糸穂の章 25
大正十三年七月。糸穂は十五歳になった。
ふだん六月に海城を訪れる寒川がやって来た。
「それにしても、よく快気できたと思うよ」
寒川はいつもの一重のコートと、とっくりのセーター姿のようだ。
「明日は、きちんとした格好をしてくださいよ」
寒川がトキに叱られているのを聞いて、糸穂は笑った。
明日は、御囲部屋の特別なお祭りなのだ。祭りは二十年に一度だと、糸穂はトキに説明された。
糸穂は去年の予測で海城の命を守れた事から、食欲を取り戻した。今は年頃の娘らしい体になってきている。
「良質な鉱脈も見つけられたというじゃないか」
「地震の一件以降は、ほとんど嘘を言うことがなくなりました」
「そのあたりは、糸穂の技量だろう」
寒川の声には、糸穂を賞賛する響きがあるように思えた。
実際、黒羽織は糸穂の意志の強さに根負けしたようだった。それに、御囲部屋での糸穂の視力は戻ってきた。久しぶりに、猿にも会えた。
ときどき、糸穂は御囲部屋の中にいるほうが、心が安らぐように感じるようになった。本当はいけないことだろうけれど。
「明日は、町の商家の旦那衆も呼ぶらしいですよ」
「御囲部屋のことを、言いふらす気じゃないだろうな。欲にかられた連中は手に負えないぞ」
「先々代の法要ということにするらしいですよ」
御囲部屋のことは、皆に知らしめるものではない。少しでも先の事を知る事ができれば、どれだけ財産を得られるだろうか。誰でも喉から手が出るほど欲しいと思うだろう。
「まあ、大がかりな法要にして、誇示したいのだろうな。さまざまに」
おれはもう疲れたが、と寒川が小さくつぶやいた声を糸穂の耳は聞き逃さなかった。まだ二十代の寒川から糸穂はときおり、疲弊した老人のような気を感じることがある。
この人は、まるで人生を何度も繰り返しているようだ。
「糸穂、水羊羹をいただきなさいな。奥様からの差し入れだから」
「はい」
「おれも食べるよ」
「坊っちゃんは、さっきも召し上がったでしょう」
寒川はトキにたしなめられ、抗議の声をあげる。
「寒川さま、わたしのを半分さしあげましょうか?」
「それは糸穂のぶんだから、糸穂がたべなさい」
えー、と寒川が不満げに言うから糸穂は笑ってしまった。
糸穂はトキと寒川のやりとりの中にいるのが、心地よく感じられた。
例大祭は、御囲部屋の成立に深く関わっているらしいけれど、寒川は糸穂へは説明しなかった。
「ただ、おれの高祖父が海城の御囲部屋を作ったようだから。先祖の法要とは、まあこじつけだ」
例大祭の朝、寒川はトキに紋付袴を着付けされたらしい。衣擦れの音がいつもと違う。
「髪はきちんと結ってくださいね」
「はい、はい。分かっている」
適当な受け答えにしか聞こえない返事を寒川は返している。
「糸穂、おいで。海城さまが、おまえ用に着物をあつらえてくださったんだよ」
トキは糸穂の手を取ると、着物の上をなでさせた。絹のなめらかさが指にすい付くようだった。
「浅黄色だ。糸穂には、青色がよく似合うよ」
浅黄色の地に、裾と袖に薄桃色の花水木が描かれていると、糸穂はトキに教わった。糸穂の視力では、ぼんやりとした色味しかとらえられなかったが、着心地はよかった。
「さあ、いきましょう」
トキも紋付きの着物をまとい、三人は広い屋敷の中を移動した。
糸穂はトキに手を引かれながら、海城の屋敷が思った以上に広かったことに内心驚いていた。
「ちょうど、御囲部屋の反対側に回ったことだから」
トキは糸穂に小声で教えてくれた。御囲部屋のに反対側は、また座敷があったのだ。
すでに人のざわめきが聞こえた。十、いや二十・三十だろうか。ひとりひとりのにおいと、声があいまっている。それに、糸穂は一斉に視線が向けられたことを感じ取った。声が止んだのだ。
こわい。
まるで、物珍しいものを見たとでもいうような、あけすけな視線だ。糸穂は怯んだ。小声で糸穂を値踏みするように評するのが聞こえる。
「どうした、はやく座れ」
寒川の声が糸穂を促した。
「終わったら、甘いものでも食べよう。なに、すぐに終わる。足がしびれる前にな」
まるで親戚の子に声をかけるようにして、寒川は前の方へと去っていった。
「糸穂」
落ち着いた声で、トキが糸穂の手を引いた。糸穂はいちどつばを飲み込むと、ゆっくりと足を動かした。糸穂とトキの座る位置は、廊下側の一番後ろだった。
末席の一角を占める、素性の知れない女ふたりは参列者の関心を惹いたらしい。
それでも、寒川が大叔母と親類の娘が海城へ奉公にあがっているのだ、とだけ言うと座敷の興味はおさまった。
目の不自由な娘が、何の奉公か疑問はあるだろうが、口をつぐんでいれば、それらしく見えるだろうと、糸穂は静かにしていた。
座敷のざわめきが落ち着くころ、廊下をわたる足音が近づいてきた。たばこと白粉のにおいがする。海城夫妻だろう。それから、かぎなれないにおいがした。線香だろうか。匂袋に似ていると糸穂は思った。
海城夫妻と、あと一人が座ったようだ。
鐘と鈴が鳴り、読経が始まった。




