糸穂の章 22
六月。例年通り、寒川が海城の家へやってきた。
「糸穂、無理をしていないか」
開口一番、寒川は表座敷に座る糸穂を見てそう言った。
「大丈夫です」
「きちんと食事はとっているのか、トキ」
寒川はトキに尋ねる。トキは寒川と糸穂に茶を供してから応えた。
「なにぶん、御囲部屋で根を詰めていて。食が細くなりましたし、夜中にうなされたり飛び起きたりすることもあって」
「トキ、何遍も言うけれどわたしは大丈夫だから」
糸穂のきっぱりとした口調に、トキはため息をついた。なんて強情なんだろうと呆れているのだろう。
「いずれにしろ」
寒川が茶碗の蓋を外す音がした。それからわずかな沈黙。茶を飲んでいるらしい。
「おまえの命に危険が及ぶのなら、わたしがおまえを御囲様から引退させる」
「しません」
糸穂がきっぱりと応えると、トキの小さなため息か聞こえた。
「……むこうに気になる奴でもできたか」
寒川の声は一段低く、囁くように声をひそめた。
糸穂は、きゅっと唇をかみしめた。
けれど、それが全てを物語るのだということを、まだ少女の糸穂は知らなかった。
長いため息を糸穂は聞いた。それは寒川のもののようだった。
「魅入られてしまったか。どんなやつだ、なれ合うなと言ったはずだ」
寒川は糸穂に詰め寄る。糸穂は後ずさった。アオの事を口にしようとしても、うまく説明できなかった。
どう伝えればいいのか。子どものころから、ずっとそばにいてくれた存在、その親しさと愛しさ。今は繭になっている、アオを待っているということ。十年という時の長さと待つことの寂しさ。
糸穂の喉はまるで石を飲み込んだようにふさがり、涙があふれた。
「泣かれてはな。トキ、おまえの時はどうだったんだ」
「ぼっちゃん」
咎めるようなトキの声がした。糸穂は瞬間耳を疑った。トキもいたのだろうか、御囲部屋の中に特別な存在が。
「女同士のほうが話をしやすかろう。あとは頼んだ。急ぎの時にはわたし宛に電報を打て」
寒川が立ち上がる気配がした。異界の香りをまといながら、寒川は帰って行った。
「仕様のない子だよ、糸穂。もう泣くのはおやめ」
トキは糸穂に手ぬぐいを渡した。糸穂はいまだ流れる涙を拭いた。
「やっかいなことになったね。あちらの連中はまともじゃないのに」
「トキにはいたの、向こうの人たちの中に」
「連中は人じゃない、化け物だよ。本気になっちゃいけなんだ」
トキの言葉は、どこか苦しそうに糸穂には聞こえた。
「嫁ぐまで、海城のお屋敷に住まわせて貰った。名前を呼んでくれるのを待ったよ。ばかだったよ。いっそこちらから名前を呼んでやろうか、なんて思った」
トキは糸穂に立つように促した。
「あまり根を詰めるんじゃない。おまえのお勤めはまだまだ残っているんだ」
糸穂はトキに手を取って貰って居室へ戻った。
「トキはもう忘れたの」
一瞬、糸穂の手を握るトキの指に力が入った。
「忘れたよ」
少し笑いを含んだトキの声はどこか艶めいていた。きっとまだ忘れてはいないのだ、と糸穂は思った。
黒羽織なのか、それとも猿なのか。それとも、別の者なのか。
トキはたぶん忘れていない。胸に仕舞っているだけだ。糸穂はなぜかそう思った。
糸穂は決して忘れない。アオの手を取ったときのことを。甘い香りを放つアオの、思いがけず軽い体を。崩れてしまう、はかない体を。
また、アオと会えるまで、糸穂は御囲部屋で黒羽織から「真実」を聞き取る。それが糸穂自身が御囲様で居続けられるただ一つの方法なのだ。
それまで、猿ぐつわ無しで、糸穂は黒羽織に挑む。そう決めていた。
「今夜も部屋に入る」
糸穂の言葉に、トキのため息が聞こえた。




