糸穂の章 31
「こないだ、わたしに洗濯を頼んだ手巾だよ。どこで手に入れたんだい」
トキの声はいよいよ低くなった。糸穂は、御囲部屋のことを口にすることを躊躇った。むかし御囲さまだったトキには、部屋の内部の様子は百も承知だろうけれど、糸穂の口は縫い合わされたように閉ざされた。
「……返してくるんだよ」
そうとだけ言うと、あとはいつものように糸穂の着物を脱がせて、浴衣へ着替えさせた。
「おやすみ」
トキはそう言ったけれど、寝つけないようで何度も寝返りを打っていた。糸穂は、手巾を見てひどく立腹しているようだったトキをいぶかしく思った。
手巾は黒羽織の懐から取り出されたものだ。とうぜん、黒羽織のものだと糸穂は信じて疑わなかった。それがなぜトキを怒らせたのか。
糸穂もまた眠れなかった。
御囲部屋に入ることは、寿命を縮めることだと黒羽織は言う。過去の御囲さまたちが幾つくらいまで生きたのか、糸穂は今まで考えたことはなかった。ただ、身近にはトキがいる。トキは間もなく七十と言っていたような気がした。それならば、特段早死にするということでもないように思える。むしろ長生きだ。
ーーでも長生きしたところで、アオとは一緒にいられないのなら、何の意味があるんだろう。
清之介は、悪い人ではないだろう。ただ、糸穂の話を聞いてくれない時点で、他の人とどれほどの違いがあるのか。
この先、糸穂の話に耳を傾けてくれる人などいるのだろうか。
現世にも異界にも、じぶんの身の置き所はないのかもしれない。そう思うと、糸穂の胸はしんしんと冷えてくるのだった。
清之介は、強引ではなかったが、まめだった。
時間が空くと、糸穂を訪ねてくるのだ。あるときは、手土産に花をもって、あるいは珍しい菓子をもって。
それは、目が見えない糸穂のことを考えてのことだろう。
「清之介さまは、気の利くおかただね」
トキは清之介を誉めるのだが、糸穂はただ顔をしかめた。
「糸穂さんは、何がお好きですか?」
日当たりのよい表座敷の縁側に腰をかけて、清之介は糸穂へ尋ねた。
「これといって、何も……」
糸穂が重い口を開くと、トキがそれを補うように話を継いだ。
「この子は、編み物が得意で。毛糸があればね。糸穂や」
しぶしぶと糸穂がうなずく。
「では、次には毛糸をもってまいりましょう。色は何がお好きですか?」
「……アオが好きです」
せめても口にする。糸穂はすぐにでも御囲部屋に入りたくなった。
先日、部屋へ入ったときには、黒羽織へ手巾を返した。
すると気まずそうに受け取ると、値上がりする株の銘柄を二つほど糸穂へ伝えただけで姿をくらませた。
「あれをまだ持っていたとはなあ」
猿は懐手にして、一言こぼす。猿は黒羽織の後ろ姿を見送った後、糸穂とアオをみた。
「おれたちは、何も言葉を交わせない。御囲さまの役目をうまく果たす奴ほどな。返事をしたら、影になるだけだ」
猿はため息をつくと、障子をあけて向こう側へ行ってしまった。あいつもなあ、六十年近くも前だろうに、と呟くのが聞こえた。
糸穂は、アオにもたれた。
……おれたちは、何も言葉を交わせない。
確かにそうだ。
御囲部屋の者たちとは、話すことはできない。返事をしたなら、影になる。
影になったらどうなるんだろう?
障子の向こう、異界の深いところにある屋敷には、人気はなかった。ずらりと並べられたお膳は、影たちが食べるのか、それとも供物なのか。
糸穂はアオの胸に耳をあてた。
アオの体は、温かった。ただ、温かだった。
けれど、鼓動は聞こえなかった。アオは、妖なのだ。それが糸穂の胸を苦しくさせた。
清之介と見合いをした年の暮れ、糸穂はひどい腹痛で目が覚めた。呻きながら身を起こすと、下着に違和感を覚えた。布団をめくると、鉄のにおいがした。
「トキ、トキはどこ」
立ち上がると、腹の痛みに体をまっすぐに出来なかった。腹に手を当てて、再び夜具の上にうずくまった。
「糸穂、どうしたんだい」
水場のほうから、トキが駆けつける音がした。糸穂は腹部の鋭い痛みにうなった。脂汗が額に浮かぶ。
「トキ、おなかが痛い」
病気だろうか。実の母は若くして病になったという。自分も同じなのだろうか。糸穂は貧血を起こしそうになった。
鉄のにおいにむせて、糸穂は吐きそうになる。トキは、驚きすぎたように声さえ上げない。
「糸穂、おめでとう」
「何が?」
トキは糸穂の手を握った。
「月のものが」
糸穂は叫びそうになった。その先の言葉を聞きたくなかった。
「月のものが来たんだよ」
糸穂は切りつけるような痛さに、布団に突っ伏した。鉄は血の匂い。ついに来てしまった。
「海城さまへお伝えしなければ」
やめて、やめてと糸穂は声にならない声を上げた。




