糸穂の章 27
すぐにでも、御囲部屋に入りたかった。
しかし、法事の後、糸穂はまた熱を出してしまった。いきなり魂を抜かれて、体に負担がかかったのだろうか。
暑いさなかでも、御囲部屋の隣にある居室はどこかひんやりとしていた。居室に敷かれた布団のなかで糸穂はじりじりと日々を過ごしていた。
——早く、早く部屋に入りたい。アオはきっとわたしを待っている。
そう考えるだけで、じっとしていられないのだ。
「トキ、もう熱は下がったから」
「いいえ、まだです。まだ寝ていなさい」
糸穂は、額に濡らした手拭いを乗せられ、トキからうちわで風を送られながら、ひとり心ばかりが焦っていた。
あの草原のなかで手を振っていたのは、きっとアオだ。アオの体が出来上がって繭から出てきたのだ。
もうアオにふれても大丈夫だろうか。以前のように崩れたりしないだろうか。
着物とも少し違った、ふわりとした軽い布地でつくられたゆったりとした狩衣に似たものを着て、アオは御囲部屋で待っているのだ。
——名前を呼んでくれるだろうか。でも、名を呼ばれたら……どうしよう、わたし、わたし……。
きゃっと、思わず布団を上げて顔を隠してしまいたくなる。
「どうしたんだい、顔が赤いよ。熱があがったのかい」
「ち、違うの。これは……大丈夫なの。熱はすぐに下がるから」
「なら、おとなしくしていなさい。いずれにしろ、あんたは御囲部屋に入るのがお勤めなんだから」
はい、と糸穂は答えた。
あと、どれくらい御囲様でいられるだろうか。糸穂はもう十五だ。いつ月のものが始まってもおかしくないのだ。
月のものが来たなら、御囲様を辞めなければならない。辞めたなら、どこかへ嫁入りだ。いつまでも海城の家に居座るわけにはいかない。そういう取り決めだ。
少しずつ、ふくらんでくる胸にとまどう。糸穂の体は大人になりつつあるのだ。時を止めることはできない。
どうかまだ、来ないで。
糸穂はそう念じるしかなかった。
それから、五日後。糸穂はようやく熱が下がり体調を取り戻した。
「今夜は御囲部屋に入ってもいいでしょう」
「まあ、食事も全部食べられましたからね。いいでしょう」
トキの許可の言葉に、糸穂は胸の前で手を握り締めた。一日千秋の思いで待ち続けた。今夜ようやく部屋に入れるのだ。
赤い振り袖に手を通し、トキに帯を締めてもらう。着付けの時間ももどかしく、糸穂はなんども勝手に動き出してはトキに小言を食らった。
「動くんじゃないよ、子どもじゃあるまいし」
トキは糸穂の髪を高く結い上げた。それから、頬をそっと撫でた。
「顔色がよくなっている。これなら大丈夫だろう」
糸穂はうなずいた。
「そう、それでいい。返事をしてはいけないよ」
きゅっと、糸穂の胸はせつな冷たくなる。
——そうだ、もしも名を呼ばれても応えてはいけないのだ。
糸穂は唇をかんだ。
「いっておいで」
トキが板襖を開けた。糸穂は異界の風を浴び、目をしかめた。駆け出すまい、糸穂は胸に刻んで足を踏み出した。
糸穂の視界の煙が少しずつ晴れていく。走るまい、と思っていたのにいつの間にか早足になっていく。万灯篭のように火がともる回廊を糸穂は急いだ。
いつもの広間に着いたときには、糸穂の息はあがっていた。
「幾日ぶりだ。仕事熱心なことだな」
黒羽織だ。顔を上げると黒羽織がいた。糸穂は息を整えて立ち上がると、広間をぐるりと見わたした。
黒羽織以外、誰もいない。猿もいない。糸穂は思わず黒羽織をにらんだ。
「おいおい、わたしが何をした。おまえの仕事を果たせ。そうだな、今日は……」
いつものように始めた黒羽織が憎らしかった。五日も布団の中で我慢してたどり着けば、いつもと変わりがない。
思い人は、どこにもいない。
糸穂は鼻の奥がひりひりと痛くなった。いつの間にか目に涙が溜まる。泣くまいと思うほど、涙があふれた。
黒羽織の前で泣きたくなんかない。
糸穂は袖で顔を隠してうずくまった。声を押し殺し、涙を止めようとした。
黒羽織が、面倒くさそうに「ああ」と声をあげた。と、糸穂の肩をそっと抱く者がいた。大きな手だ。長い指が糸穂の肩に乗せられる感覚がした。
やにわに糸穂は顔を上げ、振り向いた。
ゆがんだ視界の先に、誰かがいた。
それは、糸穂を見つめてほほ笑んだ。弧を描く眉、通った鼻筋、額に長い髪がかかる。
糸穂は叫びそうになった。
叫んではいけない。
糸穂は、その人の胸の中に顔をうずめた。肌にふれる柔らかな絹の滑らかさ。花の香りがする。おぼえているその香りは。
——アオ。
糸穂はアオの胸の中でむせび泣いた。




