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セレニアの物語  作者: さなか
第1章 アルソリオのトゥヴァリ

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16 アンズィルの牙

 次に襲ってきたのは、怒りの感情だった。


 ナリファネルに対する憎悪。トゥヴァリの世界に悍ましい出来事を持ち込んだ怒り――いや。

 それは、トゥヴァリが知る前からこの世界にあった。トゥヴァリが世界を愛していたときでさえ。


 ハーヴァへ抱く嫌悪感。あの微笑みも、謝罪の言葉も――騙されていた自分自身に対する怒り。

 親がいないことも、いない親のことも、ずっと昔から恨んでいたのに。子どもの頃を思い出し、怒りはさらに増していく。

 

 しかし、その怒りは足を止めるどころか、前へと進ませる力になった。体が熱を帯び、力が湧く。

 セレニアはナランサの魔法で眠り続けていた。

 彼女を苦しみから解放したい――。

 ただそれだけを願い、トゥヴァリは歩き続けた。

 

 ついに、開けた場所に出た。

 もうこれより登る道はない。そこでは吹雪は治まり、静寂が周囲を包む。この場所だけが時を止めているようだった。


 薄青く半透明の大きな結晶が埋まっている。半分は地面に。半分は地上に出て、陽光を浴びている。


(中に何かがいる)


 息を呑む。茶色い毛を持つ巨大な影が、結晶の中でうずくまっていた。背丈は自分の三倍もある。その圧倒的な存在感に、体が震えた。


『これでも小さく留めている。目覚めたらもっと大きい』


 頭の中で響いたのは、ナランサの言葉だ。


「まさか……精霊王とあなたが封印した、狼犬の大精霊?」


『この犬は――』


 ナランサは結晶の頂の入り口に立ったまま、それ以上近づこうとはしない。


『この犬は、蛇や猿のように理性のない失敗した精霊とは違う。怒りと悲しみの性質を持った大精霊だ。その力は、セレニアを消滅させるため振るわれる』


「……それが、どうして俺の力になるんですか? 精霊王を滅ぼしたいなんて願ってないのに。あなたはセレニアの味方でしょう? どうして俺にその力を手に入れさせようとするんですか」


 眠る少女を背にした草色の馬は、静かに答える。


『セレニアは、お前に人間の行く末を決めさせようとしている。たとえそれが消滅の道だとしても』


 大精霊の言うことはトゥヴァリにはわからない。

 しかし、迷いはしなかった。


(もう戻れはしない。あの、囲われた町には!)


 トゥヴァリは水晶へ手を伸ばし、その冷たい表面に触れた。


 《ーーーーーー》


 結界の中の獣が伝えてくるのは、言葉ではなかった。


 白い、白い光が視界を覆う。


 


 《温かい日々。

 

 草むらを駆けていく少女。


 それを追う、小さな少年。

 

 お母さんがご飯をくれる。肉に噛み付く。

 ベッドでくつろぐ少女。横に寝そべる。

 お父さんのスリッパを隠す。笑って撫でてくれる。


 お父さんが、お母さんが、様子がおかしい。

 温かくない、怖い。


 少女は変わらず温かい。

 少年は少女を守る。

 少女のそばにいる。温かい。


 お母さんが、いなくなった。


 お父さんが、起きなくなった。


 怖い。


 少女も怖い。でもまだ少し、温かい。

 一緒にいれば、怖くない。

 守る。

 静かな世界を、二人は歩く。



 変なものが飛んできて、少女を食べた。

 目の前で。あっけなく。

 

 少女は殺された。

 

 何もわからないままに。


 そして、中身も姿も全く違うのに、奪い取った記憶を使って彼を呼ぶ。


『シュロ! これでずっと一緒に居られる!』》



 


 これまでに感じたことがない程の、強い怒りと悲しみが沸き上がる。

 眼の中を赤い線が埋め尽くし、視界を染める。


 壊してしまいたい。もうすべてがどうでもいい。

 その衝動は、すべてに向かう。


 精霊に食われるために人が生きるあの町。

 壁。閉ざされた宮殿。精霊。

 それに甘んじて生きる人々――!


 そのうちに悲しみすらも怒りに変わり、ただ荒れ狂う感情だけがトゥヴァリの体の中にある。


「違う! 俺は――!」


 様々な方向から加えられる、身を引き裂かれるような強い力に、形を失いそうになる。

 頭を抱え、うずくまる。


 《ーーーー》


 何かが聞こえる。訴えるような声が、轟々と吹き荒れる感情の嵐の中に混じっていた。


(何を言ってる……?)

 

 知りたい、識りたい。

 その思いに駆られ、近づいてゆく。


 嵐の中心で全てを引き起こしている、その感情。


(……これは……)


 信じられなかった。

 触れた瞬間――この痛みの中にあるものの正体が、言葉として理解された瞬間に。


「……なんだ。お前だって、まだ彼女を愛しているんじゃないか!」


 その叫びは、嵐を止めた。

 荒れ狂っていた力が線を描いている。()()は中心で、精霊の光に似た輝きを放つ。

 手を伸ばし、光を掴む。


 止まっていた嵐の線が消え去り、静かな頂に戻る。

 トゥヴァリは氷づけの()の前に立っていた。

 その手には、白銀の、腕の長さほどある、鋭利な何かを持っている。


『アンズィルの牙』


 ナランサが言った。


『彼の中からその牙を一本、抜き取ったのだ』


「アンズィル? 名前は、シュロでしょう?」


『それは彼が飼い犬だった頃の名だ。精霊の名はアンズィル。

 彼もまた、私もそう、すでに別物になっている。その性質と記憶を受け継いだだけの存在だ』


 握る刃は、トゥヴァリの手のひらを切り裂いた。皮が剥がれて、肉が縮こまる。精霊が治そうとするが、血は止まらない。痛みを堪え、手放しはしなかった。足元の白い雪が赤く染まっていく。


『暖かい服を用意しておやり。

 それを持つ限り、彼には私たちの魔法が効かない』


 精霊はナランサに従い、トゥヴァリに厚手の、動物の毛を使った上着と靴を調えた。


「ありがとう」


 ナランサは、少女を優しく降ろし、同じように暖かい衣服を魔法で支度してやった。そして横たわる額にそっと、口づけをする。


 少女は目を覚ました。

 黒いまつ毛を濡らし、涙が溢れ出す。瞳はトゥヴァリの向こうにある水晶を見つめている。


「私の罪は……」


 とめどない涙に、言葉を詰まらせる。トゥヴァリはゆっくり、その前に跪いた。


「セレニア」


 セレニアがトゥヴァリを見た。泣き顔の途中で、ハッとするように、そこにトゥヴァリがいたと、ようやく気がついたかのように。

 はじめて薄っすらと笑みを浮かべる。


「ごめんなさい……大事な人の命を奪って。

 どうか、罰を与えてください。

 あなたの願いは……私の願いです」


 セレニアは、アンズィルの牙を見つめて言った。


「俺の願いは、あなたを傷つけることじゃない。……もう、十分苦しんだ。あなたも、彼も」

 

 そうするべきだと、わかった。牙に導かれるままに――一思いに、セレニアの体に突き刺す。厚い上着を通り抜け、胸を貫く。

 軽く、何の抵抗もなく彼女は倒れた。悲鳴も上げなかった。血は吹き出さず、地面は白いままだった。


 しかし、代わりに――


 黒い髪が、毛先から徐々に赤くなっていく。

 肌は冷たい柱のような白から、温かみのある色へ。

 唇も、鼻と目の形もまるで違っていく。

 

 まったく別の存在に、彼女は変わってしまった。


「……な……なんで?」


 呆然とする。手から牙を落とし、トゥヴァリは雪の上にへたり込んだ。


『アンズィルの牙は、セレニアの魔法を消滅させる』


「消滅……? 魔法が、解けたってこと? じゃあ、最初から……やっぱり、セレニアじゃなかったんだ!」


 何度も思った。おかしいと思った。

 なのに今まで、セレニアだと思い込んでいた。


 丸い目がゆっくりと開く。


 少女は起き上がって自分の体を見た。

 肩から落ちる赤毛に触れた。

 手のひらを、爪先を見て、首を傾げた。


 こちらを見て、その目に――鳶色の髪と瞳を映した。


「どうしてこんなことになったんだろう……ねえ、トゥヴァリ」


 記憶より少し低い声。

 顔立ちも大人びていて、覚えている通りじゃなくても。


「どうして……、どうして……っ!」


 雪の冷たさも痛みも忘れて手を伸ばし、力任せに抱きしめる。

 少し苦しそうに漏らす白い息。

 冷えた頬。


「ペルシュ……」

 

 その腕は、弱々しくトゥヴァリを抱き返す。

 トゥヴァリの涙がペルシュの首筋を伝った。

 

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