14 精霊の導き
彼女は何も言わなかったが、手を振りほどきもしなかった。引きずる足が絡まないように注意しながら、トゥヴァリは進んだ。
やがて目の前に、大きな黒い両扉が現れた。
取っ手の輪に触れる。瞬間、手のひらに鋭い痛みが走り、思わず手を引っ込めた。
「なんだ?」
精霊が飛んできて、トゥヴァリの手元を淡い光で照らした。暖かさに触れて、ようやく指先の感覚が戻ってくる。
手を握ったり開いたりして、動くことを確かめる。
今度はしっかりと取っ手を握りしめる。重たく軋む金属音を立てながら、扉はゆっくりと開いた。
目の前に広がったのは白銀の景色。建物も木々もなく、ただ一面の白。町で見慣れた白とは異なる、まぶしい輝きがそこにあった。
冷気が肌を刺し、体が縮こまる。
「外、なのか?」
危険がないか身構える。動く物はいない。
灰色の頂をもつ白い山がそびえている。
《オオ…………ン……》
トゥヴァリを呼ぶ声が、その山の方から響いていた。白い地面に一歩踏み出す。が、セレニアが小さく声を上げる。裸足のままでは、雪に足を踏み出せない。
トゥヴァリの足は、不思議と痛まなかった。
「お前がやってるのか? セレニアにも魔法を使ってくれればいいのに」
足元にいる精霊に向かって言った。
――その時。
『おやおや、こんなところまで来て』
頭の中で、言葉が形を取って浮かび上がる。
トゥヴァリが顔を上げると、目の前に一頭の馬が立っていた。風に靡く鬣は草原の色を映し、光を帯びて揺れている。
「あなたは……!」
『また脱走しようとしているのか。大したものだ』
馬の口は動かない。ただ、潤んだ瞳がまっすぐトゥヴァリを見返している。
「あなたは、大精霊ですか?」
『私はナランサ』
馬は首をもたげ、遠くの山を示した。
『お前はあれに呼ばれている。私も共に行こう。彼女を、私の背に乗せなさい』
ナランサは、セレニアの前に立ち止まる。
トゥヴァリは驚いた。セレニアが、自ら鬣に手を伸ばした。トゥヴァリが手を貸すと、セレニアはナランサの背によじ登った。草色の毛に指を沈め、顔を埋めて安らぐように目を閉じた。
▪︎
レニスは困っていた。
テーブルの向かいには、ラナが座っている。色黒で黒髪、大きな目が可愛らしい。何日か前に、精霊の導きで出会った。
知らない相手だったが、すぐに気に入った。二人の新しい家もだ。だが、今日はラナの元気がない。
「明日、若い女は宮殿に行かなければならないんですって。さっき、宮殿から来た子どもに言われたの。何をしにいくの? 私たちもあんなふうにされるのかしら」
王と名乗ったナリファネルは、賢人の一人らしい。本を読める人がそう言っていた。
「ナリファネル様は、精霊王から俺たちを助けるって言ったよな。だからああしたんじゃないのか?」
「私は精霊が人を食べることより、あの人の方が怖いわ……」
大階段から突き落とされて転がり落ちてくるのが、ラナだったら――。
何かが起きてからでは遅い。
「わかった、ラナ。宮殿へは行くな。ラナが酷い目に遭うのは、俺も嫌だ。何をしてでもお前を守る」
「まあ、レニス」
レニスが手を取ると、ラナは顔を赤らめた。
次の朝、レニスは西地区の広場に若い男たちを集めた。
「ナリファネル様の言っていたことが真実かはわからない。でも、女を宮殿には行かせられない。なぜ女を集めるのか、聞きに行こうと思う」
若い男たちはレニスに同意した。みんな、昨日のナリファネルの所業に怯えている。
朝食の後、女たちを林に隠して、北地区の広場へ向かった。そこには、他の地区の若い女が集まっていた。
人々がざわつき始めた頃、階段の上に子どもが姿を現した。六歳くらいの小さい子どもだ。
「君たち、数が足りないなあ。全然言うことを聞いてないじゃないか。困るよ、そんなことじゃ」
うーん、と子どもは首を傾げた。
その時、後方から声がした。
「お待ちください! これで全員です!」
振り返ると、ミスラが立っていた。その後ろには、林に隠したはずの西地区の女たちが並んでいる。
「ラナ!」
駆け寄ると、ラナは悲しそうな顔でレニスの胸に抱きついた。
「レニス、もう大人なのだから、悪戯をするのはやめなさい」
「ミスラおばさん」
「ナリファネル様に従いなさい。この町を変えるためには、人間の王が必要なのよ」
「階段から女性を突き落とすような男を、必要だとは思えない」
レニスはラナを背にかばい、一歩も引かなかった。
「ペルシュは精霊に食われたのよ? レニス、あなたはあんなに泣いてくれたのに。新しい家族が出来たら忘れてしまったのね」
ミスラは、レニスがいくらペルシュのことを言いつけても、こんな怖い顔をしたことはなかった。ペルシュはよくこんな顔で、レニスに突っかかってきた。
「ペルシュが死んだのは、精霊王のせいじゃない。俺のせいだ」
レニスは真っ直ぐにミスラの目を見た。
「あれは喧嘩の罰だったんだよ。俺が罰を受けなきゃいけなかったのに、誤解でペルシュが選ばれた。あの時、トゥヴァリが怪我をしたのは俺が原因だったのに。今まで謝れなくて、ごめん」
ミスラの前に深く頭を下げた。
殴ってくれれば良いと思った。そうすればきっと、少しは楽になる。
しかし、
「精霊が人を食べる話とは関係がないわ」
と、ミスラは言った。
「私はね、レニス。私の娘のように、精霊が決まりを破って子どもを食べるようなことが二度と起こらないようにしたいの。そのためには人間の王に代わったほうがいいわ。あの方は恐ろしいけれど、それが精霊王に勝てる力だというならば仕方がないと思ったの」
ミスラの周囲で何人かが頷く。
レニスの頭の中で、ミスラの言葉が繰り返される。
(仕方ない……そうかもしれない。人間の王に代わった方が、いいのかも……)
「それで私たちがどうなってもいいと言うの!?」
泣き叫ぶような声で、レニスはハッと我に返った。
ミスラの娘ミルシュカだった。若い女は、みんなミスラに抗議した。
「まだ何が起こるかもわかっていないのに、あなたたちはわがままだわ」
ミスラも前に出て言い返す。
(何か変だ。みんな……仕方ない……人間の王……これは、誰の声なんだ……!)
「ん? ああ、君たち、ちょっと待っててくれるかい? ナリファネルが僕を呼んでる」
黙ってやり取りを見ていた子どもが再び口を開き、言い争っていた人々は、そちらに目を向けた。
「セレニアがいないって、ずいぶんご立腹だ。大変なことになりそうだなぁ」
広場はしんと、静まった。
誰もが、何か良くないことが起こると感じていた。




