糸穂の章 26
読経が始まった。腹に響く声だ。和尚は何歳くらいだろう。少なくとも若年よりは中年寄りだろう。糸穂は頭をさげ、数珠を手にかけた。
お経とは、こういうものだろうか。
糸穂は、葬儀にも法事にも出たことがなかった。この同じ文言が何度も繰り返されるものが、経なのだと言われたら、信じるしかなかった。
なんだか、体が揺れる。細かく揺れる。なんだろう、冷や汗が流れる。糸穂は苦しさから、いちど頭を上げた。と、誰かにぐっと肩をつかまれ、引きあげられた。
ああ、読経の途中で立ち上がってしまった。きっとトキに叱られる。
ありえないことに、糸穂はうろたえた。
糸穂。
名を呼ばれ、声の方に顔を向けると、座敷と座敷の間、天井近い欄間の影に中に猿がいた。
目が、見える。
足下を見ると、座って頭をさげている自分が見えた。
魂だけ、抜けてしまったのだろうか。
糸穂はあまりのことに、狼狽した。猿が腕を伸ばして糸穂を影の中に引き込んだ。
「糸穂、ようやくだ」
何が? 糸穂は首をかしげた。猿は糸穂の腕をつかむと、影の中にひとすじ光が差すほうへ手を伸ばした。伸びる、猿の腕は信じられないほど伸びて、光のなかへ指を入れる。猿はそこをこじ開けた。とたんに、慣れたにおいが流れてきた。
御囲部屋だ。いつの間にか、御囲部屋に入り込んでいたのだ。
「いいか、驚くなよ」
猿は糸穂を障子の前へ連れていった。
こんなものがあったのか。
糸穂は自然と開いた口をあわてて両手で覆った。猿が障子を開けると、その中には立派なお屋敷があった。
猿に引っ張られて、初めて障子をくぐった糸穂は整っているのに人の気配がまるでしない屋敷を見た。
庭には、色とりどりの花が咲き乱れ桜の花が満開だった。
座敷には、箱膳が整然と並べられ、湯気の立つ味噌汁と茶碗に盛られた飯があり、焼き魚のにおいがしていた。
誰が住んでいるのだろう。猿や黒羽織のような異界の者たちの住まいだろうか。
そのくせ、しわぶき一つ聞こえない。
「こっちにこい」
猿に手招きされていった先に、水が張られた桶があった。糸穂の両手で囲えないくらい、大きなものだ。
「顔を突っ込んで目を開け」
えつ、と糸穂は後ずさった。水に顔を漬けたことなどない。ましてや、水の中で目を開けるなんて。
「いいから」
猿は糸穂の頭を掴むと、強引に水の中に頭ごと突っ込ませた。糸穂は、瞬間気を失うかと思った。頭を上げようにも、猿に押さえつけられている。
「目を開け、糸穂」
口からがぼがぼと泡がはきだされる。目を開けるなんて、芸当ができるはずがない。
けれど、早く解放されたくて口を閉ざした。猿の言う通り、こわごわと目をこじ開けた。
とつぜん、視界が晴れた。息が苦しくなくなった。
糸穂はまるで天井の梁にいて、下を見ているように感じた。
下は、緑の草原だった。誰かが立っている。
青い衣、長い髪をたなびかせ糸穂に手を振る。
顔を覆っている薄い布が、風にふわりと舞い上がる。細い顎、血色のよい唇、通った鼻筋それから……。
アオ!
叫びそうになったとき、糸穂は一瞬にして息が苦しくなると、そのまま意識を失った。
「糸穂、糸穂!」
耳元で誰かが叫んでいる。糸穂はゆっくりと目を開けた。何も見えなかった。魂が体に戻ってきたらしい。
叫んでいたのは、トキだった。糸穂の冷たい手を握っているのもトキだろう。
「よかった、糸穂。急に倒れたりするから」
糸穂の周りに人の息遣いが感じられる。もしかして、法事を台無しにしてしまったのではないか、糸穂はあわてて居住まいを正して、平伏した。
「もうしわけございません、わたし、わたし」
とんでもない無作法なことをしてしまったと、糸穂の体は小刻みにふるえた。
「だいじょうぶか、糸穂」
寒川の声だった。肩にそっと手が乗せられる感覚がした。
「急に倒れるから、みんなが驚いたんだ。別室で休みなさい。よろしいですよね、海城さま」
う、うむ、という詰まったような返答がした。
「さ、行きましょう」
糸穂はトキの手に掴まり、なんとか立ち上がって座敷を後にした。廊下に出ると、夏の日差しをかすかに感じた。
蝉の声、母屋の軒先の風鈴の音。
糸穂はまるで雲を踏むような、頼りなさを両足に感じた。胸の鼓動はまだ早かった。頬が熱く感じる。
草原にたつ人。
あれは、アオだ。




