11 賢人の檻
病院の廊下の窓に薄く映る自分の姿。
颯爽と歩きながら横目で確認し、「素敵よ」と心の中で賛辞を送る。
人を救いたいという夢を叶えた女性。努力が報われた人生。美人と持て囃されるほどではないけれど、自信と活力に満ちている。
スマートウォッチにメッセージの着信。娘と夫の画像が表示される。
――廊下の窓に、自分の姿が薄く映る。
大嫌いな、無力な女。次々と命が失われていくのを見ていることしかできない。夫も娘も守れなかった。二人は数多くの死体と変わらない姿で横たわっていた。
「やあ。最近の君の姿は、どうも見慣れないね」
ルヨがハーヴァに声をかけた。いつものことだが、いつからいたのかわからない。
「今日で終わり。やっとよ」
ハーヴァは髪をほどき、襟付きのシャツのボタンを外して胸元を大きく開けた。髪をかきあげ、口元を歪ませる。
「ああ、肩が凝った。意味のわからないことに付き合わされて。あいつ、全部忘れてるわけ?」
ちらりと窓を見る。あの女とは正反対の、品のない女性。多くの男を誘い、たくさん子を産んだ。
「君は、アイピレイスに好意があるのかと思ってた」
ルヨが言うと、ハーヴァは「アッハハ!」と噴き出して、手を口元に当てた。
「やめてよ! 好みじゃないもの」
「じゃあ、彼に会う時に服を変えたがるのは何故?」
「あんなのに欲情されたら最悪じゃない」
「ふうん。君たちのことはいつまで経っても理解できないな」
ルヨは深い溜息をついた。
「それより、ねぇ、結局何だったと思う? 精霊に生気を吸われても人間が死なないことがわかったんですって!」
「ふうん?」
「私の息子が! 死ぬ思いをして! あー、おっかしい!」
ハーヴァは溜めこんでいたものを吐き出すように、天井を見上げてけたたましく笑った。
笑い終えると、目に滲んだ涙を指で拭った。
「そんなの、とっくにわかってるのに……一ヶ月も付き合ってあげたのよ。女優でしょ? 毎日、退屈なんだもの。たまには誰かをからかったっていいじゃない」
「君がそんなふうになったのは、いつからだったかな? 百年くらい? 人間は、長生きが向いてないのかもしれないね」
「あら、それって、あなたじゃなくて?」
ハーヴァが振り向いた時、既にルヨの姿はなかった。
▪︎
トゥヴァリが町に出ると、後ろに精霊がついてくる。あの実験をして以来、同じ精霊がずっとトゥヴァリのそばにいる。
歩きながら、何度も、母の顔を思い出した。胸の奥がくすぐったくなり、口元が緩んでしまう。「目と唇の形が似ている」とアイピレイスは言った。
ルディは親なしではなかった。一人で暮らしていたのには、ちゃんと理由があったのだ。
(俺もみんなと同じように母さんから生まれたんだ。俺を心配していてくれた)
こうしている今も、宮殿からトゥヴァリを見ているかもしれない。そう思うと、背筋が伸びる。
(ハーヴァの息子のトゥヴァリ……)
ハーヴァがどんな人かをアイピレイスに聞くと、「うーん、彼女は賢くて、勇敢だ」と言った。
「この国で最初に子を産んだ。自己犠牲の精神を持ち、人類の叡智を遺すために生き続けるべき存在だった。
アルソリオが作られた時、生き残っていたすべての者の中で、真に価値があった人間は、オーウェンとハーヴァ、そしてロースウェイだ」
「オーウェン様も宮殿にいらっしゃるのですよね。お会いしてみたいな」
「いや、彼は宮殿を出て行った」
アイピレイスの瞳には、長い年月の孤独と悲しみが滲んでいた。
「彼は五十年も経たないうちに宮殿を去った。今、どこにいるのかもわからない。ハーヴァが二人目の夫に選んだ男だったが、ハーヴァと息子を残して去ってしまった」
(俺の父親は、いったい誰なんだろう……)
考えはするものの、どうでもいいことでもあった。
トゥヴァリにはアイピレイスがいる。
だから、あの時間――ハーヴァとアイピレイスと共に過ごした日々、あれが「家族」なんだと、そう思った。
精霊がトゥヴァリの顔のそばに来た。
「なんだ、機嫌が良いな?」
トゥヴァリが泣いていた日は、元気がなく地面の近くを飛んでいた。トゥヴァリが嬉しい時は、こうしてそばに寄ってくる。
ひと月前のあの日以来、トゥヴァリも精霊の考えていることがわかるような気がした。
「……よお」
意外な人物に声をかけられ、トゥヴァリは思わず目を見張る。
「おはよう、レニス」
トゥヴァリも気まずく挨拶した。
あの日、林で殴られた後、ハーヴァから聞いた話を説明すると、「もう謝らなくていい」と言って、レニスは帰っていった。
何か話したい。そう思ったが、謝る以外にレニスにかける言葉が思い浮かばない。
二人ともそれ以上は何も言わずに、すれ違い、別れた。
(レニスが北地区にいるなんて珍しいな)
トゥヴァリは広場にいた人に挨拶をした。話しているうちに、だんだん人が増えてくる。
誰かが子どもを産んだらしい。大きくなっていた腹が元に戻ったそうだ。二年くらい経ったら精霊が家族のところに連れてくる。
「次はエサムの親だろう。もうそろそろじゃないか……」
順番の話を聞くと、気分が落ち込む。
アイピレイスは、自分が何とかすると言っていた。「まだ人々には話さないでくれ」と。しかし、その間にも順番は回っている。誰かが死んでしまうということだ。悠長に待っている暇はない。
▪︎
赤い帽子に赤い服、とんがった靴も赤。
賢人アイピレイスの姿が鏡に映っている。
子どもの頃は記憶力が良く、賢いだの天才だのと呼ばれていた。
毎日、シャツに灰色のベストを着て、決められた仕事をこなしていた。物覚えだけはいいと同僚に揶揄われても、言い返せない臆病な男だった。
アイピレイスは大きく息を吐き、部屋を出た。
覚えていたことは、少しばかり役に立った。人間が必要とする物の作り方と材料。社会を持続させるのに必要な法律や仕組み。
それを差し出し、精霊王に傅いた。
彼はハーヴァのように、世界を元に戻すことを願わなかった。
ナリファネルのように、精霊の罪を問うことも。
ロースウェイのように、精霊を解明することも。
オーウェンのように、精霊の支配から逃れることも。
玉座の間の前に立つ。
狼の頭が彫られた取っ手を握る。
絶望の淵から自分を救い上げた創世の光景が目に浮かんだ。
宮殿に足を踏み入れると、廊下の白い床に真っ赤な絨毯が敷かれていた。はじめ、他の色はなかった。賢人たちが望むまで、この宮殿には白と赤しかなかった。
精霊の光の種類と同じ色――セレニアはその二色を好むのだろう。
この玉座の間において、かつて彼が願ったのは、永久に精霊王セレニアに仕えることだった。
唯一絶対の白き王に忠誠を誓い、彼は赤き賢人となることを決めた。
(この部屋も、宮殿も、ナリファネルに奪われてしまったのだろうか?)
アイピレイスはナリファネルが苦手だ。道徳的な考えを持たず、自分を律することもできない。
アイピレイスのような人間は、嫌いな相手にわざわざぶつかったりはしない。避けて、関わらない。
それは文明社会では通用していた賢い生き方だったはずだ。
(トゥヴァリに約束しただろう!)
己を奮い立たせ、取っ手を引く。
酒の匂いがアイピレイスを出迎える。
ナリファネルは、玉座の肘掛けに足を乗せている。アイピレイスを見ると、目を細め乾いた声で笑った。
「これは、賢人アイピレイス殿。何か用かね?」
「……王はどこにいる?」
「ふん、またそれか。貴様は王という言葉の意味を知らんようだな」
ナリファネルはサイドテーブルに転がっていたワインの瓶を手に取り、椅子から立ち上がった。
アイピレイスが身構えたその時、再び部屋の扉が開いた。軽やかな足音を響かせながら、ルヨが入ってきた。
「いいや、ナリファネル。そこが精霊王セレニアの座るところだというのは、彼の勘違いじゃないよ」
瓶を手にしたナリファネルにも、平気な顔で話しかける。
「ねえ、セレニア」
ルヨは後ろを振り返った。扉の前に少女が立っていた。
アイピレイスは目を見開いた。
その名を呼ぼうとして、アイピレイスは口を開いた。しかし、何か引っかかる。
(これが、精霊王セレニアだっただろうか? こんな……弱々しい少女が?)
十八、九に見える少女は、細い足を引きずるように歩いてきた。
(しかし、セレニアに違いない)
アイピレイスは跪いた。
ナリファネルは舌打ちをして、玉座の脇へ退いた。
セレニアが玉座を背にして立つ。
「アイピレイス。何か願いがありますか?」
セレニアは落ち着いた声で、かつてと同じようにアイピレイスに問う。
アイピレイスはさらに深く首を垂れた。
「精霊王、どうかお聞きください。精霊は生まれて四十年を過ぎた人間を食餌とし、生気を保っています。私は、それが仕方のないことだと考えてきました。ですが……」
セレニアは表情を動かさず、黙って聞いている。
「生気を吸われても、人間が生き延びられるとわかったのです。殺すほど生気を吸わないように精霊たちにご命令ください。どうか、人間に寿命の限り生きる権利を」
「却下だ」
酒でしゃがれた声が答える。
「外にいるのは精霊の餌だ。あんなものを人間と呼ぶな」
「君ではなく、精霊王に願っているんだ!」
アイピレイスは怒りのあまり、思わず立ち上がる。
「セレニアは、人の数を増やすためにアルソリオを作った! 三百年でここまで人口が増えた! 人間は、もう自由になっていいんだ!」
「賢人アイピレイスよ。本当に、人間に自由が必要だと思うのか? 死因はいくらでもあったはずだ。病気、事故、戦争、災害、飢餓……精霊が、四十年から先の人生と共に人間から奪っているものだ」
「それは……それは、これから考えていくことだ。以前の世界と同じものを作る必要はない。精霊王セレニアという絶対的な神の元で、再び文明を始めればいい!」
「熱心な崇拝者だな。だが、悪魔を神と崇める邪教だ。忘れたのか、死の世界を。我々賢人が餌を管理してようやく抜け出した地獄を!」
ナリファネルはアイピレイスに鼻先が付くほどに近付いた。アイピレイスは酒臭い呼気に息を止め、褐色の瞳を睨み返した。
「……そうか、数が増えたか。なら、俺が奴らの王として君臨するのにいい頃合いだ」
「なんだって?」
「どうせ精霊に食われるだけの奴らだ。俺の役に立ってから餌にしたほうが有用だろう」
ナリファネルはつまらなそうに笑い、アイピレイスに背を向けた。
「お前が賢人になった所以は、記憶力だったかな? 三百年でその能力は失われてしまったようだ。もう賢人である資格はないな」
ナリファネルは玉座へ戻り、「あいつを投獄しろ」とセレニアに言った。
「なっ……」
「アイピレイスを投獄します」
セレニアは表情一つ変えぬまま、ナリファネルの言葉を繰り返す。
「セレニア、待ってくれ! もっと私の話を……!」
アイピレイスはセレニアにすがろうとしたが、足が前に進まない。いや、それどころか、後ろに下がっている。アイピレイスの体が勝手にこの部屋を出ようとしている。
ルヨが両扉を開けた。
「ようやく、目障りな奴を処分できたな。そこをどけ!」
ナリファネルはセレニアを乱暴に退かし、玉座に座った。
宮殿の奥に地下への階段があった。アイピレイスも昔は来た事がある。地下には、北の地に繋がっている裏口があるだけだったはずだ。
自らの足が意志に反して歩き、暗い廊下をいくつか曲がる。アイピレイスの知らない場所で立ち止まった。
真っ暗で静かな広い部屋。微かに流れる空気から、鉄の匂いがした。
アイピレイスの足が再び歩きだす。壁の蝋燭に火が灯った。鉄格子が並んでいる。
「牢……こんな物が?」
「ナリファネルが用意したのさ」
「ルヨはナリファネルと同じ考えなのか?」
アイピレイスの体が勝手に牢の中に入る。ルヨが鉄格子の扉を閉めた。
「このまま、もう少し観察していることにするよ」
声はあどけなく、冷ややかだった。
「君はナリファネルに対抗できる力ではないみたいだからね。しばらく退場しているのも、いいんじゃないかな」




