糸穂の章 33
糸穂が御囲様を引退してから二週間ほどしてから、清之介からお届け物があった。それは蓄音機だった。
「あまり高価なものは……」
糸穂が清之介へ苦言を呈すると、困ったようなけれど、どこか地に足がついていない様子で清之介は応えた。
「春になったら、糸穂さんとわたしは夫婦になるわけですし、蓄音機は新居へ移るまで置かせていただくことで海城さまから許しを得ていますから」
そういうと、清之介はレコードに針を落とした。糸穂の知らない音楽が座敷に流れた。春を思わせる明るい曲調だった。曲は、アオとの思い出を蘇らせ胸が苦しくなった。
糸穂は、アオのことを思わない日はなかった。
もう御囲様の役目から解放されたのだ。初めて御囲部屋に入った時の恐怖を思えば、今の長閑さを心から受け入れたらいいのに。
「糸穂は、命を懸けて役目を果たした。海城に遠慮なく金を出させろ。それくらいの稼ぎをおまえはあげたんだ」
こともなげに寒川は言うと祝言には出席すると約束して帰っていった。
祝言は三月と決まった。月日が過ぎていくことを止めることはできない。
「糸穂は青が似合うけれど、若い娘にはやっぱり赤が映えるよ」
トキは座敷に呼ばれた呉服屋が並べた色打掛を、糸穂の体にあてた。
「着物はこれ、それから黒留を。家紋は三輪様のところのを間違いなく入れておくれ」
白無垢はこちらと、どんどん決まっていく。
「糸穂、祝言の装いには母様からの鼈甲の髪飾りを使わせてもらおうね」
トキは糸穂の実家から届けられた飾りを大切に保管していてくれた。その気持ちはありがたい。
ただ、誰も聞かないのだ。
この話を進めていいのか、と。
もっとも、糸穂はまだ年端のいかぬ乙女だ。それに、後ろ盾になる肉親もいない。海城の家に入るときの条件に、御囲様の役目が終わったなら、海城の家がよい嫁ぎ先を世話するという約束があったのだ。
糸穂はいらだちと悲しさとで、夜の寝つきが悪かった。食事も満足に喉を通らなかった。
眠れぬ夜に、糸穂は思い切ってトキへ話してみた。
「トキ、わたしは、嫁ぐにはまだ早いと思うの」
「……なぜだい?」
「なぜって、わたしは炊事も洗濯もできない。やったことがないんだもの」
「だから清之介さまは、新しく奉公人を雇うといっているんだよ。おまえは何も心配しなくていい」
そうまで言われると、言い逃れのしようがない。
「想い人でもいるのかい」
糸穂は口をつぐんだ。沈黙が答えだった。トキはため息をついた。
「向こうの連中なら、あてにならないよ。諦めることだ」
「……だって、子どもの頃から一緒なのよ?」
トキは糸穂のほうへ寝返りを打つと、糸穂の頭を撫でた。
「糸穂、どんなに長くいても所詮、住む世界が違う。影と一緒になれるはずがない」
アオは影ではなかった。ふれると、温かだった。アオの胸に抱かれていると、なんの不安もなく安心できた。
清之介との暮らしに、アオ以上の安らぎが得られるものだろうか。
「清之介さまは、海城さまのお墨付きだ。おまえを任せるにふさわしい殿方と海城さまも認めてらっしゃる」
「トキは? トキの縁談も海城さまが決めたの? でもトキは戻って来たんでしょう? わたしもうまく行かなかったら、戻ってこられる?」
トキのため息が聞こえた。
「祝言を挙げるまえから、縁起でもないことを言うんじゃないよ。おまえはわたしとは違う。きっとうまくいく。旦那様に可愛がられて赤ん坊が生まれたなら、万々歳さ」
なんでもできるトキですら、うまくできなかったのに、自分はできるのだろうか。
「……トキ、トキはあの手巾を向こうの誰かに渡したの?」
いつぞや黒羽織の袂から取り出された手巾、トキが糸穂に問い詰めた手巾のことだ。
「そんなのは、忘れた。話は終わり、もう眠るんだよ」
清之介へ嫁いで、赤ん坊が生まれたなら……。糸穂はアオを忘れることが、できるだろうか。
糸穂は、居室にひとりいた。
祝儀の詳しい打ち合わせにトキは出かけていたのだ。最近は御囲部屋がある居室よりも、表座敷で過ごすことが多くなったが、糸穂は日のささないひんやりとした居室にいるほうが、落ち着けた。
御囲部屋の板襖は糸穂の手では開けられなくなった。まるで鍵がかかったように、がんとして動かない。
糸穂は途方に暮れて、板襖に寄りかかった。
節分が過ぎ、祝言まで一月を切った。外から小鳥の声が聞こえるようになった。暖かくなってきた証拠だ。
このまま清之介の嫁と、なるしかないのだろうか。
うっすらと涙を浮かべた糸穂は、畳に爪を立てた。
すると、背中に振動を感じた。
あわてて振り返り、襖に耳を当てた。こんこんと、向こう側からたたかれている。糸穂は夢中でたたき返した。
――嬢ちゃん。
猿の声だった。糸穂は板襖に耳を押し当てた。
「嫁に行くんだな。仕方ない、嬢ちゃんは人だ」
トキと同じことを言うことに、糸穂は衝撃を受けた。どれほど親しくしていても、住む世界が違うのを猿は理解していたのだ。
「おめでとう。奴は、まあ俺から言い含めておくから。じゃあな」
それきり、声は途絶えた。糸穂の見開いた目から涙が流れ、着物の袂をぬらした。
糸穂は襖を力一杯叩いた。何度もなんども、拳で。痛みでしびれるほどに。
ほんとうに、これで異界のものたちとはお別れなのか。
おそらく二度と襖は開かないのだ。
でも、と襖を叩くのを止めて糸穂は目をきつくつぶった。
――なにか方法があるはずだ。諦めてはだめ。考えるんだ、諦めない。なにか特別なやり方が。
糸穂は涙にむせびながら、きつく目をつぶった。
もしかして、その手法は糸穂の命を天秤にかけるような危ういことかもしれない。
――でも、アオといられないのなら、生きる意味なんてない。
考えろ、考えろ。
糸穂は、板襖の前に座り続けた。




