糸穂の章 32
糸穂が初潮を迎えた日の夕食には、赤飯が届けられた。
「おめでとう、糸穂。これで御囲様の役目も終わりだ。もう御囲部屋には入らなくていいんだよ」
糸穂は痛む腹に湯たんぽをあてて、唸っていた。こんな急に、御囲様の任を解かれるのかと。
「寒川の坊ちゃんへも電報を打ってもらったから、二・三日の間にこちらへ来られるようだ。意外と近いところにいたんだね」
寒川にお願いして、部屋に入らせてもらえないだろうか。
アオと別れるなど、受け入れがたいのに。いっそのこと、御囲部屋に立てこもろうか。たとえ命が短くなっても、アオといられるならばそれでいいと糸穂は思いつめた。
「へんな考えを起こすんじゃないよ。清之介さまで何が不満なんだ、この上ないかただろう」
言われてしまえばぐうの音もでない。それでも、清之介はアオではないというのは受け入れがたい事実なのだ。
「ご飯を食べなさい。おまえのために炊かれた赤飯だ。鯛の尾頭付きだって、海城さまがお祝いのためにわざわざ用意してくださったんだから」
糸穂は口をへの字に曲げた。屋敷じゅうに、糸穂の初潮が知られているのが、顔から火が出るほど恥ずかしい。
糸穂の食は進まなかった。
四日ほどして、寒川がやってきた。
「今年は何度も海城にばかり来ているな」
「ぼっちゃん、冬に薄いコート一枚きりで」
そうトキがこぼすから、おそらく寒川は年中一重のコートを着ているのだろう。糸穂とトキ、寒川は表座敷で顔を合わせた。はやく火鉢のところへ、とトキが寒川にすすめた。
「ところで、糸穂。おめでとう、引退まで生き延びたな」
「は、はい」
生き延びた、なんてお祝いに使う言葉には似つかわしくないのではないか、と糸穂は思った。それでは、逆に生き延びるのが珍しいような口ぶりだ。
「次の御囲様は、見つかりそうですか」
トキの問いかけに、寒川はしばし口をつぐんだ。
「いないことはない、二人ばかりあげられるが、向こうの家との交渉がまだついていない」
御囲様になれそうな子を文字通り、買ってくるのだ。寒川ははたから見たら、人買いとしか言えなくもない。
「あの、寒川さま。わたしはもう一度でいいから、御囲部屋へ入りたいのですが」
がちゃんと音がした。誰かが茶碗を落としたのだ。
「無理だ。初潮を迎えたら部屋へは入れない。血の匂いを向こうの連中は嫌う」
「で、では、その月のものが終わったなら」
そうすれば、出血はしていない。
「おまえは、もう子どもから大人へ変わったんだよ」
トキが糸穂を言い含めるように、ゆっくりと話した。
「なりたくて、なったわけじゃないもの」
糸穂は膝の上で、手をぎゅっと強く握った。
「向こうに未練があるとでもいうのかい? 向こうの連中は何のあてにもならないんだよ」
急にトキの口調がきつくなる。糸穂はまるで叱られているような気持ちになった。
「そう頭ごなしに言うな、トキ」
寒川にたしなめられ、トキは舌鋒を引っ込めた。
「向こうに何かあるんだな? 話してごらん」
はい、と糸穂は応えて今日こそは、アオのことを話そうと思った。
「あ、っくっ」
なぜか声が出なかった。糸穂は喉に手を当ててあえいだ。息さえうまくできない。
なんで? 話したいことはたくさんあるのに!
涙目で寒川の方をにらむ。寒川は次にトキに命じた。
「トキはどうだ。トキに未来を教えた妖は、どんな奴?」
「そんな、いきなり」
そこまで言ったあと、トキは沈黙した。いつまで待っても、一向にトキの声がしない。
「坊っちゃん、これは」
苦しげなトキの声がした。トキも話せなかったのだ。なぜ?
寒川は、ため息をついた。
「御囲部屋の中を語るのは、禁忌だからだ」
「禁忌?」
糸穂が寒川へ尋ねた。初めて聞く言葉で意味が分からない。
「しては、いけないことだ。御囲部屋のことは外部に話せない。せいぜいが、抽象的なことばかり。具体的には話せない。おれも同じだ」
えっ、トキと糸穂は声をあげた。
「驚くか、そりゃ驚くよな。おれは一度だけ、御囲部屋へ入ったことがある」
それはつまり、寒川も御囲様になる適性があるということだ。
「それで、これはおれの憶測でしかないのだが、部屋の中の見え方感じ方は、人によるんじゃないかな」
「それは、わたしと糸穂では、同じ場所でも違うものに見えていたと?」
「中にいた者たちも、景色も違う。糸穂には美しく見えたものも、おれやトキには恐ろしいものに見えるのかもしれん」
糸穂は言葉をなくした。
黒羽織も、猿も、アオでさえも……糸穂が見ていたのは、彼らの真の姿ではなかったのだろうか。
「御囲部屋の者と、現世の者とでは互いに持ちつ持たれつの関係だ。おれたちは妖から未来の話を聞く、妖はおれたちから命を削りとっていく。失敗すれば、異界に閉じ込められる」
「わたしが、まだ生きているのは……」
トキが呆然とした声で呟いた。
「トキはうまく務めを果たした証だ。むこうに深入りもせず、連中に肩入れもせず」
そんな……とトキの声が小さくなる。糸穂には、トキの様子が寒川にほめられて嬉しい、と思っているようには聞こえなかった。
「大袈裟に聞こえるかもしれないが、生きてお役目を終えただけで、大したものなんだ。糸穂、これからがおまえの人生なんだよ」
寒川の声は、今までにないほど柔らかだった。




