糸穂の章 28
「そろそろ離れてはどうだ」
黒羽織の声に、糸穂はようやく顔を上げた。すぐ間近にアオの顔があった。さっきまでアオの胸で泣いていたのに、糸穂は急に恥ずかしくなってアオから離れた。
泣きすぎて、きっと顔は人様に見せられないことになっていると思えば、恥ずかしくてまた袖で顔を隠したくなる。
「猿、隠れていないでこれを」
黒羽織は懐から手巾を取り出して、柱のほうへ腕を伸ばした。
「感動の再会じゃないか。もう少し物陰から見ていたいってもんだろ」
「ただの覗き見だろうが」
猿は舌を出して、じぶんでひたいをピシャリと打つと、黒羽織から受け取った手巾を糸穂へ渡した。
思わず、礼を言いそうになるのを、糸穂はぐっとこらえた。顔を拭いてアオを見ると、アオは糸穂を愛しげに見ている。
「男前に仕上がっただろう?」
糸穂は急激に頬が熱くなるのを感じた。たしかに、アオは美しい顔立ちをしていた。
秀でたひたい、切れ長で涼しげな両目、通った鼻筋に、かすかに紅い唇。
糸穂はアオの頬にそっとふれてみた。アオは触れても以前のような儚さはなく、皮膚の下の体温が感じられた。
「あ、あ……」
アオが声をあげた。まるで春先に聞く白鳥の鳴き声のように、姿に似合わぬ声だ。
「体を優先させたら、声が追いつかなくて。まだあまり話すことができないんだ」
猿はアオの体について教えてくれた。
「でも、嬢ちゃんは名前を呼ばれたら、迂闊に返事をしちまうだろうから、逆によかったかな」
猿は腕組みして笑った。黒羽織は飽き飽きといったようすで座っている。
「もういいだろう。とりあえず話を聞いていけ。手ぶらでは帰れないだろうが」
糸穂はうなずいて、居住まいを正した。
「これは、すぐ起きることではない。まだ少し先のことだ」
黒羽織は前置きをして話し出した。
「金を買え。現金はだめだ。紙くずになるだろう。そう伝えよ」
糸穂は手をつき、頭を下げた。
「それから、部屋に供える酒は、もっといいものにしてくれよな。こないだのは、ひどかったじゃないか」
猿が、不満げに言う。しまり屋の海城が指示したのだろう。前回の法要のときよりも、格下の酒を供えたらしい。
それにもまた、糸穂は頭を下げた。
勤めは終わった。もう帰らなければならない。けれど、糸穂はアオと離れがたかった。せっかく形をととのえたアオと、いつまでも寄り添っていたかった。
「今日は帰りな。なに、アオならいつでも会える。もう大丈夫なんだ」
猿に促されて、糸穂はしぶしぶと立ち上がった。アオも同じく立ち上がると、糸穂の手を取った。
「送ってくれるようだ、よかったな嬢ちゃん」
糸穂の頬がじんわりと熱くなった。アオと目線を合わす。アオは、切れ長の目をゆっくりと細めて、糸穂を見つめた。
身に余るほどの幸せを感じつつ、糸穂とアオは手をつないで帰った。アオの手は少し冷たく、なめらかだった。そして変わらず、花の香りがした。
板襖のところまでくると、アオは糸穂をいちど抱きしめた。糸穂は心臓が口から飛び出るかと思った。それでも、アオの衣ごしに、アオの体温を感じられてほっとした。たしかに、アオは体を持ったのだ。
糸穂は、居室へ戻ると板襖のまえにしゃがみ込んだ。
「どうしたんだい、急に泣き出して」
トキが糸穂に声をかける。
糸穂の頬を、幾筋もの涙が滑り落ちた。
たった今別れたばかりなのに、もうアオに会いたい。見えないこちらがわよりも、御囲部屋のほうがいい。
糸穂は黒羽織から渡された手巾で涙を拭いた。
「泣くのはおよし、糸穂、いい知らせだよ」
糸穂は嗚咽を漏らしながら、なんとか涙を止めようとした。トキの筋張った手が糸穂の手を掴んで握った。
「縁談がきたんだよ、糸穂。こないだの法要のときに、来ていた酒屋の若旦那様だ。見染められたんだよ」
頭を重いもので殴られたような衝撃が糸穂を襲った。




