12 悪王ナリファネル
毎日のように町へ現れていたアイピレイスの姿がぱたりと見えなくなって、七日が過ぎた。
いつも傍にいる精霊が、トゥヴァリを追い立てるように動く。
(もしかして、アイピレイス様に何かあったんじゃ……)
そんな考えがよぎるたび、精霊は答えを肯定するようにチカチカと瞬いた。
(アイピレイス様は、精霊王に伝えたのかな。人が死ななくてもいい方法があるって……)
精霊が再び瞬く。
「……わかった。宮殿へ行ってみよう」
子どもたちが広場からいなくなる食事の時間を狙って、こっそり階段を登る。見つかってついて来られでもしたら困るからだ。
精霊がふわりと瑠璃色の扉へ飛んでいく。
あの扉は魔法で閉ざされている。賢人か、あるいは精霊王に招かれた者でなければ開かない。
トゥヴァリは扉に手を当てた。
びくりとも動かない。ふう、と一息吐く。
(諦めてどうする。入らなきゃならないのに)
あの時ペルシュが扉を開けられたのは、精霊王に招かれたからだったのだ。
(精霊王セレニア……どこかで見てるんだろ。アイピレイス様に会わせてくれ……!)
心の中で強く願い、もう一度扉に触れる。すると、扉はあっさり動いた。
つい唖然とするトゥヴァリの脇を、精霊がすり抜ける。チカチカと呼びかける光を、慌てて追いかけ、段差で足を踏み外しそうになった。
(そうだ……こうなってたんだ……)
明るい外から入ったせいで、最初は室内がとても暗く感じられた。徐々に目が慣れてくる感覚――とても懐かしい。
「トゥヴァリ! あれを見て!」
赤毛の少女が駆けていく。
声と姿は、一瞬で消えた。
精霊が真っ直ぐ、上に飛んでいく。光を追って、階段を上る。あの時ここは通らなかった。
目の前に、黒い扉が現れた。「5」という数字が浮き出ている。その下に、とても小さな丸い穴が一つ空いている。
金色の取っ手を掴み、重みを感じながら扉を開く。精霊が先に入り、部屋の中を照らし軽やかに飛び回った。
「ここがアイピレイス様の部屋……?」
広くもない、物も少ない部屋だった。トゥヴァリたちの家と大して変わらない。
部屋の中にある扉を開けると、赤い服や帽子が並んでいた。アイピレイスの部屋なのは、間違いない。
(部屋にはいない……町にもいない……じゃあ、どこに?)
部屋を出ようとするトゥヴァリの視界を、精霊が塞いだ。出るなと言っているようだった。音を立てないよう細い隙間を開け、廊下を覗く。
誰かが歩いてくる。胸や脚のはだけた服の上に熊の毛のような服を羽織って、金色の髪を揺らしている。
(似てるけど……違うよな……?)
その女が通り過ぎるのを待ってから、ひっそりと外に出た。
精霊を追って、廊下を進む。まったく見覚えのない廊下に着いた。
陽の当たらない壁に掛けられている、狼犬と精霊王の戦いを描いた大きな絵。
その奥に進むと、薄暗い窓のない廊下があった。壁に、赤い精霊がいる。驚いて顔を引っ込め、恐る恐る覗き込む。よく見ると、赤い精霊とは少し違う、夕陽のような橙だった。揺らめいているが、漂わない。
トゥヴァリはそろそろと光に近付く。光は四つ、壁に並んで揺れている。手を伸ばすと、白い棒の上にある赤か橙の光が揺れる。しかし、触れる前に不思議な痛みを感じて手を引っ込めた。
精霊がきて、指先に残ったじりじりと痛みを消してくれた。
ぺたり、ぺたり、と足音に気づいたのは、その音がもう真後ろを過ぎようとしている時だった。
トゥヴァリは壁に背中を張り付かせ、固まった。身動きせずに息を殺す。
真っ白な肌をした少女だった。
ぺたり、ぺたり、
気怠そうに、重い足の裏を床から剥がすようにして歩いていく。
輝く黒い髪が、白い服の上に揺れている。
(精霊王……だろうか?)
そう思ったのは、その顔立ちが精霊王の像に似ていたからだ。あの像はもっと幼いけれど。
少女が十分先へ進んでから、後を追う。
ぺたり、ぺたり。角を曲がり、大きな白い扉の前で止まった。
「!」
廊下の角から見ていたトゥヴァリは、咄嗟に身を引いた。彼女が突然、白い服を床に落としたからだ。
(なぜ、なんで、こんなところで!?)
心臓がばくばくと音を立てる。頭の中はぐちゃぐちゃだ。精霊は飛び回る。トゥヴァリを咎めているように思えた。
少女が中に入り、扉が閉まる。トゥヴァリは自分を落ち着かせ、慎重に床に踏み出した。落ちている白い服を避けて、その扉の前に歩み寄った。
白に金色の模様が入った、豪奢な両扉。それぞれの取っ手の部分は狼犬の顔になっている。分厚そうな扉なのに、微かに声が漏れ聞こえている。狼犬の目の一つに穴が開いていることに気付いた。
床に突っ伏した白い背中。少し高いところに置いてある肘掛け椅子。そこに座っている人の足。
「私は謝罪します。人々を傷つけ、尊い命を奪いました。
私は贖罪します。過ちを繰り返さぬよう、貴方の手を借りて罰を受けます。
私は精霊王セレニアです。貴方の願いをすべて叶えます」
男が立ち上がる――
セレニアが一度だけびくりと体を震わせた。
乱暴に揺さぶられ、壁に、扉に叩きつけられる。
細い腕や足が、パキンと枝のように曲がる。
音がするたび、白い肌が赤く染まっていく。
抵抗も逃げ出しもしない。それが始まると、もう怯えもしなかった。
トゥヴァリの中に、熊に吹き飛ばされ動かなくなった少女の記憶が蘇る。
男の顔が見える。太い腕が振るわれる。あの中に踏み込んでも、自分には何も出来ない。
トゥヴァリの頬を、涙が伝う。
部屋が、不意に静まった。赤い絨毯の上に投げ出された肢体。その指先が、ぴくりと動いた。絨毯を握りしめ、扉へ這いずってくる。
「おっと。今日はまだ役目がある、精霊王よ。ついて来い!」
男はそう言って長い黒髪を掴み、それを引きずって向かってくる。
トゥヴァリの手が扉を離れる。慌てて、しかし足音を立てぬように、廊下の奥へ逃げ出した。
▪︎
『北地区の広場に集まれ』
頭の中で声がした。広場にいた人々はお互いに声を聞いたことを確かめ合い、家にいた人は外に出た。林で遊んでいた子どもたちを呼び集め、ぞろぞろと通りを歩く。
「今日、感謝の日なの?」
子どもたちは、普段と違う町の様子にはしゃいでいる。
既に集まっていた北地区の人々で、既に広場の半分が埋まっていた。西地区と東地区がほぼ同時に集まって、通りに溢れた。
レニスは、不安に襲われていた。
こんなふうに町の全員が集まることなど、今までなかった。
押し合う体の熱と、途切れないざわめきに、息が詰まりそうになる。
「ふん……家畜どもめ。繁殖させられ、群れになったか」
頭上からの声に、レニスは顔を上げた。
大階段の上に男が一人。人々を見下ろし、満足げに立っていた。
「聞け! 俺の名は賢人ナリファネル! 貴様ら人間の、王だ!」
「王とは何だ?」
「精霊王ではなく……?」
あちらこちらで、どよめきが広がる。
ナリファネルは嘲るように笑った。
「なぜ俺が王になるか、教えてやろう。悪魔の親玉を捕らえたからだ。精霊王セレニアと名乗る化物をな!」
男は長い黒髪の少女の腕を掴み、大階段を引きずるように降りてくる。
「だが安心しろ、貴様らは救われたのだ。俺はこの死神を屈服させた! こんな化け物よりも俺を崇めろ!」
少女が乱暴に蹴り落とされた。
階段に肩や腕を打ちつけながら、転がり落ちてくる。
人々が息を呑む。
少女が止まった瞬間、広場はしんと静まり返った。
「あの……ナリファネル様!」
一人の女性が、か細い声を張り上げる。
レニスを押しのけ、人をかき分けて、ミスラが前に出ていった。
「私の娘は、早く死にました。まだ順番ではなかったのに……それは、何故ですか?」
一瞬、空気が張り詰める。
ナリファネルは、高らかに笑った。
「そんなもの、こいつの気まぐれに過ぎん。哀れなお前の娘で食欲を満たしたのだ」
「食欲……?」
「そうだ! 精霊は人間を食う。赤く光輝く悪魔だ」
「そんな……精霊は、私たちの世話をしてくれるのではなかったのですか?」
「騙されていたのだ! お前たちは精霊の餌! そのために生かされている。だが、俺のおかげでお前たちは助かるのだ。死にたくなければ、俺に従え。今この時からアルソリオの王は、このナリファネルだ!」
精霊たちはいつものように、静かに漂っていた。
倒れていた少女はゆっくりと起き上がり、ナリファネルの後に続いて宮殿へ戻っていく。
広場はざわついていた。目にしたものを口々に確かめ合いながら、誰もが困惑した顔をしていた。やがて人波が動き出し、それぞれの地区へ散っていく。
レニスは広場に残り、トゥヴァリの姿を探した。
一ヶ所に集められた人々と、精霊王、そして乱暴な男――。今起きたことは、ジェニマスやペルシュがよく話していた物語に似ている。
(あいつは、ペルシュと同じようなことをしてた……。トゥヴァリなら、ナリファネルという男の話が、わかるんじゃないか)
しかし、いくら探してもトゥヴァリはどこにもいなかった。




