、トゥヴァリが知る前からこの世界にあった。トゥヴァリが世界を愛していたときでさえ。
ハーヴァへ抱く嫌悪感。あの微笑みも、謝罪の言葉も。騙されていた自分自身に対する怒り。
親がいないことも、いない親のことも、ずっと昔から恨んでいたのに。子どもの頃を思い出し、怒りはさらに増していく。
しかし、その怒りは足を止めるどころか、前へと進ませる力になった。体が熱を帯び、力が湧く。
セレニアはナランサの魔法で眠り続けていた。
彼女を苦しみから解放したい。
ただそれだけを願い、トゥヴァリは歩き続けた。
ついに、開けた場所に出た。
もうこれより登る道はない。そこでは吹雪は収まり、静寂が周囲を包む。この場所だけが時を止めているようだった。
薄青く半透明の大きな結晶が埋まっている。半分は地面に。半分は地上に出て、陽光を浴びている。
(中に何かがいる)
息を呑む。茶色い毛を持つ巨大な影が、結晶の中でうずくまっていた。背丈は自分の三倍もある。その圧倒的な存在感に、体が震えた。
『これでも小さく留めている。目覚めたらもっと大きい』
頭の中で響いたのは、ナランサの言葉だ。
「まさか……精霊王とあなたが封印した、狼犬の大精霊?」
『この犬は――』
ナランサは開けた場所の入り口に立ったまま、それ以上近づこうとはしない。
『この犬は、蛇や猿のように理性のない精霊とは違う。怒りと悲しみの性質を持った大精霊だ。その力は、セレニアを消滅させるため振るわれる』
「……それが、どうして俺の力になるんですか? 精霊王を滅ぼしたいなんて願ってないのに。あなたはセレニアの味方でしょう? どうして俺にその力を手に入れさせようとするんですか」
眠る少女を背にした草色の馬は、静かに答える。
『セレニアは、お前に人間の行く末を決めさせようとしている。たとえそれが消滅の道だとしても』
大精霊の言うことはトゥヴァリにはわからない。
しかし、迷いはしなかった。
(もう戻れはしない。あの、囲われた町には!)
トゥヴァリは水晶へ手を伸ばし、その冷たい表面に触れた。
《ーーーーーー》
結界の中の獣が伝えてくるのは、言葉ではなかった。
白い、白い光が視界を覆う。
《温かい日々。
草むらを駆けていく少女。
それを追う、小さな少年。
お母さんがご飯をくれる。肉に噛み付く。
ベッドでくつろぐ少女。横に寝そべる。
お父さんのスリッパを隠す。笑って撫でてくれる。
お父さんが、お母さんが、様子がおかしい。
温かくない、怖い。
少女は変わらず温かい。
少年は少女を守る。
少女のそばにいる。温かい。
お母さんが、いなくなった。
お父さんが、起きなくなった。
怖い。
少女も怖い。でもまだ少し、温かい。
一緒にいれば、怖くない。
守る。
静かな世界を、少女と歩く。
変なものが飛んできて、少女を食べた。
目の前で。あっけなく。
少女は殺された。
何もわからないままに。
そして、中身も姿も全く違うのに、奪い取った記憶を使って彼を呼ぶ。
『シュロ! これでずっと一緒に居られる!』》
これまでに感じたことがない程の、強い怒りと悲しみが湧き上がる。
赤い線が視界を埋め尽くしていく。
壊してしまいたい。もうすべてがどうでもいい。
その衝動は、すべてに向かう。
精霊に食われるために人が生きるあの町。
壁。閉ざされた宮殿。精霊。
それに甘んじて生きる人々!
そのうちに悲しみすらも怒りに変わり、ただ荒れ狂う感情だけがトゥヴァリの体の中にある。
「違う! 俺は……!」
様々な方向から加えられる、身を引き裂かれるような強い力に、形を失いそうになる。
頭を抱え、うずくまる。
《ーーーー》
何かが聞こえる。訴えるような声が、轟々と吹き荒れる感情の嵐の中に混じっていた。
(何を言ってる……?)
知りたい、識りたい。
その思いに駆られ、近づいてゆく。
嵐の中心で全てを引き起こしている、その感情。
(……これは……)
信じられなかった。
触れた瞬間、この痛みの中にあるものの正体を、言葉として理解した。
「なんだ。お前だって、まだ彼女を愛しているんじゃないか!」
その叫びは、嵐を止めた。
荒れ狂っていた力が線を描いている。その中心で、あの感情が精霊の光に似た輝きを放つ。
手を伸ばし、光を掴む。
止まっていた嵐の線が消え去り、頂は静けさを取り戻した。
トゥヴァリは氷づけの彼の前に立っていた。
その手には、腕の長さほどもある、白銀の鋭利な何かが握られていた。
『アンズィルの牙』
ナランサが言った。
『彼の中からその牙を一本、抜き取ったのだ』
「アンズィル? 名前は、シュロでしょう?」
『それは彼が飼い犬だった頃の名だ。精霊の名はアンズィル。彼も私も、すでに別物になっている。その性質と記憶を受け継いだだけの存在だ』
握る刃は、トゥヴァリの手のひらを切り裂いた。皮が剥がれて、肉が縮こまる。精霊が治そうとするが、血は止まらない。痛みを堪え、手放しはしなかった。足元の白い雪が赤く染まっていく。
『暖かい服を用意しておやり。
それを持つ限り、彼には私たちの魔法が効かない』
精霊はナランサに従い、トゥヴァリに厚手の、動物の毛を使った上着と靴を調えた。
「ありがとう」
ナランサは少女を優しく降ろし、同じように暖かい衣服を魔法で支度してやった。そして少女の額に、そっと鼻先をつける。
少女は目を覚ました。
黒いまつ毛を濡らし、涙が溢れ出す。瞳はトゥヴァリの向こうにある水晶を見つめている。
「私の罪は……」
とめどない涙に、言葉を詰まらせる。トゥヴァリはゆっくり、その前に跪いた。
「セレニア」
呼びかけると、セレニアがトゥヴァリを見た。泣いていた顔に、ふと驚きが浮かんだ。ようやく彼の存在に気付いたかのようだった。やがて、はじめて薄っすらと笑みを浮かべる。
「ごめんなさい……大事な人の命を奪って。どうか、罰を与えてください。あなたの願いは、私の願いです」
セレニアは、アンズィルの牙を見つめて言った。
「俺の願いは、あなたを傷つけることじゃない。もう、十分苦しんだ。あなたも、彼も」
そうしなければならないと、強く思った。牙に導かれるままに、それをセレニアの体に突き刺した。厚い上着を通り抜け、胸を貫く。
牙を引き抜くと、彼女は何の抵抗もなく倒れた。悲鳴も上げなかった。血は吹き出さず、地面は白いままだった。
しかし、代わりに――
黒い髪が、毛先から徐々に赤くなっていく。
肌は冷たい柱のような白から、温かみのある色へ。
唇も、鼻と目の形もまるで違っていく。
まったく別の存在に、彼女は変わってしまった。
「……な……なんで?」
呆然とする。手から牙を落とし、トゥヴァリは雪の上にへたり込んだ。
『アンズィルの牙は、セレニアの魔法を消滅させる』
「消滅……? 魔法が、解けたってこと? じゃあ、最初から……やっぱり、セレニアじゃなかったんだ!」
何度も思った。おかしいと思った。
なのに今まで、セレニアだと思い込んでいた。
丸い目がゆっくりと開く。
少女は起き上がって自分の体を見た。
肩から落ちる赤毛に触れた。
手のひらを、爪先を見て、首を傾げた。
こちらを見て、その目に鳶色の髪と瞳を映した。
「どうしてこんなことになったんだろう……。ねえ、トゥヴァリ」
記憶より少し低い声。
顔立ちも大人びていて、覚えている通りじゃなくても。
「どうして……、どうして……!」
雪の冷たさも痛みも忘れて手を伸ばし、力任せに抱きしめる。
少し苦しそうに漏らす白い息。
冷えた頬。
「ペルシュ……」
その腕は、弱々しくトゥヴァリを抱き返す。
トゥヴァリの涙がペルシュの首筋を伝った。




