糸穂の章 23
季節は夏を迎えたが、糸穂には汗をかくほど暑さを感じられずにいた。すべては、薄い膜一枚隔てた向こう側のことのように思えた。
もしかしたら、糸穂は半分くらいのからだを御囲部屋に置いてきてるのかも知れない。
糸穂は口を堅く閉ざし、耳を澄ます。
黒羽織の言葉のゆらぎを、わずかなズレを聞き取れ。
糸穂の目は、御囲部屋の中ではもうほとんど見えなくなってしまった。わずかな明暗がわかる程度だ。
だから、黒羽織の様子を全身全霊で探らなければならない。それは、においであったり声の調子であったり、黒羽織がまとう波動の強弱を感じとる。それはとても骨が折れ、糸穂に緊張を強いることだった。
糸穂は床に平伏して、黒羽織の言葉を待った。
「糸穂、こんなのはどうだ。九月の帝都に近づいてはならない」
糸穂は思わず顔を上げた。九月に帝都へ出かけてはならない、黒羽織は過去にも二度、同じことを言った。
「ああ、去年と一昨年は外したか」
ぱちん、とお気に入りの扇子で手をたたく音がした。
さあ、この話に乗るか。三年同じ予測だ。糸穂は迷った。二年続けての嘘、今年こそ当たるのか。それともまた嘘なのか。
糸穂は見えない目を黒羽織に向け、呼吸を整えた。黒羽織はきっと糸穂を見ている。怯むな。糸穂は口を引き結び、一礼すると立ち上がった。
両手で前を探りながら、摺り足で板襖を目指して移動する。途中で、黒羽織の笑い声が聞こえた。いつものことなのだ。目が見えなくなった糸穂をあざ笑う声だ。
猿はめっきりと姿を見せなくなり、黒羽織と一対一の対面は、糸穂の体力をさらに奪った。
けれど、自分にはアオがいる。まだ音沙汰は無いけれど、繭の中で体を作っている。待つことしかできない。海城の家から追い出されない事が大切だ。いつ寒川が糸穂から御囲様の地位を奪うか分からない。
だから、無理をおして食事をとり、浅い眠りの中で体を休める。
必ず、アオに会うのだ。
糸穂の心は揺るがなかった。
どれほど歩いたのか分からない。ようやく、指先が板襖にふれた。がらりと開けると、一気に浮き世のにおいがした。
それは湿った夜具や、離れた場所から漂ってくるタバコの残り香だったり、朝食を用意する厨からのかすかな賑わいだったりする。
ほっと、息をすると糸穂は畳に膝をついた。
「大丈夫かい、糸穂」
トキが糸穂を労り、湯飲茶碗の水を差し出す。糸穂は一気に飲み干した。冷たい水が喉を落ちていく。
朝早くから、蝉が鳴いていた。今日は暑くなるのだろう。
「少し横になりたい」
糸穂の言葉に、トキが応じて糸穂の赤い振り袖を脱がせ、髪をほどいて浴衣に着替えさせてくれた。
「お休み」
トキに言われる間もなく、糸穂は眠りに落ちた。
夢の中でなお、糸穂は考えていた。
黒羽織の三度目の予測は、嘘か真か。
ーーわたしは。
目が覚めたなら、海城に伝えなければならないのだ




