糸穂の章 30
糸穂は御囲部屋に入ると、やにわに走った。天井から吊るされた灯りの下、思い切り走った。すると、まるで意地悪したように、廊下はいつまでも長くなかなか黒羽織たちのところへつかなかった。
すっかり息があがるころ、ようやくいつもの広間に着いた。
「どうした、嬢ちゃん。えらく慌てて」
黒羽織と酒を酌み交わしていた猿が糸穂を見た。黒羽織はしたり顔で杯をあおる。
糸穂は、息を整えることもせず、アオの胸に顔を埋めた。
「こりゃ、お熱いことで」
猿が面白がるような声をあげたが、糸穂は、聞き流した。ようやく五日ぶりにアオに会えたのだ。
アオは、糸穂の頭を柔らかく抱きしめる。
「糸穂、おまえは何をしにここへ来ている? そいつと逢い引きするためか?」
以前の糸穂ならば、黒羽織にたしなめられたなら、居住まいを正した。けれど今日の糸穂は違った。いつまでもアオから離れない。
アオと一緒にいるときの安心感は、なんなのだろう。
守られている、怖いものがまるでない。
糸穂はうっすら浮かんだ涙をぬぐった。体を起こしてアオを見ると、糸穂を見つめて微笑んだ。
「嬢ちゃん、さては縁談のことか?」
猿は杯を置くと、糸穂に尋ねた。糸穂は一瞬核心を突かれて驚いたが、猿は闇から闇へ渡り歩けるらしいから、糸穂の動向も見ているのだろう。
「造り酒屋の若旦那だろ? あそこは神棚にいい酒をあげてくれる」
猿は舌で唇をペロリとなめた。
「よそ様のお供えに手を出すな」
黒羽織が猿へ苦言を呈した。猿は悪びれる様子がなく、手酌でついだ杯を干した。
「結構イイヤツだろ? 若旦那。酒造りに熱心だし、酒造りの職人たちへ敬意を払う。あそこの酒蔵くらい、旨い飯を出すところはないぞ」
たしかにそうだった。見合いの席での若旦那ーー三輪清之介は、物腰が柔らかだった。
「今すぐ、祝言をとはいいません。糸穂さんはまだ十五でしょう? 十六までわたしは待ちます」
その間に、新居を普請するし、奉公人も手配すると言っていた。
「まだ時間があります。ときどき会いに来てもよろしいですか?」
そんなふうに糸穂へ声をかけた。
糸穂はろくに返事さえできなかった。清之介は、糸穂が苦手なたばこの匂いがしなかった。どこか深い森の匂いがした。
法要で見かけたとき、なんて綺麗な娘さんだと思いました、と少しはにかむように話していた。
トキはまたも舞い上がり、糸穂は目こそ不自由だけれど、編みものも縫い物も人並みにできます、と太鼓判を押してみせた。
糸穂は、もうなにも言ってほしくなかった。
誰の言葉も聞きたくなかった。
「誰もわたしの話をきいてくれないの?」
糸穂は叫びだしそうになった。美しく着飾られ、座っているだけなら、人形だってかまわないはずだ。
わたしは、アオ以外は考えられない。
そう言えたなら、どんなにか……。
「おまえは、それを受けるしかあるまい? 海城に引き取られるときの、取り交わしだ。帰る場所もないのだ。とつがなければ、野垂れ死にだ」
「ほんとおまえって奴は底意地が悪い」
「真実をいったまでだ」
なに食わぬ顔で言いはなつ黒羽織、それをいさめる猿。
糸穂はアオの体に寄り添ったままでふるえていた。そうだ、自分には行くあてなどない。実家へはもどれない。目が不自由な体でどこで働けるのか。
いっそ、このまま部屋からでなければ……。
「糸穂、アオ目当てで来るのはかまわんが、己の命を削っていることを忘れるな」
黒羽織の言葉に、糸穂はぱっとアオの胸から離れた。
「向こうの連中に聞かなかったのか? この部屋にいる時間、生者は寿命と交換しているんだ」
つまり、異界にいる時間だけ、生きる時間が減っていく。
糸穂は蒼然とした。握りすぎた指がさらに白くなる。
「むこうに戻ると、ひどく疲れているだろう。命を抜かれているんだ、疲れもする」
たしかに、御囲部屋から戻ると、最低でも丸一日は床に伏せることになる。
「妖と生者は共にいることはできない」
黒羽織は静かに杯を下ろした。猿の視線は黒羽織と糸穂たちを何往復かして腕組みをした。
「でも、できないことはない、だろ?」
「う……っ」
なにか秘策があるのか。糸穂は黒羽織を見た。すると黒羽織は懐から扇子を出すと、わずかに赤くなった顔を隠した。
糸穂はそんな黒羽織が珍しくて、首をかしげて扇子の隙間から表情を覗こうとした。
「今日はもう帰れ! おまえにはまだ早いんだ!」
なぜか突然怒りだすと、アオと糸穂を広間から追い出した。
猿はゲラゲラと腹を抱えて笑っている。
「あいつの言うとおりだ、帰んな。アオと手をつないでな」
猿は笑いすぎて出た涙を拭いて、糸穂たちに促した。
糸穂は釈然としないまま、アオに送られて部屋を出た。
糸穂が部屋を出るのを、トキは待っていた。それはいつものことだけれど、いつもより張り詰めた空気を糸穂は感じた。
「これ」
と、トキは糸穂の手に柔らかい布をあてた。おそらくは手巾だ。
「どこから、手に入れたんだい?」
静かだが、どこか怒気を含んだ声に糸穂はたじろいだ。




