糸穂の章 24
普段は、トキとのふたりだけの暮らしだから浴衣で過ごしているが、海城の前に行くならばそうはいかない。
トキは糸穂に麻の着物を着せつけた。麻は独特のシャリ感があって、涼しい。
「来年はもう少し肉付きがよくなっていれば、いいね」
帯が余りすぎると、トキの嘆く声がする。糸穂はトキに申し訳なく思った。
「もう少し、食べるようにするから」
糸穂の返事に、トキはため息をつく。
今日は藪入りで、奉公人が実家へ帰る日だが、帰る家のないふたりだ。普段はにぎやかな屋敷も静かだ。
海城は手が空いてるので、今日会うことになったのだ。
「糸穂、大丈夫かい。今にも倒れそうな顔をしているけど」
糸穂は額に手をあてた。冷たい汗がうっすらと浮いている。鼓動がいつもより早いような気がする。糸穂は深呼吸をなんどか繰り返した。
「平気よ、大丈夫」
髪を整えてもらい、屋敷に残ったわずかな使いの者が外の鍵を開けた。糸穂はトキに手を引かれ、表座敷へと移動した。
タバコのにおいが徐々に濃くなる。風鈴の音、座敷のところの縁側の戸が、すべて開け放たれているようだ。頬をなでる風に海の気配が混じる。
日差しが暑い。たしかに今は夏なのだ。御囲部屋がある居室は、いつもひんやりとしているから、真夏の光に糸穂はよろめいた。
「糸穂、そちらに座りなさい」
海城はいつもの椅子に座っているのだろう。糸穂は海城の前に座る。海城が糸穂を見下ろす位置になるのだ。
「御囲部屋で聞いたことを話して貰おうか」
はい、と糸穂は返事をすると、値上がりする株の銘柄をいくつか口にした。
「それから、どうしても申し上げたいことがございます」
そう言うと、糸穂は腰を浮かせて座布団をどけた。畳のうえを後ろにいざると、糸穂は深く頭を下げた。
「どうか、九月に帝都へは出かけずに」
「糸穂、またそれか。去年も一昨年も同じことを言っていたが、今年もなのか」
「はい、ですが今年は、今年こそが本当なのでございます。どうか、九月には帝都へは行かず……」
海城の大きなため息が聞こえた。きっとあきれているのだ。糸穂だとて、確たるものは何もない。ただ、己の勘が真だと伝えている。
「わたしの商談を、また邪魔する気なのか。去年も一昨年も、おまえの見立てが外れたせいで、損害を……」
海城のぼやく声に、糸穂はきっぱりと言いはなった。
「この予測が外れたなら、わたしを遊郭へ売ってかまいません」
トキが、糸穂! と叫んだ。糸穂はかまわず続けた。
「帰る家のない身ならば、どこへ行こうと生きるだけです」
海城が、ぐっと息を飲むのが聞こえた。
「それほどの覚悟ならば、いま一度おまえの言葉を信じよう」
海城は、そう応えると座敷から出ていった。
「糸穂、おまえなんてことを」
トキの声はふるえていた。糸穂の体も小刻みにふるえた。言うしかなかったのだ。自分の人生をなげうつ覚悟がなければ、二年続けて外れた同じ予測を海上は聞き入れてはくれなかったろう。
もし、違っていたら? いや、かならず当たるのだ、と糸穂は強く念じた。
八月が終わり、迎えた九月。
昼近く、大地が一度大きく揺れた。
それがなんだったのか、北の漁村に住む者たちには理解できなかった。
すべてがつまびらかになったのは、翌日の新聞を見てからだった。
海城は急遽、糸穂を表座敷へ呼んだ。白粉のにおいがする。夫人も同席するようだ。糸穂の頬がぴりりと痛んだ。
「帝都で、かなり大きな地震が起こった。死者もかなり出たらしい」
糸穂は、瞬間息を止めた。ついに、当たった。だからと言って喜べるだろうか。多くの被害を出しながら。
「糸穂、褒美をとらせる。なにが欲しい?」
「何も。何もございません。慈悲深い主さまならば、地震にみまわれた方々に、どうかご寄付を」
糸穂は、深く頭を下げた。海城は、そうか、とだけ言った。
頭を下げたままの糸穂の横を海城と夫人が通りすぎていく。
ふたりが去るやいなや、糸穂はトキに体を起こされた。
「糸穂、奥方さまが、あんたに頭を下げていったんだよ!」
「え?」
「おまえの失言を聞かなかったことにするって意味だよ。海城様の命を救ったのだもの!」
そうなるのか。糸穂は半年間の肩の重荷をおろした。




