18 精霊王セレニア
それは、あどけない顔立ちをしながらも、悠久の時を経た賢知を湛えていた。
それは、長い睫毛に高い鼻を持ち、肌は光を透かして水面のように輝いていた。
それは、漆黒の夜空の色をまとい、無数の星々を瞬かせていた。一本は流れる細い糸であり、一掬いは落ちる水の滴であり、全体は彼女の背に広がる宇宙そのものだった。
それは、小さな子をあやす母のようでもあった。
『ただいま』
その声は、頭の中に青銅の鐘のように深く響き、胸の奥に波のようにさざめいた。けれど同時に、愛らしい幼い少女の声でもあった。
「精霊王……セレニア……」
空の全てかのように大きくもあり、小さな少女でもある。
人間には到底及ばぬ存在。
だが、牙がトゥヴァリを歩かせる。
『それって――』
セレニアが、黒い焔の揺らめく瞳を細めた。トゥヴァリが牙を振りかぶり、自分に迫るのを、ただ見つめる。
次の瞬間、アンズィルの牙はスルリと手から抜け落ち、軽い音を立てて地面に転がった。
トゥヴァリの全身から力が抜け、がくりと両膝をついた。
『牙一本では、私に歯向かうことはできないよ、アンズィル』
牙は鎮まり、唸る声が消えている。手の傷も、一瞬で元通りになった。
『眠るアンズィルと呼応するほどの怒りや悲しみ――何があったのかな。おいで、ルヨ』
ルヨは精霊の球のような光を体にきらめかせ、消えた。
セレニアはその光を呑み込み、軽くため息をつく。その一息すら、尊い言葉のようにトゥヴァリの胸に響いた。
『わかりました。トゥヴァリさんの願いを、すべて叶えましょう』
宣言は唐突だった。
セレニアは、慈愛の眼差しでトゥヴァリを見つめている。
「あの……」
『ルヨは、私の一部です。私が離れている間、精霊を従わせ、賢人の願いを叶えるために。人間の真似をする性質を持っています』
トゥヴァリが疑問を口にする前に、セレニアは答えた。
『今は私の中に戻っています。だから、すべての状況を理解しています』
「俺の願いを、叶えてくれるんですか?」
『もちろん。問題があるなら解決しなくては。そのためにあなたは選ばれ、勝利した』
セレニアは、両の腕を広げて町を見下ろした。下にいる人々の誰もが。その姿を見た瞬間、彼女が人の大精霊、アルソリオの精霊王セレニアであることを思い出し、あるいは一目見て知った。
アイピレイスはひざまずく。
『アイピレイスさん、自分を責めないでください。ルヨが私の身代わりを作ったのですから、人間には私だとしか思えなかったのです』
涙ぐむアイピレイスは、小さく震える声で尋ねた。
「一体、今までどこに?」
セレニアは少しはにかみながら答えた。
『すみません。向こう側が気になって。すごいんですよ、アイピレイスさん。向こうは、すべてが……でも、このお話は後でしましょうね』
「くそ……くそぉおおおっ!」
皆が振り向いた。ナリファネルの咆哮――セレニアを前に、動くことも出来ないでいる。それでも、緑色の瞳には強い憎しみが宿り、セレニアを睨み付けている。
「お前は俺の願いだけを叶えていろ! 謝れ! ひれ伏せ! 俺が王だ……俺が!」
『ナリファネルさん、前にも言いましたよね? あなただけの願いを叶えることはできません。人の願いはみんな絡まっていて、とても複雑ですから。叶えられないことの方が多くて、申し訳ないです。ルヨの誤魔化しは、あんまり良くなかったですね』
「虚仮にしやがって……! なんでこんなガキに力が与えられたんだ……っ!」
『与えられたのではなく、私の性質なんです。何度も説明しているのに』
ナリファネルは静かになった。いや、ぶつぶつと、小さな声で呟き続けている。
「俺をあいつと同じようにしろ……俺を食え……あいつと同じ力を、俺に寄越せ……!」
その体に引き寄せられるように、ふらふらと近づいていったのは、小さな光の球だった。光は一瞬、赤く眩しい閃光を放った。
『いけません!』
ナリファネルは身体中から劈くような悲鳴を上げ、ぼこぼこと膨らみながら崩れていく。肉体を失い、水のように光を透過する。
「贋作……この世界は、贋作だ!』
足の裏が空を覆い、宮殿を踏み潰す。ガラガラと崩壊の音が響く。町全体が、地響きに揺れる。
『ナリファネルさんと私で作った宮殿、みんな気に入っていましたよ。嫌いになってしまったんですね』
セレニアは一歩も動かず、彼を見上げていた。
精霊と化したナリファネルを見上げるトゥヴァリには、さっきまで高潔に見えたセレニアが、急にとても弱々しい少女のように映った。
影が覆う。トゥヴァリとセレニアの周りは、夜のように真っ暗になった。どんなに慌てても、逃げられる距離ではない。
「トゥヴァリ!」
遠くから見つめる、ペルシュが叫ぶ。
町の人々の顔が苦しみに歪んだ。精霊となったナリファネルの恨みや憎しみが、頭の中で鳴り響いている。
『あなたが人間だから、願いを叶えられたんです。精霊になって、しかも暴走するなんて。消滅させるしかないじゃないですか』
静かなさざめきがその苦しみを和らげる。それから右手を掲げ、空気を握りつぶすようにした。
水のように流動していた巨大なナリファネルの体が、一瞬で石化する。
そして、あっけなく砕け散り――降り注ぐ塵すらも、風に流され見えなくなった。
「トゥヴァリー!」
空を駆け、ナランサが宮殿の広場に降りる。
地面に降りるより早くペルシュが背から降りようとするのを見て、トゥヴァリが手を差し出した。
骨ばった手を取ろうとして、一瞬、ためらう。
「あの恐ろしい人に、勝ったんだね……」
ナランサにしがみついたまま、丸い目を潤ませる。
『さあ。トゥヴァリさんの願いはすべて叶える約束ですから、ペルシュさんに起こったことを、すべてなかったことにしましょうね』
セレニアは二人を見つめ、微笑む。
それは、屈託のない幼い少女のようだった。世界が楽しいことばかりだと、自分の力でなんとかなるはずだと、無垢に信じているあの日の自分自身だった。
「すべて……ですか?」
『はい!』
「でも……」
ペルシュは戸惑い、視線をトゥヴァリに向ける。優しく笑みを返す彼の表情に、胸が詰まる。
「忘れない方がいいと思います……。あの酷い辛さから、トゥヴァリが助けてくれたことは、今の私には、とても大切なんです」
自身を諭すように、諦めさせるように、胸を抑える拳を強く握り、自分の言葉を噛み締める。
セレニアは小さく首を傾げ、呆れたように言った。
『人間って、不思議ですね。本心と口にする言葉が違う。その体ではトゥヴァリさんと幸せになれないって、ペルシュさんはさっきから、泣いているじゃないですか』
セレニアは小さく首を傾げ、呆れたように言った。
トゥヴァリの手が――男性の手が近づくたび、気持ちに反してペルシュの体は小さく震える。
輪郭、喉骨、広い肩幅。視界に入るたび、愛おしさの隙間から恐ろしい記憶が静かに這い出してくる。
セレニアはそれらをすべて見通していた。まだ予感でしかなかった苦しみが、やがて現実になることを、彼女は既に知っているのだ。
「ううう……」
『できるなら、なかった事にしてしまいたい。二人の願いは同じです。トゥヴァリさんは、ペルシュさんが幸せに生きられるように。ペルシュさんは、トゥヴァリさんと幸せに生きるために。同じ方向へ流れ、遮るもののない強い意志。私は叶えてさしあげることができます』
ペルシュの目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
思考に言葉が染みてゆく。真っ白な光に包まれる――そのとき、今この瞬間まで想像もしなかった光景が、頭の中で閃いた。
それは、あまりにも幸せな夢。
今のペルシュには望んでいることすら気付けなかった、真の願いだった。
『ルヨはトヴァさんを死なせてしまいました。もう救えません。生きているペルシュさんだけでも救いたいです』
ペルシュはうなずく。
精霊王に、導かれて。
▪︎
少しの間――アルソリオの町は、時が止まったように静かだった。人間も、精霊も。
草原の色をした馬も。
混沌に溶けた海も。
空の遥か向こうにいる、巨大な翼も。
白い山に眠る、狼も。
しばらくして人々は、北の広場に集まっていることに気がついた。
『悪王ナリファネルは消滅しました。もう、大丈夫ですよ』
精霊王の言葉で、記憶が蘇る。
ここで確かに恐ろしいことが起き、大階段に立つあの青年――トゥヴァリが、みなを救ったのだと。




