糸穂の章 35
糸穂は花嫁道具の陰にうずくまり、あたりの様子を探った。
話し声が聞こえる。使用人たちが話しているのだろう。宴の準備のための食器がぶつかる音、廊下を行き来する足音。
早くしないと、トキが戻ってきてしまう。糸穂の動悸が速くなる。
糸穂は懸命に、においを探った。しかし、漂っているのは料理のにおいが強い。出汁や醤油、酒。時折混じるのは、タバコのにおいだ。
猿の名を呼びたいが、それは禁じ手だ。ただ一度の機会をここで使うわけにはいかない。
廊下を小走りにすぎる足音、玄関なのか勝手口なのか引き戸が開く音、雑多な音にまぎれて話し声も混じる。
中には糸穂のことを噂しているのも聞こえた。
色白、赤い目、まだ子どもじゃないか……。ご主人様も物好きな。海城さまは金持ちっていってもご維新の少し前くらいからだろう。花嫁は海城さまのところで、なんだか怪しい仕事を手伝っていたとか。
糸穂は頭を振った。
噂話になど耳を貸すな、今は山椒の香りを探さなくては。トキが戻ってきてしまう。
「糸穂」
不意に障子が開く音がして、糸穂は反射的に体が飛び上がった。トキが帰ってきてしまったのだ。糸穂は手探りで部屋を逃げ惑った。積みあがった花嫁道具の陰に隠れ、次の間の襖を探した。
「糸穂? どこだい?」
駄目だ、見つかる。その時、あの山椒の香りが鼻を突き抜けた。
猿だ、猿が来たのだ。
糸穂は匂いのするほうへ這ったまま進むと、襖を開き、腕を伸ばした。
「おっと、これはこれは花嫁さんじゃないか」
糸穂の細い手首は掴まれた。その手のあまりの冷たさに糸穂は悲鳴をあげそうになった。
「なんとか祝言の時間に間に合ったかと思えば、花嫁はかくれんぼか?」
襖を開けられ、山椒の香りと紛れもない寒川の声がした。
「さ、寒川さま」
よりにもよって、猿と寒川を間違えるとは。糸穂の全身に冷や汗がふきだした。
「しゃがめ!」
糸穂は反射的にしゃがんだ。板の間だろうか、いや絨毯が敷かれている。頬に毛足の柔らかさがあたる。
「あ、寒川さま。汽車が遅れていると聞きましたが、間に合ったんですね」
トキが花嫁道具の部屋の襖を開けたのだ。糸穂は寒川に頭を軽く蹴飛ばされ、四つん這いで体を奥へと退かせた。
「ああ」
「糸穂を見ませんでしたか? わたしが菓子を取りに行っている間にどこかへ行ったみたいで」
トキの声はわずかに上ずり、不安げだった。
「さあ。わたしはいま来たばかりだ。ご不浄じゃないのか」
「ああ、だから打掛を脱いで……屋敷の者に聞いてみます」
トキの足音と気配が遠退いていく。糸穂は床に這いつくばったまま、きつく握った拳をゆっくり開いてため息をついた。
「おい、時間はないぞ」
寒川に声をかけられ、糸穂は跳ねるように起き上がった。
「祝言を蹴るつもりでいるだろう。逃げきれなかったらどうする気だ?」
そう問われると、糸穂はふるえる手で懐剣を取り出して見せた。寒川のため息が聞こえた。
「そこまでの覚悟をしていたか。やはりな」
糸穂は体を起こして正座した。まだ体は硬く、冷や汗は引かない。
「解決策は思いついたのか?」
寒川の問いかけに糸穂はうなずいた。何日も何日も考えたのだ。今の糸穂はその答えを持っている。ただ、それが正しいのかそうでないかは、部屋へ入らなければ分からない。
「御囲部屋で……」
「おっと、それ以上は言うな」
糸穂は寒川に止められた。
「もう一度だけ、御囲部屋に入らせてもらえたなら」
「おまえはもう、御囲様じゃない。今部屋に入ったら、これまでの十倍くらいの速さで命が削られるかもしれんぞ」
「それでも、かまいません」
もう心に決めてあるのだ。糸穂は計画をやめるつもりはなかった。
「頑固者め。入れたとしても、すぐに倒れるぞ。そのまま影になって異界を彷徨うことになるだろう」
「それでも」
糸穂にはもう道がなかった。御囲部屋へ入るか、現世で自害するかの二つしか。
「糸穂、取引だ。お前の望む者を呼んでやろう」
寒川は、糸穂が探している者の見当がついているのだろうか。やけに断定的な口調だ。
「三つ目の、軽口をたたく……猿」
糸穂は絶句した。御囲部屋のことは、誰にも話すことはできないと言っていたのは、寒川ではなかったか。どうして具体的に猿のことを言い当てられたのだ。
すうっと、寒川が深く息を吸う、かすかな音が糸穂の耳にとどいた。
「我は汝の真の名を知るもの。我の命を聞き届けよ、常夜見猿王」
腹に響くような低い声だった。とつぜん、部屋の中につむじ風が巻き起こった。風が止むと、山椒のにおいは、いや増した。
「嬢ちゃん」
紛れもなく、耳に馴染んだ猿の声だった。
「糸穂を連れて行ってやれ」
ふん、と猿の息がした。
「ガキのころから変わらんな、美匣」
猿は寒川のことを糸穂の知らぬ名前で呼んだ。寒川の返事は無かった。
「糸穂、こいつに連れて行ってもらえ。その前に、取引の契約をする。常夜見猿王が立会人だ」
腰を浮かせた糸穂は、顔を押さえつけられた。冷たく長い指が額から目の下までを掴む。寒川の手だ。
「汝、我が願いを聞き届けることを誓うべし。願いはただ一度、されど拒むことは許されぬ。その時が来たならば、必ず異界を離れ、現世へと帰還せよ。天地覆ることなく、必ずやこの誓いを守るべし。決して破ることなかれ」
糸穂は寒川の唱える文言が「見える」ような気がした。まだ読めぬ「文字」になって、体へしみ込んできたのだ。
顔から手を離されると、糸穂は数回咳をして胸を押さえた。
「もっとも、この契約はお前が生きてこそだ。部屋へ行って、お前の運を試せ」
「さ、いくぜ嬢ちゃん」
猿に手を取ってもらうと、糸穂の現世では見えるはずのない目が曇りを取り去るように視力を与えられた。
部屋の中に、羽織袴姿の青年が立っていた。伸ばしたうねる髪をひとつにまとめ、丸眼鏡にうすい笑みを浮かべている。
糸穂は寒川の顔を初めて見た。思っていたよりずっと若い。そう思う間もなく、次の瞬間には猿と御囲部屋の中にいた。




