糸穂の章 29
「いい縁談なんだよ。造り酒屋の若旦那。結婚したなら二人の住まいを別に構えるって言っている。舅たちと同居しなくていい、なんて極楽だよ。それに糸穂に奉公人をひとりつけてくれるから、お前はなんにもしなくていいんだそうだ」
糸穂は、トキの興奮した声を聞いて鼓動が早くなっていった。
縁談? ようやく、アオが帰って来たのに?
「あっ」
糸穂はトキに説明しようとしたが、声が詰まった。アオのことを、なんと説明するのだ。トキはきっと異界に住む、妖のものと断じるだろう。トキは異界を知っているのだから。
「こんどの休みには、改めておまえに会いたいそうだ。着物はどれにしようかね。奥さまにお願いしたなら、新しい髪飾りを用意してくださるだろうから……」
トキの一人語りは止まらない。
女は嫁いで子を成すのが、幸せだとトキは信じて疑わない。
トキは、たとえ目が不自由であっても、若く美しい糸穂はしかるべきお相手を、と常日頃思っていたのだろう。
まるで我がことのように、舞い上がっている。
反して糸穂は、いますぐにでも御囲部屋に戻りたかった。またアオの腕のなかで安らぐことができたならと、そればかりを考えてしまう。
「それから……」
なおもトキは続けたが、糸穂は不意に強い吐き気に見舞われた。手元の手巾で口許を押さえた。
「どうしたんだい、大丈夫かい?」
糸穂がえずく音に、舞い上がっていたトキがさすがに気づいた。
すぐにトキが持ってきた洗面器のお陰で、大事にならなかった。
「口をゆすぎなさい」
トキが糸穂を洗面所へ連れていってくれた。
「でもどうしたんだい、いきなり吐くなんて。食あたりかなにかかい、それとも」
そういうと、トキは糸穂の額に手を当てた。
「熱はないみたいだ。もう寝なさい。すぐに蒲団を敷くからね」
糸穂は強く握っていた手巾を、洗濯をするようトキへ渡した。見合いや祝言といった言葉を連想するだけで、気分が悪くなる。腹や胸が熱くなって、激しい吐き気となる。
このまま、縁談を断れないのか。糸穂には断る権利はないのだろうか。
糸穂は目を閉じた。開けていても、こちらでは何も見えはしない。皮肉にも。
造り酒屋の若旦那は、三輪清之介といった。背の高い、笑顔が優しい人だという。
糸穂が目を覚ますと、すでに明日会うことに決まっていた。あまりのことに、糸穂は茫然としたがトキは手際よく糸穂の身支度を整えた。糸穂の体をすみずみ洗い清めると、長い髪を洗い、顔の産毛を慎重に剃った。
「いまが夏でよかった。糸穂はしばらくそこで髪を乾かしていな」
トキは表座敷の縁側、日差しをよけた位置に椅子を持ってきて浴衣姿の糸穂を座らせた。
蝉の声がする。今は夕方か。糸穂は風に混じるかすかな潮の香を懐かしく思った。
もし、自分に二親がそろっていたなら。急な縁談など、はなから無い話だろう。
けれど、母が亡くなり父が後添えを迎えて、ひとり離れに置かれたことで、アオにも会えたのだ。なんとも歯がゆいことだ。糸穂は足の指先で縁側の廊下をなぞった。磨かれた板はなめらかで、ひんやりとしていた。
「着物はどれがいいだろうね。ああ、奥様が髪飾りと帯締めを貸してくださったよ」
座敷へ、トキが下女と共に衣装を運び込んだ。今夜の夕食は遅くなりそうだ。糸穂はため息をついた。




