糸穂の章 34
祝言の日、日の高いうちから糸穂は風呂に入れられた。
「今日は、うんと綺麗にしてもらうんだからね。髪も高島田に結って。きっと似合う。別嬪さんになるよ」
「わたしには、見えないけどね」
「それは言いっこなしだ」
ふたりは笑いあった。
トキは糸穂の背中を洗ってくれた。風呂場には、すきま風と一緒に雪片がまじるのか、糸穂の暖まった肌にときおり冷たいものが当たる。
「あいにくと、名残雪が降っているけど、夜までには止むらしいよ」
雲の流れを読むのが得意な者が、屋敷にいるらしい。
花嫁衣装に着替えたら、人力車で海辺の造り酒屋へ糸穂は嫁ぐ。
祝言は、清之介が糸穂のために建てた新居で開かれる。
参列者は清之介の身内、海城夫婦、トキと寒川といったごくこぢんまりした人数だ。
トキは糸穂が嫁ぐと信じて疑わない。
糸穂は極力トキと普段通りの会話をしながら、胸の動悸を悟られないようにした。
ごめんなさい、トキ。母親代わりだったトキをわたしは裏切る。
糸穂は湯船で顔を洗った。泣き顔を見せてはいけない。わたしは幸福な花嫁だ、と糸穂は自分に言い聞かせた。
人力車で海城の家から、新居まで移動する。雪は降り止んだが、道には積もっているらしい。人力車の揺れはひどく、車夫の荒い呼吸が糸穂の耳まで届いた。花嫁道中は難儀しながら、海辺の造り酒屋まで時間をかけて進んだ。
「ようこそ、糸穂さま。本日はお日柄もよく。おめでとうございます」
そう話したのは、誰なのか。おそらくは女中頭だろう。トキほどではないが、落ち着いた女性の声だった。多くの者が正座して頭を下げる気配がした。それから、きれいとか、かわいいとか、小さな声が聞こえた。玄関に屋敷中の者たち全員がそろって出迎えたらしい。
糸穂は背筋を伸ばし、それからゆっくりと頭を下げた。育ての親のトキや養い親の海城に恥をかかせるわけにはいかないのだ。
糸穂はトキに手を引かれながら、新居へと足を踏み入れた。
みな、持ち場へ戻ったのだろう。屋敷では多くの声や物音がしていた。祝言の準備の慌ただしさが伝わってくる。
新しい木の香りがする長い廊下をいくと、障子が開けられる音がした。
「こちらでお待ちください」
糸穂は背もたれのない椅子に腰を下ろした。
「ずいぶん立派なお屋敷にしたもんだねえ」
トキがため息交じりに話した。糸穂はごくんとつばを飲み込んだ。
「お屋敷はどんな感じかしら。海城さまのお屋敷と同じくらいの広さ?」
「まさか、海城の屋敷よりはずっと小さいよ。でも、八畳のお座敷は四つあるだろう。ここの隣もそうだよ。それに、外からみた感じでは、洋間もあるんじゃないかね。三角屋根が突き出ていたから」
トキが襖をそっとあける音がした。
「隣には、花嫁道具が並べられているよ。海城のご主人さまが、ずいぶんと持たせてくれたものだ」
寒川の言うとおりではなかったが、糸穂がねだらずとも、海城の主人は糸穂が恥ずかしくないよう、一級品を持たせたらしい。
「それから……」
トキが話を続けようとしたとき、廊下を駆けてくる音が響いたかと思うと、おとないもなく障子が勢いよく開かれた。
「糸穂さん」
清之介の声はそこで一旦途切れた。深呼吸がなんどか聞こえたかと思うと、清之介は部屋に上がり糸穂の前で止まった。
「あんまり綺麗で、息が止まるかと思いました」
うっとりとした艶のある声で糸穂に話しかけた。
「祝言までにはまだ時間があります。この雪で汽車に遅れが出て、寒川様はまだいらしていません」
「そう、ですか」
たぶん、糸穂の企みには寒川はいないほうがいい。寒川がいたら、おそらく止められてしまうだろうから。糸穂は少しほっとした。
「それから、先日は襟巻と手袋、ありがとう」
「いえ、そんな」
清之介から贈られた毛糸で、糸穂はマフラーと手袋を編んだのだ。
「わたしには、それくらいしか出来ないので」
糸穂がうつむき加減で話すと、トキが二人の話に割って入った。
「いえ、糸穂は縫物もできますよ。浴衣やシャツも縫えます」
「それは素敵だな。糸穂さん、ぜひわたしのシャツを縫ってくださいね」
糸穂はあいまいにうなずいた。それでは、と清之介は部屋から出て行った。
「よかったね、糸穂。花嫁姿、清之介さまも喜んでくださった」
清之介にとっては、花嫁との新しい暮らしを思い描いているのだろう。糸穂は胸の中で詫びた。様々な準備も、糸穂の計画が首尾よくいけば、すべて台無しになるのだ。
祝言の日まで、糸穂が考え抜いたことを実行するのを待ったのは、祝言の日でなければ猿は来ないだろうからと思ったからだ。猿はおそらく、糸穂のことを見ている。蔵に閉じ込められたときも、法要のときも、猿は糸穂を見ていたのだ。だから、きっと祝言の時にも猿は来ると糸穂は思った。
「トキ」
「なんだい」
「トキ、なにか食べたいわ」
糸穂はトキに声をかけた。
「祝言になったら、花嫁はろくに食べられないからね」
糸穂はうなずいてトキに懇願した。
「甘いものがいいわ。海城の奥様が、洋菓子を差し入れに持っていくからって」
「カステラじゃなく?」
「ちがうわ、洋菓子。シュウクリームか何か」
トキがポンとひとつ手を打った。
「ああ、確かにそんなことを言っていたね」
海城の夫人は、新しい屋敷の者たちへ挨拶がてらの差し入れを持っていくと話していたのだ。
わかったわかったと、トキが立ち上がる音がして、障子が開く。縁側から、夕陽がさしているのが、糸穂の目にうっすらと感じられた。
「トキ」
うん? とトキが応えた。
「ありがとう」
糸穂はできるだけ、普段どおりにトキに声をかけた。
「なんだい、いきなり。たいした手間じゃないよ。待ってな」
ぱたんと障子が閉まる。糸穂はやにわに立ち上がると、白打掛を脱ぎ捨て襖を開けると隣の座敷へ身を潜めた。
ここからだ、と糸穂は思った。
きっと猿はいる。糸穂は息を吸った。においを探せ。御囲部屋のにおい。
山椒のような、あのにおいを。
糸穂は帯に差した懐剣に、そっと手をおいた。




