15 白い山
ぎゅむ、ぎゅむ、と音が鳴る。
白い地面はトゥヴァリが足をつくたびに柔らかく沈み込む。歩き始めは楽しいと思えたが、だんだん辛くなってくる。
『雪』
トゥヴァリが口に出す前に、ナランサは疑問に答える。
『水が形を変えたものだ』
「へえ、水なのか。どうして雪の時には白いんだろう」
空から舞ってきて腕についた雪は、じわりと溶けて透明になった。
「不思議だ」
『人間を寄りつかせないためにある』
《ーーーーーオオーー》
時々聞こえてくる声。恐ろしい気配には、トゥヴァリも気付いている。
「あれがいるから?」
『そうだ』
トゥヴァリは馬の背にいるセレニアを見た。白くくっきりした顎の筋に細い首。雪は黒い髪を避けていく。ナランサの草色の毛も、まったく濡れていなかった。
「どうして、俺を助けてくれるんですか」
『お前の声が聞こえたからだよ』
ナランサは穏やかに言葉を紡いだ。
『強く、揺るぎなく願わなければ、精霊に言葉は届かない。私はセレニアに与するものだ。お前がしようとすることを、見届ける役目を負ったのだ』
彼らはようやく、山のふもとまで来た。
数歩先からは、ひどく吹雪いている。見えない壁が吹雪と平穏な空を分けているかのようだった。
その中に一歩足を踏み入れた途端、トゥヴァリの目から涙があふれ出した。
ペルシュが死んだ――
たった一人の、トゥヴァリの大事な友達が、どこにもいない。
信じない。受け入れられない。その死に直面した瞬間であるかのように、ぼろぼろ、とめどなく涙が頬に落ちてくる。
あの時に戻ったわけじゃない。だから、知ってもいる。ペルシュは本当に死んでいて、もう会うことはできないと。
胸の痛みに耐えられず、トゥヴァリは雪に崩れ落ちた。両膝をつき、歯を食いしばる。歯の隙間から、慟哭が漏れる。落ちた涙は少し雪を溶かし、静かに凍りついた。
『ここはセレニアの結界とあれの力がぶつかり合い、激しい嵐になっている。様々な感情が渦となりお前を襲うだろう。進めるか?』
頭の中に響くナランサの言葉が、かき消えそうなトゥヴァリの思考を掴む。今いる場所を思い出し、トゥヴァリは立ち上がった。
「俺には力が必要です。それがなければアイピレイス様も、精霊王も救い出せない。あの声は……力をくれると言ってます」
鼻を啜り、涙を拭う。
前だけを見て、歩を進める。
道なき道だった。吹雪に視界を奪われ、足は雪に深く沈む。風が唸り、体を押し戻そうとする。
しかし、遠くからの呼び声ははっきりと聞こえた。その声に従うと、次の一歩を踏み出す場所は必ずあった。
やがて、前に岩肌が現れた。ぽっかりと横穴が開いている。中に入ると、吹雪を感じずに済んだ。
ナランサはセレニアを横たえ、四肢を折り曲げて寄り添った。
精霊が奥の方へ飛んでいき、赤く光った。
いや、これは宮殿の廊下で見た、橙の光だ。ぼんやりと明るく穴の中を照らしている。トゥヴァリは近付き、手を伸ばした。
「あ痛っ……!」
トゥヴァリは慌てて手を引っ込めた。手の平がじんじんと痛む。
『火に触れてはいけない。それはお前を焼き、服を燃やす』
「焼き?」
『皮膚が裂け肉が縮む』
手のひらを見ると、あちこち赤くなっていた。
見ている間に元に戻っていく。精霊がそばに浮いている。なんとなく、呆れられているように思えた。
火は離れたところから使うものらしい。
眺めていると、体が温まり服が乾いた。
「ずっと眠ったままだ」
よほど深い夢に囚われているのか、セレニアはまぶたひとつ動かさない。
静かだ。瞼も唇も閉じたまま。耳を澄ますと、息の音が聞こえる。わずかに上下する身体を見ていると、不思議な緊張が呼び起こされる。口が渇き、喉が鳴る。
なぜか見ていられなくなって、トゥヴァリはセレニアから離れた。
岩壁にもたれかかり、揺れ動く火を見つめる。
意識はゆっくりと沈み、影に引き込まれるように朦朧としていった。
狼の顔がこちらを睨む、白い両扉――。
『俺にも力があったらいいのに』
トゥヴァリは扉の隙間から、中を覗き見た。
ナリファネルはいない。
『あの男と同じくらいの力が……』
扉を開けて、中に入った。
赤い絨毯に投げ出された白い肢体。
近付き、それを――俺が、この手で。
(違う!)
自分の声が頭に響き、トゥヴァリは我に返った。呼吸は荒く、胸が大きく動いていた。
トゥヴァリの下で横たわるセレニアが、虚ろな瞳でこちらを見上げていた。トゥヴァリの両手は彼女の纏う服を掴んでいた。
「……どうして……?」
心臓が強く脈打っている。震えている手を開き、掴んでいた服を離した。
(どうして……どうして、逃げないんだ)
倒れているだけのセレニアに、小さな苛立ちが湧き上がる。それは渦を巻くように、どんどん大きくなっていった。
すると、セレニアがわずかに唇を動かした。
「私には罪があります」
トゥヴァリは右手を振り上げた。
セレニアの表情はぴくりとも変わらない。
(俺は、正しい人間だ……!)
骨ばって大きな男の手だ。華奢な少女の頬に振り下ろすようなものじゃない。
「ごめん……」
トゥヴァリはゆっくり手を降ろし、セレニアから離れた。辺りを見回すと、精霊もナランサもいなかった。ふと見ると、セレニアもいなかった。
「うう……」
入口の方から、苦しげな声が聞こえる。
いつの間に移動したのか。セレニアがしゃがみ込み、頭を抱えていた。
「どうしたんだ」
覚えていないうちに、もう何かしてしまったのか。不安に駆られたトゥヴァリが近寄ろうとすると、
「ううううう……いや……いやあああーーーっ!」
セレニアは突然、甲高い悲鳴を上げた。
「来ないで! 触らないで! あああーーー!!」
体を起こし、胸元を押さえながら、岩壁のそばへ後ずさった。顔は恐怖に歪み、歯を鳴らした。
(どうしたんだ。一体、どうすれば……)
トゥヴァリはセレニアから後ずさることしかできなかった。
(当然だ。俺に押さえつけられただけでも、恐ろしかったはずだ)
『彼女もまた、感情を呼び起こされている』
振り返ると、入り口にナランサが立っていた。
『安心しなさい。お前が試されている時、そこにあったのは幻。彼女が見ているのも幻だ』
「まぼろし……?」
『しかし、彼女は越えられないようだ』
ナランサはセレニアに歩み寄り、彼女の前にそっと身を横たえる。セレニアは気を失って、ナランサの背の上に倒れた。
トゥヴァリの荒い息遣いだけが洞窟に残った。
(さっきのは、幻……)
ほっとして、体の力が抜けた。震えたままの両手で、膝を抱える。
(……どうして……)
幻だろうが関係ない。この手が彼女の服を掴んでいなければ、この体で彼女を押さえつけたりしなければ良かったのに。
悲鳴が耳に残っていた。
(あれが彼女の本当の感情なんだ。あんな恐ろしいことが繰り返されていたのだから)
しばらくすると、セレニアの方から小さな寝息が聞こえた。
「……彼女は本当に……」
精霊王なのか?
そう、言いかける。
『何か?』
「いや……何でも……」
『ならば先に進もう』




